周回遅れの読書報告(その30) 新聞を読む経済学者
- 2017年 10月 15日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
森嶋通夫といえば、彼がどこかで奥村宏のことを高く評価していたのだが、それがどこだったのか思い出せないということを、この報告の(その14)で書いた。それが思い出せないまま、奥村の『株とは何か』を読み終えた。ついでに奥村が書いた本を何冊か追加入手し、読むことにした。大半が会社主義や株を巡る本だったが、一冊だけやや対象が違った本があった。『経済学は死んだのか』という題名の本であった。これを最初に読みたかったのだが、我慢して最後に回した。奥村の書いたものは、彼が象牙の塔に籠っていたわけではないこともあって、だいたいが読みやすいのだが、この本は、いつもにもまして読みやすかった。実際、あっという間に読み終えてしまった。
現場の経済研究者である奥村から見れば、経済の現実から遊離した経済学は、マルクス経済学であろうが、近代経済学であろうが、「死んでいる」ことになる。奥村に限らず、経済の「現場」にいる人間は大体がこう批判するが、職務上経済の「現場」にはいようのない大学人は多分反論できまい。そうである以上、大学人はそのことを自覚する以外にはないことになる。厳しい話だが、マルクスがジャーナリストとして、生きた経済の観察の中から理論を生み出していったことを想起するならば、象牙の塔から出ようとしないマルクス経済学などというのは実に奇妙な代物だというになる。いや、形容矛盾というべきか。徐々に減ってはいるが、多くの国家公認の大学でマルクス経済学者が教育研究の対価として給料をもらっているのは、ある意味でこの国のマルクス経済学にとって決して幸運なことではなかったかもしれない。
奥村が言うには打開策がないわけではない。新聞を読むことである。奥村のいう「新聞を読む」はただし容易なことではない。その読み方を奥村は『判断力』(岩波書店)で紹介しているが、これはもともとは羽仁五郎を含むマルクス経済学者たちがドイツ留学時代の経験を日本に持ち込んだものである。しかし、その後の日本のマルクス経済学者はその方法を実践しようとはしなかった。一体なぜであろうか。たしかに「新聞を読む」方法は時間と労力のかかる作業であるが、それが理由になるとも思えない。日本の大学関係者には、新聞記事を材料に研究することを卑下する、悪しき傾向があるように思えてならない。
森嶋通夫が奥村のことを高く評価していたのは『終わりよければすべてよし』(朝日新聞社)でだったが(奥村自身が『経済学は死んだのか』でそのことを紹介している)、森嶋によれば、日本の「新聞を読む経済学者」は、マルクス経済学者とはいえそうもない奥村と近代経済学者というべき篠原三代平だけだった。
経済の現実に対峙する力を失っているという点では、日本のマルクス経済学者も、アメリカからの輸入経済学に頼っている日本の主流派経済学者と同様である。しかし、取り巻く環境に関しては前者の方がもっと深刻である。マルクス経済学は決して「学問のための学問」ではなく、政治的実践的課題をその深部に持つ研究であるはずだが、現状ではその実践的課題との緊張関係を見出すのが困難になっているからだ。
1930年代の終わりにカタロニアの硝煙の中に消えていったスペインのアナキストは「くだらぬ統計などやめにしよう! 統計はわれわれの脳髄から熱を奪い、われわれの血液を渋滞させる」と叫んだが、現在の経済学が「われわれの脳髄から熱を奪い、われわれの血液を渋滞させる」状態から脱却するのは容易ではなさそうだ。
奥村宏『経済学は死んだのか』(平凡社新書、2010)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7032:171015〕
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