10/28現代史研レジュメ:いかなるポスト資本主義を構想し、いかに実現するか -ポール・メイソン『ポストキャピタリズム』を読む-
- 2017年 10月 23日
- スタディルーム
- 内田 弘
はじめに-プロローグに寄せて-
本書『ポストキャピタリズム:我々の将来への指針』(Postcapitalism: A Guide to Our Future, Farrar, Straus and Giroux, New York, 2015, p.i-xi, p.1-340;佐々とも訳、東洋経済新報社、2017年、1ー474頁、注1ー20頁)の著者ポール・メイソン(Paul Mason)は、イギリスのジャーナリストである。テレビキャスターからジャーナリストに転じ、Meltdown: The End of the Age of Greed [メルトダウン:貪欲時代の終焉]やWhy It’s Kicking Off Everywhere: The New Global Revolutions [なぜ新しいグローバル革命がいたるところで始まっているのか]などの著作を執筆している。英米の体制内からポスト資本主義を構想する思想家の一人である。このことは、メイソンが本書で気候変動の危機を力説し本書の原著のカバーに、あの『ショック・ドクトリン』のナオミ・クラインが「生態系の危機は、我々を深刻に襲撃している経済システムに、死の兆しを示している。このことは、ポール・メイソンが本書で《無慈悲に》といってよいほどに暴露している」という推薦文をよせていることにもしめされている。最近、クラインの『これがすべてを変える:資本主義・対・気候変動』(上下2分冊、岩波書店、2017年)も刊行されている。二人はポスト資本主義をめざす盟友であろう。
[ポスト資本主義への移行は火急の課題] 日本政府が核兵器禁止国際条約に署名しないことに対する批判が、全日本国民のものになっていないことに対応するかのように、気候変動への危機意識は日本ではそれほど強くない。一方、メイソンによれば、2008年の「リーマンショック」以来、人類は各国が内乱状態に陥り、核戦争の危機が高まっている。イギリスのEU離脱、バルセロナの独立など国際秩序が動揺している。
メイソンによれば、このような危機には二つの経路がありうる。
ひとつの経路は、「グローバル・エリート・モデル」であり、危機回避のコストを社会的弱者にしわ寄せする経路である。もう一つの経路は「社会分断」である。現代国家は互いに、危機回避のコストを他国に負わせようとする。メイソンは「これらのどちらのシナリオでも、気候変動、高齢化、人口増加の影響が2050年頃から急速に強まる。もし持続可能な国際秩序を構築し、経済のダイナムズムを取り戻すことができなければ、2050年以降の数十年間、世界は混沌としたものになるだろう」とみる(佐々とも訳4頁)。このような深刻な見通しのもとで本書の目的をつぎのように確認する。
「私がこの本を書いた狙いは、なぜ、《資本主義に取って代わること》がもはやユートピアのような夢ではないのか。どうすれば、既存のシステムの中で、ポスト資 本主義経済の基盤を築くことができるか、どうすれば、ポスト資本主義経済を早急に普及させることができるか、このような諸問題を説明することにある」(訳5頁)。
[資本主義とは如何なるシステムか] メイソンはポスト資本主義を構想するさいに、そもそも資本主義とは如何なるシステムであるかを規定している。
「資本主義はひとつの有機体である。・・・資本主義はひとつの学習する有機体(a learning organism)でもある。絶えず適応するけれども、わずかな増加なら適応しない。大きな転換期には危機に応じて変形・変異し、前の世代は認識できないようなパターンや構造を形成する。資本主義の最も基本的な生存本能は技術的変化を駆り立てることである」(訳8-9頁)。
報告者(内田弘)のみるところ、「資本主義は有機体である」という認識はマルクスのものでもある。実際、本書で検討され肯定的に評価される思想家はマルクスである。マルクスは『資本論』初版序文で「市民社会の細胞形態(Zellenform)は価値形態(Wertform)である」と規定している。細胞形態としての価値形態の内的構造(使用価値の非対称性および価値の対称性=非対称的対称性)は、絶えず異質の新しい使用価値への価値の変態を要求し、新しい使用価値を生みだす技術革新を刺激し実現する過程で、資本主義的生産様式が世界市場として生長してくる。
しかし、メイソンは「資本主義は複雑で適応するシステムであるけれども、適応能力がもう限界に達している」(訳9頁)とみる。資本主義が生みだした「情報財(information goods)」が複製可能な無償のものに成りつつあるから、それは資本主義の市場システムの枠内からみ出し、それに応じて、市場システムがカバーする領域が徐々に狭まってきている。ここに現代資本主義の危機があり、かつポスト資本主義への可能性が開かれている。メイソンは、このようにポスト資本主義を展望する。
[ポスト資本主義生成の蓋然性] メイソンによれば、実際、現代の資本主義にはポスト資本主義を生みだす、つぎのような蓋然性が観察される。
第1に、情報技術(information technology)が、労働の必要性を減らし、労働時間と自由時間との境目を曖昧にし、労働と賃金のとの関係を緩めている。
第2に、情報財が価格を設定する市場の能力を弱めつつある。
第3に、新しい所有形態や貸与形態、共有型経済、コモンズ、ネットワーク(peer-to-peer production同格者間生産)などに観察されるように、協働生産(collaborative production)が自然発生的に増加している(訳11-12頁。英単語は原文による。以下同じ)。
このような技術史的な傾向を考慮すれば、ポスト資本主義への移行では、設計段階での誤りを導入段階で減らすことができる。ポスト資本主義への移行は「計画」であるより、「モジュール式のプロジェクト設計」である(訳18頁)。この点に関して、かつての計画経済社会主義システムへの批判が示唆され、のちに(第8章[本報告13頁以下])「社会主義経済計算論争」が論じられる。
つぎに、本書の構成を目次によって確認し、ポスト資本主義という主題に絞って、本書は提起する主題を紹介し、その問題点を若干指摘することにする。
