三つの誕生会(下)
- 2017年 12月 12日
- 評論・紹介・意見
- ハンガリー盛田常夫
コーシャ監督は旧体制時代に13本の映画を撮り、1968年にカンヌ映画祭に出品した「一万の太陽」は最優秀監督賞を受賞した。その縁で当時日本の舞台女優だった糸見
偲さんと出会い結婚した。映画監督を志した当初から、1956年の「ハンガリー革命」の体験を映画にしたいという思いを抱いていた。しかし、1956年動乱を「革命」と表現するのは、旧体制下では禁句だった。このテーマを追求した最後の映画が、日本でも上映されたA masik ember(「もうひとりの人」、1987年)であるが、16世紀のトランシルヴァニア地方で生じた農民一揆の指導者ドージャ・ジョルジュを扱った映画Ítélet(「判決」、1970年)も、「革命」の殉教者への思いを込めたものである。この映画制作の舞台裏を語る中で、スロヴァキアやルーマニアの映画人の積極的支援を得て、乗り気でないハンガリー政府から資金を得たという逸話が紹介された。そういえば、1968年は中・東欧地域、とくにチェコ-スロヴァキアの民主化運動が最高潮に達した年であり、日本では学生運動が過激化し始めた年である。そういう時代の空気に押されて、「革命」物の映画が制作された。この時期でしか制作が許されなかっただろう。もう一つ、夫人との出会いを通して、日本の伝統や文化への関心が広がり、それが「姥捨て山」のテーマを扱ったHószakadás(「ドカ雪」、1974年)という映画になった。
コーシャ監督は体制転換を契機に、政治家へ転身した。それ以後は映画を制作していない。体制転換以後、映画を制作することが簡単でなくなった。しかし、これを現FIDESZ政権の所為と短絡的に考えてはならない。旧体制時代はコルナイにしてもコーシャにしても、書籍を出版し映画を制作することは簡単でなかったが、不可能ではなかった。不可能どころか、常に実現する力が働いていた。共産党(社会主義労働者党)独裁の時代とはいえ、ハンガリーでは学者や文化人の活動の許容範囲は他国に比べて広かった。ここが非常に面白いところだ。旧体制時代に、旧体制の問題を批判的に指摘する仕事から生きる糧を得て、それぞれの分野の成功者となったのは人生の綾というべきか。コルナイは旧体制時代に国内外で出版した体制の批判的分析書の業績が認められてハーヴァード大学教授になり