第1部 資本主義の危機と歴史の循環
第1章 新自由主義の崩壊
第2章 コンドラチェフの長い波、短い波
第3章 マルクスは正しかったか
第4章 長く混乱した波
第2部 機能しない情報資本主義と無料の世界
第5章 ポスト資本主義の予言者
第6章 無料の機械に向けて
第7章 美しきトラブルメーカーたち
第3部 新自由主義からプロジェクト・ゼロへ
第8章 資本主義を超える経済への移行
第9章 パニックには理性的に
第10章 プロジェクト・ゼロ
第1部では、「リーマンショック」以後の現代資本主義の危機を論じ、第2部で、その現代資本主義には、ポスト資本主義を予感させる要素が情報資本主義・無料の情報財が遍在するようになってきている傾向を指摘する。第3部では、ポスト資本主義を実現するロードマップを設計する。
しかし、このような整理は、本書の議論の基本過程を中心にした整理であって、実際の議論は重複し錯綜している。例えば、本書の中心的主題であるポスト資本主義への移行可能性は、景気循環論に結合して論じられている。その景気循環論はコンドラチェフの50年周期説である。コンドラチェフ論は第2章で主題として紹介され論じられるけれども、その他の第4章や第5章などでも論じられる。「無料の情報財」が普及している現代資本主義の技術的特性が資本主義的長期波動を終焉させ、そこにポスト資本主義へ移行する可能性が潜在しているとメイソンは判断するからである。
第1部 資本主義の危機と歴史の循環
[1] 第1章 新自由主義の崩壊
まず第1章では、2008年のリーマンショックを論じながら、その周辺にもポスト資本主義への移行を促す要素が芽生えていることを指摘する。すなわち、ソーシャルネットワーキング(フェイスブックの利用者1億人)、太陽光発電の展開の2008年の1万5000メガワットは2024年にはその10倍になるだろうとの予見などの事実を列挙しながら、資本主義が滅亡するという予感は合理的なものであるかどうかをチェックするポイントを、つぎのように挙げる。
① 不換紙幣(flat money)の発行、金融工学による銀行の格付け。
② 経済の金融化=所得の停滞を借金で補うシステム。
③ グローバル・インバランス(米国の労働力分断と巨額赤字と中独日の貿易黒字)の持続不可能な歪み。
④ 情報技術と市場経済との両立不可能性。
これらは新自由主義のこれからの運命を規定する。一方で先に見たような「非市場経済」が拡大している。
以下に、報告者が現代資本主義の画期と考える1971年のドル金兌換停止から本書が刊行される2015年に至る経緯を略年譜で示す。
1971年 ドル=金兌換停止。
1972年 米中接近。
1973年 第1次オイルショック。
1978年 中国「改革開放」。
1979年 中越戦争。第2次オイルショック。「スタグフレーション」。
1988年 フリードマンと趙総書記の「開発独裁」に関する会談。
1989年 天安門事件。東欧社会主義体制崩壊。
1991年 ソ連体制崩壊。日本バブル崩壊。
2001年 9月11日、同時多発テロ。
2008年 9月15日、リーマンショック。
2015年 国連、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs)を採択。
[兌換停止からソ連体制崩壊・世界労働市場の形成へ] ドル金兌換停止以後の歴史は、社会主義体制の崩壊から世界資本主義市場への移行への模索過程であるとみることができる。その移行過程を主導するのは、「高賃金・低利潤」の先進資本主義国から「低賃金と高利潤」の低開発国への「資金と技術の国際移動」である。後者の国・地域で資本主義的生産様式の4要素「(先進国の)資金と技術と(低開発国の)安価な労働力と土地資源」を「低開発国の経済特区」で接合することで、冷戦時代の資本主義の隘路を打破する戦略が、1971年のドル=金兌換停止による自由な資金調達と、「低賃金=高利潤」を保証する「開発独裁国」との階級同盟としての1972年の米中接近であり、その盟約を確認したのが、1988年のミルトン・フリードマン=趙紫陽総書記との「開発独裁に関する会談」とそれを実行した1989年の「天安門事件」であろう。
[ケインズ労働供給曲線の変更] ケインズの労働市場論では、図(5頁)のように、労働供給曲線は或る限界以下では「水平の横線」になると想定されていた。しかし、1978年の中国の「改革開放」以来、中国国家は「輸出加工区(export-processing zone)」という「飛び地(enclave)」を各省に建設する。そこは「労働三権」は存在せず、先進国賃金に比較して圧倒的に安価な賃金で世界標準の生産物を生産し高利潤が獲得できる。本国で蓄積してきた技術と兌換停止で自由に発行できるドル資金でもって多国籍化した資本にとって、労働供給曲線は、下図のような、左下がりに折れて傾斜する世界労働市場になった。その後、途上国への多くの資本の移動によって労働需要は高まり、左下がりの労働供給曲線も若干ずつ左上がりになってくる。労働市場は中国からベトナムへ、ベトナムからバングラディッシュへと移動している。資本は国際化(インターナショナリズム)の担い手になり、先進国の労働者は賃金低下・失業の危機に陥り、「本国(ナショナ)第一(リズム)(America is the First)」を要求する(英国在住者ブレディ・みかこは『労働者階級の反乱』(光文社新書、2017年)で、英国EU離脱は英国労働者たちの生存をかけた要求であることを明らかにする)。
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[2] 第2章 コンドラチェフの長い波、短い波
メイソンは、ニコライ・コンドラチェフ(Nikolai D. Kondrat’ev 1892.3.4-1938.9.17)が解明した50年周期の長期波動に注目する。コンドラチェフは1920年代までの「金利と賃金」・「物価」・「石炭・鉄の生産」・「外国貿易」の経済データの短期的誤差を修正する「移動平均法」によって分析し、1930年代末に景気の底を打つと予見した。資本主義の自己再生能力を含意するコンドラチェフのこの見解をボグダーノフやトロツキーたちが批判し、1938年に銃殺刑に処せられた。コンドラチェフの長期波動を区分する画期は、[a]新しいテクノロジー、[b] 新しいビジネスモデル、[c]複数の国の世界市場への参入、[d]マネーの増量と有用性の向上、が規定する。コンドラチェフの分析法でその後の景気循環を分析すれば、コンドラチェフの長期波動はつぎのような経過をたどってきた、と著者は主張する。
第1波:1780年代-1849年。イギリス産業革命期。蒸気機関。ミュール自動精紡機。
第2波:1849年-1890年代。蒸気機関・鉄道・電信。
第3波:1890年代-1945年。重工業・電気工学・電話・科学的経営管理。
第4波:1940年代の終わり-2008年。トランジスタ・合成物質・大量消費財・自動化・原子力・電算機。
第5波:1990年代の終わりに、前の波の終期と重なる第5の長期循環の諸要素(ネットワーク技術・携帯電話・情報財・実質的な世界市場の登場)が現れたけれども、非市場経済の登場によって、失速している。そこにこそ、ポスト資本主義への移行の現実的根拠が胚胎している。
[コンドラチェフ長期波動の証明] メイソンによれば、2010年、ロシアのコロタエフとシレルは「周期数分析」によって、コンドラチェフの50年間隔の景気波動の正しさを確認している(訳97頁→注20[A.V.Korotayev and S.T.Tsirel,’A Spectral Analysis of World GDP Dynamics: Kondratieff Waves, Kuznets Swings: Juglar and Kitchin Cycles in Global Economic Development and the 2008-09 Economic Crisis’, Structure and Dynamics, 4(1) (2010) ])。
メイソンの評価では、コンドラチェフの長期波動論は資本主義経済の原理的次元と現実的諸現象の中間の動態を規定する「メソ(meso)」の次元を提示した意義がある。
[3] 第3章 マルクスは正しかったか
[資本主義の安定性] メイソンは本章の冒頭で、資本主義の安定性を論じる。
メイソンはいう。「資本主義は不安定でもろくて複雑なシステムである。階級は市場のあらゆる要素に不安定な不均衡な力を与えると認識していた。しかし、マルクス主義では、資本主義の適応能力が過小評価されていた」(訳108頁)けれども、マルクス自身、資本主義が世界規模で適応する能力を目撃したことがあると指摘する。
報告者のみるところ、その目撃は、マルクスが1848年ロンドンに亡命した後に開催される「1851年ロンドン万博」である。それはいわば「世界資本主義確立宣言」である。マルクスは『新ライン新聞』で資本主義の再生力を率直に認め、資本主義を再考察するために24冊の「ロンドン・ノート」(1851-53年)を作成した。
[資本主義の適応能力] メイソンによれば、資本主義の適応能力は、
[1] オープンシステムであること、[2] 自己革新による適応能力をもつこと、[3] 突発的現象をもたらす「相対的自立性」を内包するシステムであること、にある。
マルクスにとって、危機とは資本主義の必然的崩壊を意味するものではなく、むしろ新たな段階への調整期間(メイソンのいう「圧力弁」の開閉)である。
[マルクス主義者の万年危機論] メイソンは、このような資本主義についてのマルクス主義者の見解を紹介すし、ルドルフ・ヒルファーディングの『金融資本論』(1910年)=組織資本主義に内在する国有制社会主義への移行可能性論や、ローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』(1913年)=資本主義外部領域必要論や、ヴァルガの窮乏化=国有社会主義を論じる。
1970年代になって、ようやくニュー・レフトの「堅実な学術的研究組織」によって、マルクス理解が容易になった。けれども、彼らも危機論から脱出したとはいえないとメイソンはみる。2008年のリーマンショックは資本主義崩壊の結果や反作用でもない。それは新自由主義とよばれるシステムの崩壊である、とメイソンはみる(142頁)。
[4] 第4章 長く混乱した波
[戦後復興と景気循環] この第4章の冒頭からメイソンは、かつての国家独占資本主義論に論及する。それにあわせて、第2次世界大戦後の復興をもたらした、欧州のマーシャルプランを論じる(敗戦直後日本の傾斜生産方式なども戦後復興の一環である)。この好景気も長期循環の一環であるとみる。メイソンによれば、コンドラチェフの第4の波は、1940年代後半から2008年までの波であるけれども、報告者のみるところ、1971年(戦後約25年)のドル金兌換停止(同年8月15日)[本書167頁参照]は、ちょうどその中間年に相当する。この年1971年は「第4波の頂点」ではないだろうか。その頂点で、なぜ兌換停止を決定したのであろうか。資本主義のリーダーたちによる、新しい戦略(新自由主義)構築の開始をしめすものではないだろうか。
[新自由主義の《労働分断》] メイソンは新自由主義による「労働の分断」を力説して、つぎのように指摘する。
「実は、新自由主義の指導原則は、自由市場でもなく、財政制約でも、通貨価値の維持でも、民営化でも、事業の海外への移管や、委託するオフショアリングでもない。グローバリゼーションでさえもなかった。これらはすべて、目的を達成するための副産物、あるいは兵器とでもいえるものである。その主要目的は、その現状から組織労働者を排除することである」(171頁。ボールド体は引用者)。
メイソンは新自由主義を先進国内部の「労働の分断=労働者の排除」を中心にみる。
[国際階級同盟としての新自由主義] しかし、報告者のみるところ、「先進国労働者排除」によって生じた余剰資本を何処に如何に投下するかという積極的な戦略無しに、そのような排除のみを行うわけがない。「先進国の高賃金=低利潤」から「途上国の低賃金=高利潤」へと投資戦略の転換こそ、新自由主義のグローバリズムであろう。その戦略の端緒はすでに、「リーマンショック」の2008年より約37年前の1971年の「ドル金兌換停止」=翌年「1972年の米中接近」に観察することができる。メイソンは、英国のサッチャー、米国のレーガンのみだけでなく、チリのアウグスト・ピノチェトの名前を挙げているけれども、メイソンの盟友ナオミ・クラインのいう『ショック・ドクトリン』の担い手ピノチェトに相当する中国国家官僚にも、ミルトン・フリードマンが「開発独裁」を推奨していることを忘れてはならない。メイソンはここで先進国の内部の労使紛争のみに焦点を当てている視野狭窄に陥っていないだろうか。のちに(訳343頁以下)、1971年のドル兌換停止やオイルショックについて論及しているけれども、それらを米国資本主義支配層の積極的な実践的行為とその結果としては観ていない。金融制度などを、もっぱら客観的な自立したシステムとして重視し、実践的制御と変更可能なものとしては見ない傾向がメイソンにある。
このあとメイソンは12の統計図表を提示して、景気波動を解説している。
図1 世界の年間GDP成長率
図2 米国の平均金利
図3 ニッケルの価格
図4 G20諸国の政府総債務の対GDP比
図5 通貨供給量
図6 米国における庶民層と富裕層の所得比較
図7 米国における全営業利益に占める金融部門の利益の割合
図8 海外直接投資
図9 一人当たりのGDP
図10 実質所得の伸び
図11 経済的階級別の雇用
図12 生産性
(12個の図のうち、特に興味深いのは、図の2,5,6,8,9,11,12であろう。関心を抱いた方は、本書を繙かれ確認されたい)
第2部 機能しない情報資本主義と無料の世界
[5] 第5章 ポスト資本主義の予言者
[知識経済・情報経済・認知資本主義] コンドラチェフの第三の波の始動期である1945年以後、ジェトエンジン(ターボファンエンジン)・情報技術・バーチャルな世界とリアルな世界の接合・知識経済・情報社会・認知資本主義などの動向がみられるようになった。この動向はポスト資本主義に導いているのではなかろうか、とメイソンはみる。
1993年、そのような動向を背景に、景気循環論シュンペーターの弟子である、ピーター・ドラッカーが「生産要素である《土地・労働・資本》よりも《情報》が重要になってきた」と指摘し、ついで、つぎのような問いを立て、自ら答える。
[問1] それでは経済の中心をしめ、異分野を結合する要因となってきた「知識の生産性向上」は如何にして可能なのであろうか。その鍵は「ネットワーク」である。
[問2] ポスト資本主義の社会的モデルとなるのは、「どのような人間」であろうか。それはプロレタリアートではなく、「普遍性をもつ教育のある人間」、いいかえれば、「知識階級と管理階級が融合した新しいタイプの人間」である(後の「一般的知性」論参照)。
[新しい人間類型のその意識] このように考えるメイソンはつぎのように指摘する。
「今後の50年が、資本主義の第5の長期波動であり、それが情報を基盤とするものでるとすれば、長期波動で予想される新しいタイプの人間はすでに登場していることになる。問題は、まさにこの新しいタイプの人間が、古い資本主義を打破することにまったく興味が無く、政治に少しの関心も無いことである」(訳200頁)。
ドラッカーは労働の経済学を理解しないでは、長期波動の転換期を見極めることはできないことを洞察していた(訳203頁)。こうして、ポスト資本主義とマルクスは理論的に結合する可能性が開かれてくる。
[労働経済学の時代錯誤] ところが労働市場の経済学は相変わらず、失業や賃金率のみに焦点を当てていて、情報が労働時間と自由時間との境界や賃金に対して如何なる作用を及ぼしているかを理解していない。それを理解すれば、我々が生きてきた世界がラディカルに変化してきていることが分かるのである。
[技術の内生的特性] 分析的マルクス主義者のポール・ローマー(Paul Römer)は、論文「内生的技術変化(Endogenous Technological Change)」(1990年)で、技術は外生的では なく、内生的なものであることを論証した。報告者も、技術革新は、価格・品質の格差の克服、飽和市場への新製品による対応など、市場における競争によって駆動されるのであって、技術革新は経済成長に内在する要因である、とみる。メイソンはその例証のために様々な事例をあげる。メイソンが注目するのは、技術革新のなかから、「実物商品」だけでなく、アマチュアの組み立てたパソコン「アルテア8800」や「プログラム言語」などの「情報商品」が登場し、その重要性を増していることである(訳212頁)。
[独占できない商品の登場] 注目すべき点は、情報商品は独占できないという点にある。情報財は次第にフリーな財(無料の財)になる。当初から自由な(ただの)財として登場することもある。したがって、情報経済は「限界費用ゼロ」に向かう傾向にある(訳216頁)。限界費用逓減傾向は、諸資本の特別利潤獲得競争がもたらす結果である。
しかも、ドラッカーやローマ-の1990年代初頭ではなく、21世紀の10年代の今日、情報は「メットワーク」として実現している。情報技術のコストは低下し、情報商品がオープン・ソースによる分散と協働によって、限界費用がさらにゼロに向かっている(訳221-2頁)。製薬部門でも、抗HIV薬の特許申請を取り下げる例もでてきた(訳229頁)。
[一般的知性:誰が「知識の力」をコントロールするのか ] つぎにメイソンはマルクスの7冊のノート(Heft(ノート)I-VII)とからなる草稿『経済学批判要綱(Grundrisse der politischen Ökonomie)』(1857-58年)に、「ポスト資本主義への移行」の理論的示唆があることを指摘する(訳231頁以後)。それはアントニオ・ネグリが『マルクスを超えるマルクス』で注目した、『要綱』の「機械に関する断章」である。ネグりの引用個所(ただし、原著やこの本訳書の巻末の「注」にも引用頁はない)を参考に、メイソンはつぎのような個所を引用する。
「労働者が自然過程を産業過程に変えて、[労働者]自身と非有機的自然の間に手段を挿入し、それを習得する。労働者は[物質的生産過程の]主体ではなくなり、[単純労働者としては]生産過程の脇に寄ることになる」(訳232頁:Grundrisse,HeftVII,S.2-3)。
「生産はそれに費やす直接的労働時間との釣り合いえをまったく失ったが、科学の生産への応用に依存している」(訳232-233頁:Grundrisse,HeftVII,S.3)。
[一般的知性の具体化としてのミュール自動紡績機] メイソンは、このような事態では機械を動かす労働によりも生産組織と知識が生産力に大きく寄与しているとみる。
マルクス自身は、その引用個所の直後で、つぎのように書いている。
「自然は機械を作り出さない。機関車・鉄道・電信・ミュール自動紡績機(self-acting mule)などを作り出さない。それらは人間の勤労の所産である。いいかえれば、自然を支配する人間の意志の器官、すなわち自然における人間の意志の実証の器官に転化されている天然の材料である。・・・[機械装置の姿態をとっている]固定資本の発展は、一般的社会的知識が、どの程度まで直接的生産力になっているか、したがって、社会的生産過程それ自体の諸条件がどの程度まで一般的知性(general intellect)の支配下に入ったか・・・をしめしている」(Grundrisse, HeftVII,S.3)。
メイソンが注目する決定的な用語「一般的知性」の出典は上記の頁にある。
つぎにメイソンは、なぜ、マルクスの『要綱』の一般的知性論を『資本論』に展開しなかったのかと問い、その理由として、「それは当時の資本主義自体がその提案を裏づけることがなかったからである」(訳頁237)と断言している。つまり「一般的知性」はマルクスが想像した概念であり、20世紀末から21世紀初頭になって、初めてマルクスのその構想を裏づける技術的根拠が実現したと判断している。
[メイソンの誤り、2つ] しかしメイソンはつぎの二つの点で誤りを犯している。
第1に、『要綱』における「一般的知性」規定には具体的事例がある。それは上の引用文にもある「ミュール自動紡績機」である。その機械は現在でも使用されている。精紡過程では、数本の篠(しの)糸(いと)を捩(よじ)(blend)引っ張り(draft)一本の細い糸にする。(現在では1分間に数千回も回転する)紡錘(spindle)に巻き取られる。その紡績過程で糸が切れると錘が自動的に停まる。その停止機能はそれまで人間の操作であった。それを機械が自ら行う。「停止しなければならない」という人間の頭脳労働による判断が機械に移転している。人間の頭脳労働の機械装置への移転の最初の事例である。このことに、マルクスは、2300年前のアリストテレスのオートマット論を参考に、注目したのである。
第2に、『要綱』のこの議論は、『資本論』第1部の機械性大工業論でも「[ミュール紡績機や自動織機の]自動停止器は、まったくもって近代的な発明品である」(Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag Berlin 1962, S.402)と再認されている。さらにそこにおける「人間の全面的発達論」や、第3部「三位一体的範式」における「自由の領域」などにも継承され再論されている。メイソンの誤りはネグりの著書『マルクスを超えるマルクス』のみを活用し、『資本論』などで確認しなかったことから生まれたと判断される。ネグリも同じ誤りを犯している(報告者はすでに1982年刊行の『経済学批判要綱の研究』や、英文著作Marx’s Grundrisse and Hegel’s Logic, Routledge 1988などで、『要綱』の相対的剰余価値論にもとづく自由時間論を『要綱』貫通的な主題として論証している。メイソンはその英文図書を参照していれば、上記の誤りを回避できたであろう)。
[徴候的事実の発見] むろん、マルクスの時代と現代の違いは存在する。ミュール紡績機に芽生えた萌芽がいまや多彩にグローバルに開花している。マルクスのその端緒を把握した慧眼にこそ、注目すべきである。「未来を形成すると思われる徴候的事実を発見すること(symptomatic fact finding)」こそ、未来開拓の第一歩である。「蓋然性のある選択肢から最善の選択をする」(長洲一二)。未来選択としての政治行為の出発点はそこにある。
[認知資本主義は第3の資本主義なのか -社会の工場化-] ネグり派は上記の「一般的知性」論を、デトーピアとしての情報資本主義論=いわば「パナプティコ ン」として現代資本主義論の方向に展開した。
[象徴で組織される現代資本主義] 現代資本主義では、仕事の性質が変化している。情意労働が普及し、消費は単に個人的消費ではなく、自己確証の手段化に転化している。ナイキのロゴマークがついたシャツを着る行為が、自分が現代に生きている確証になっていると思う人間が数多いる。ファッショナブルな商品を話題にすることで、家族・友人とのつながりが維持されている。多くの商品が「資本主義的に社会的な連結を象徴する記号」となっている。
そのような「意味記号としての情報商品」の古典的な例のひとつが、「飲んでいますか、アリナミン」という三船敏郎のパーソナリティである。映画「羅生門」「七人の侍」「椿三十郎」の三船敏郎と自己を同一化することで、映画文化と商品とが一体化し、人々の生活意識を支配する(ボードリアールなどが論じたように)。
その消費過程に対応するように、商品の供給者である企業も、日本でも遅くとも1980年代から、企業のブランド価値を「商品+CSR・企業市民・従業員ボランティア活動」という企業戦略によって高めてきた(内田弘『自由時間』[有斐閣1991年]を参照)。最近の日本企業は2020年東京五輪のロゴマークで企業イメージ・アップをはかっている。
[情報商品はネガかポジか] メイソンは認知資本主義論とは異なって、情報商品の展開をポジティヴにみる。コンピュータ・ネットワーク(peer-to-peer production同格者間生産)に、限りなくゼロに向かう限界費用の逓減傾向の事例をみる。そこにも、情報商品が徐々に市場メカニズムを弱化してゆく可能性を読み、『経済学批判要綱』の「一般的知性」が21世紀初頭の資本主義に「無料の世界」の萌芽を読み取ろうとする。
[6] 第6章 無料の機械に向かって
[無料の世界へ] メイソンは、このような現代資本主義の動向に「無料の世界」「無料の機械」の登場可能性を読み取ろうとする。そのために、スミスやリカード ウからマルクスの労働価値説を検討する(訳254頁以下)。しかし、スミスなどの伝記的な興味深いエピソードが書かれてはいるけれど、つぎに記すような肝心の労働価値説の理論史には論及せず、したがってメイソンの労働価値論は『要綱』の「一般的知性」論につながらない(メイソンは労働価値説を肯定的に論じながら、「労働の価値」という『資本論』が批判する表現を用い、労働と労働力を区別しない)。
[スミス価値論の可能性] スミスは『国富論』(初版1776年)第1編第4章や第5章で、商品の価値(VALUE)を使用価値(use value)と交換価値(value in exchange)とに、二重に規定する。交換価値は異なる使用価値の交換比率であるから、その比率を規定する、使用価値とは異なる第三者に抽象されて、その抽象態で等質・等量であると規定するほかないけれども、スミスは、そのような価値概念は感触できるもの(tangible)でなく抽象的な観念(abstract notion)であるから、と判断して、それ以上の追求はしない。その追求を徹底したのは『経済学批判要綱』と『資本論』のマルクスである。
[リカードウの使用価値と価値との並行論] リカードウは価値実体へ抽象するところまでスミスから前進したけれども、その価値の使用価値への現象形態=価値形態を展開できなかった。そのため、リカードウでは、価値と使用価値は平行関係にとどまり、相互に媒介しあうことがない。せっかく『経済学および課税の原理』(初版1817年)で「機械採用=失業の問題」を取り上げながらも、機械採用の個別資本にとっての動機がスミスのいう「特別利潤(extraordinary profit)」にあること、特別利潤追求の社会的な帰結が「相対的剰余価値」であることも把握できなかった。
[『要綱』相対的剰余価値論のブレイクスルー] その把握は『要綱』相対的剰余価値論で実現し、資本回転=蓄積論における「一般的知性論」に継承する。『要綱』や『資本論』の最深部の主題は、「価値と使用価値の媒介関係(非対称的対称性)」にある。この問題の古典的起源はアリストテレスの『形而上学』アポリア論にある(内田弘「『資本論』の原始的再帰関数」[2018年3月]を参照)。「一般的知性」は突然ひらめいたものではない。
[特別利潤は相対的剰余価値に帰結する] 一定の質と量の「使用価値」を生産するために必要な労働時間=「価値」を他の個別資本よりも少なくすることで、「社会的価値と個別的価値の差」を「特別利潤」として獲得する競争が技術革新を推進する。そのような競争は諸々の商品の生産と販売で展開する。その社会的帰結が、必要労働時間の短縮(労働力商品の社会的価値の減少)=剰余労働時間の延長=相対的剰余価値である。特別利潤の追求は、労働力商品の価値の減少をもたらし、より高度な(複雑な)労働の担う能力を生みだす。使用価値と価値とは重層的に媒介しあっている。リカードウはそれが分からなかった。『資本論』の価値と使用価値の並行論的理解では、そのメカニズムは分からない。「価値=価値」、「使用価値=使用価値」ではなく、「価値=使用価値」なのである。
スミスやリカードウの経済学は、その「価値と使用価値との媒介関係(非対称的対称性)」を解明する課題をマルクスに示唆し解決する端緒を提起したという意味で、マルクスにとっての「古典経済学」(マーシャル的な「古典 派 経済学」ではない)なのである。メイソンのいう限界費用の低減の動因は諸資本の特別利潤獲得運動にある。それが、意図せずして、ポスト資本主義の可能態をもたらす。このようにスミス・リカードウ研究は、ポスト資本主義論につながるのである。
[ワルラスの一般均衡理論] メイソンは、労働価値説に相対する「一般均衡理論」をとりあげ、それが「完全情報仮説」と「計算可能仮説」に立脚していることを論じ、限界理論には財の稀少仮説が前提にたっていることを指摘し、財が豊富に無料になる傾向を示す現代資本主義において無効になる可能性を指摘する。その危機を察知してか、情報商品を独占化するマイクロソフト・ニコン・キャノンの名をあげる(訳293頁)。さらに、生産の自動化によって発生する失業労働者を雇用する代替職業の問題を論じる。そこに賃金低下・雇用の非正規化の問題が潜在する。メイソンの現代資本主義の動向の原理的意味を察知する感度は鋭い。メイソンは情報資本主義の機能に対する構造的障害として、
① 通常の回避ルートの妨害
② 労働人口の再設計の規模
③ 経済的合理性の限界
をあげる。人工頭脳(AI)の導入、ロボット化によって、旧労働市場が消滅し財の所有権に危機が発生すると指摘する。なぜなら、コスト・ゼロで所有権が弱化する経済は資本主義ではなくなるからである(訳297頁)。
[7] 第7章 美しきトラブルメーカーたち
メイソンの観点は、現代資本主義のガティヴな面「グローバル・サウス」(世界資本主義における南部問題)に移動する。ソ連体制の崩壊によって、そこも世界市場に参入するようになった。世界市場はオフショアリングの世界でもある。中国・バングラディッシュの工場における厳しい労働環境、たとえば、フォックスコン中国工場は「ストレスがたまっているからといって、自殺はいたしません」という誓約書に署名させる(2010年)。このようなグローバライゼイションの世界では、どこでも共通な所得階層分布割合となり、格差構造の世界資本主義貫通的な同型性を示す(訳302頁。先の5頁の図を参照)。
第3部 新資本主義からプロジェクト・ゼロへ
[8] 第8章 社会主義計算論争
[貨幣の廃絶] では、ポスト資本主義の経済システムは如何なるものであろうか。この問いに関連して、メイソンはルートヴィヒ・ミーゼスの『社会主義共和国における経済計算』(1920年)を論じる。論点は「計画経済における貨幣の廃絶」という左翼の主張を批判し、「計画経済における貨幣の機能」を分析する。集権的計画を通じた市場メカニズムを優先して(override)、貨幣を使用しようとすると、価格シグナルを伝える貨幣の能力を低下させることになる。しかし、もし貨幣を廃止すれば、需要と供給を測定する物差しを廃止することになる。そうなると[資源や生産物の]配分は当て推量になるだろう。このようにミーゼスによれば、「計画経済では《前もって(in advance)評価できない》。あるいは、《後に過去に遡って(later retrospectively)決定できない》」(訳369頁。《 》引用者)。
[貨幣の事前・事後の調整機能] 報告者のみるところ、価値形態から生成する貨幣は、まさにこの《事前の推定と事後の検証との相互調整機能》を担う。この相互調整機能は、意外かもしれないが「嘘つきのパラドックス」の同型の原始的再帰関数である(内田弘「比較近現代史からみた『資本論』」ネット「ちきゅう座」を参照)。価格メカニズムを媒介に市場の参加者は事前の予測と結果の差異を調整する。計画経済のいう「計画」とは、貨幣の調整機能を資本主義以上に合理的に作動させる制度を設計・構築・運用することにあろう。
[社会主義経済計算問題] この計算問題とは、すべての財を最適に配分・運用することを事前に知りうるためには、数百万のデータ、数百万の方程式を実行可能な時間内の計算可能かという問題である。LSEのライオネル・ロビンズやポーランドのオスカー・ランゲが取り組んだ問題である。当時ではそれは実行不可能であるとされてきた。たとえば、旧ソ連の経験データでは、2400万の生産物の種類のうち、20万個の価格・質を追跡することさえもできなかった。実際に計画生産されたのは、たったの2000個にすぎなかった。2,000/24,000.000=1/12,000[1万2千分の1の割合である]
[ビッグ・データを基礎にする個々の取引計算] しかしメイソンによれば、現在ではペタパイト(1000兆バイト)の規模の計算もスーパーコンピュータで可能になったから、「計算問題」は不可能ではなくなった(訳371頁)。しかし報告者のみるところ、巨大な数の経済主体の行動に規定される時々刻々変動するビッグ・データを基礎にして、個別取引ごとにスパコンで最適なデータを推計してから財の売買を行うことは、経済的に合理的なのであろうか。それぞれの個別的経済主体の個々の短期的行為は、一定の幅の自由域(アロガンス)をもつことが、かえって合理的であろう。個別的な合理的選択条件は局所的データによる方が、より正確ではなかろうか(システム全体のカタストローフは、ビッグ・データを使っても、既存のシステムの内部からは予見できないのではなかろうか)。
[POS-SYSTEMの経験に教訓は存在しないか]《マクロ=メゾ=ミクロ》の間の自由度のある相互調整システムが存在するほうが、総体的に合理的であると思われる。現代日本の消費者の日常生活に組織された《販売時点管理システム(Point of Sales: POS-system)》は、このようなシステムが現代日本の内部に潜在していることを示唆するのではないだろうか。このシステムは人工頭脳(AI)の一部になってゆくであろう。 [このような生の実業界の事例をポスト資本主義の構想などに持ち出すと、《そんな俗なこと!》という反応が出ることがある。《新聞を読まない、新聞記事とは別のところで現代の問題を研究する態度》への批判が、最近、ネット「ちきゅう座」に掲載された。その批判はPOS-Systemについても妥当するだろう。武田泰淳の『士魂商才』(岩波現代文庫)を除いて、実業家小説がほとんど書かれない近代日本文学史の遊民的特性が、《POS-Systemなんて》と思わせるのであろう。漱石文学の限界もやはり確認しなければならない]。
[労働トークン・システム] メイソンがポスト資本主義の例証としてあげる(訳377頁以下)、電算機の専門家であるポール・コックショットと経済学者のアリン・コットレルが考案した「労働トークン(token)」は、かつてのプルードン主義者の「労働貨幣」と類似している。労働貨幣は地域通貨として現代でも実験的に行われている。メイソンはそのシステムでは、実際の生産量が労働貨幣による購買よりも多ければ、生産量を減らし、その逆であれば生産量を増やすという調整メカニズム(投入・産出のアルゴリズム)をもつ。そのシステムでは、狭い地域内の労働の質の高低は問題とされず、誰の1時間労働でも同じ1時間労働とみなすという合意が成立しているはずである。ここに広い社会を前提とする市場メカニズムを媒介にした「社会的平均」とは異次元の社会的価値規範で、経済活動がおこなわれることになろう。ここにも「無償の労働」に接近する傾向がある。
[利潤形態の改革ファンド] 「労働トークン」のシステムの「最終的な目的は利潤を廃絶することである」(訳380頁)とメイソンはいう。しかし、利潤という形態は、生存諸条件改革のファンド(剰余労働の所産)の資本主義的形態である。「労働トークン」の世界は、量質とも同じの単純な静止状態を維持するのであろうか。
[9] 第9章 パニックには理性的に
[気候変動問題] メイソンはここで、ポスト資本主義への移行にあたって、気候変動(地球温暖化)という我々が直面している難問を取り上げる。ポスト資本主義への移行は、この問題を解決する過程でもある。メイソンによれば、地球は過去200年間で0.8度上昇した。このままでゆけば、2050年には2度以上、上昇する。この気候変動問題は市場メカニズムで解決できるであろうか。CO2排出権売買で温暖化は軽減するのであろうか。IEAは2000年~2040年間でCO2は8860億トン以下にしたいと推計するけれども、干ばつ、ハリケーン・台風の猛威化、海水位上昇=島国の水没など、楽観はできない。
[ポスト資本主義への移行の政治的制約] メイソンはこのような現状を省みて、「CO2削減には中央集権的支配が必要であろう」(訳410頁)と明言する。ポスト資本 主義への移行には気候変動の問題が立ちふさがる。その解決には中央集権的支配が不可欠であり、ポスト資本主義への移行は「中央集権的支配形態」をとる、という。ポスト資本主義への経路の多様性と地球温暖化への対処策は限定されているという(同)。ポスト資本主義への移行過程に「権力エリート支配」が発生することはないだろうか。
[人口爆発とポスト資本主義への移行] その制約にはさらに人口問題が加わる。老年人口指数があがり、出生率も下がり、年金制度も動揺している。さらに「グローバル・サウス」の政治的不安定から移民がノース(北)に移動している。貧困国が豊かになるのではなく、貧しい国の人々が豊かな国に移動する。《もうこれ以上、我々の税金を移民に使うのはごめんだ》という声が、豊かな国の人々からあがる(最近のオーストリアの政治的動向をみよ)。貧困国が豊かになる過程で、「腐敗したエリート層が機能的・現代的制度の出現を妨げている。メイソンによれば、1960年に『中所得国』に分類されていた国が100カ国あったけれども、2010年までに高所得国に押しあがった国は、ほんの13カ国にすぎない。韓国を初めとする主に『アジアの虎』とよばれて国々で、世界システムによって強要された開発[独裁]体制を無視し、国家主義の経済政策を掲げて、徹底して独自の産業とインフラを整備してきたことが奏功した」(訳419頁)とメイソンは指摘する。
[内発型経済の立案・実施] 気候変動と人口の高齢化や途上国の失業が、停滞した脆弱な経済モデルと相互依存していなければ、問題は個々に解決できるかもしれない。しかしそれらは絡み合っているので世界システムは緊張し、民主主義自体が危機にさらされている、とメイソンはみる。アフリカ各地では突如、武力衝突が始まるところが多い。住民が銃撃され当地を追い出される。ミャンマーでも宗教紛争を仮装した土地収奪が展開している。その軍に誰が武器を与えているのであろうか。これは現代原蓄である。移民を出す原因を除去し、当地に自活できる条件を内発させるプログラムは不可能なのか。
[現代の危機から眼をそらすグローバル・エリート] 企業家・政治家・エネルギー王・銀行家などの世界を股に掛けて経済的剰余を追求しているエリートは、このようなグローバルな危機に直面せず、むしろナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で告発しているように、危機を「ビジネス・チャンス」として利用する。したがってポスト資本主義への移行は、上記のような諸問題を解決するためには、グローバル・エリートからヘゲモニーを奪還することが不可欠となる。そのなかには、「おそらく5人には1人は、中国共産党が築いた、ばかげた情報統制でふるいにかけられた情報で我慢しなくてはならない事態がすでに起こっている」(訳422頁)。
[国家次元の分裂] スコットランド、スペインのカタルニア[、そして日本の沖縄]が分離独立を要求している。ダボス会議に対抗する「世界社会フォーラム」。世界の大国があれやこれやの名目で進出するアフリカからは各種の世界会議に代表が招かれてはいない。
しかし、これらの諸問題には、けっしてパニックに陥らずに、ポスト資本主義への移行の実践的活路を切り開くために、理性的に対応することが不可欠である。
第10章 プロジェクト・ゼロ
いったい、現代の資本主義は通念が繰り返しいうように「市場システム」を中核に組織されているのであろうか。経済学者ハーバード・サイモンはそのように問い、大な組織とその内部の階層制(巨大な国家・企業官僚制)こそが、現代資本主義を支配するシステムであることを1991年論文「組織と市場」で明らかにした(訳428頁)。
ポスト資本主義への移行を構想するために、メイソンは、つぎの原則を提案する。
① 人間の意志の力には限界があると理解すること。
② ポスト資本主義への移行を設計するさい生態学的持続可能性を踏まえること。
③ 移行は経済的移行だけでなく人間類型の変化(ライフスタイル変換)も含むこと。
④ あらゆる方向から問題に取り組むこと[そのさい、信用組合・協同組合・共用生産運動なども活用すること]。
⑤ 情報力を最大限に活用すること[モノのインターネット(IOT)を活用する]。
これらの原則が作動するのは「政策」ではなく、分散化されたプロジェクトにおいてである。そのうえで、メイソンはつぎの四つの目標を掲げる。
[1] 2050年までに炭素排出量を、グローバル危機回避可能なレベルまで削減する。
[2] 高齢化人口・気候変動・過剰債務の諸問題を解決するために、金融システムを国有化し、2050年までに安定化する。
[ 3] 健康被害・福祉依存・性的搾取・不十分な教育などの社会問題を解決する。そのために、情報に優れた技術を優先する。
[4] 自動化経済への移行を推進するために、それを必要労働削減技術に連結する。
このような柱から成るポスト資本主義経済は協働作業の拡大を支えるシステムになろう。あわせて、政府機関に相当する活動は「非市場経済庁」を設置しそこで行う。
以上みてきたように、メイソンの構想は壮大であり、かつ具体的である。報告者の考える「ジェンダー(G)・エコロジー(E)・マイノリティ(M)・ハンディキャップト(H)」という現代市民革命の主題とも重なる。今後、ポスト資本主義を実践的に具体的に論じ実現するために参考になるアイディアが本書には豊富にあると判断される[なお、井上智洋『人工頭脳と経済の未来』(文春新書、2017年)は本書の考えと共通点の多い好著である。報告者[内田弘]も『資本論のシンメトリー』(社会評論社、2015年、特に38頁の注11)で、直接労働に代替し遍在するようになっているコンピュータによる労働が商品の価値実体規定とどのように関わるのかという問題を提起している]。
(以上)
10月現代史研究会(ポスト資本主義研究会との共催)のご案内
10月28日(土)午後1:00~5:00(会場は12:30にオープンします)
場所:明治大学駿河台校舎・研究棟第一会議室(4階)
テーマ:「ポストキャピタリズムを考える」(仮題)
講師:内田弘(専修大学名誉教授)、大野和美(埼玉大学名誉教授)
参考文献:ポール・メイソン著『ポストキャピタリズム-資本主義以後の世界』(東洋経済新報社2017)
資料代:500円
予約などは不要ですので、当日会場に直接ご来場ください。
主催:現代史研究会・ポスト資本主義研究会
問合せ先:090-4592-2845(松田)
『資本論』が出版されて、今年で150年になります。レーニンの『帝国主義論』など、既に資本主義の終焉は数多く語られてきていますが、近年は益々多くの分野でこの問題が取り上げられているようです。また、実際問題としても、今日の世界の情勢をみれば、資本主義のもたらす弊害は愈々抜き差しならないところまで来ているように思えます。もっとも日本の政治の現状はかなりこれに逆行しているようにも見えますが、右勢力の台頭は裏返しの「危機意識」の現れでもあると思います。
現代史研究会顧問:岩田昌征、内田弘、生方卓、岡本磐男、田中正司、西川伸一(廣松渉、栗木安延、岩田弘、塩川喜信)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study893:171023〕
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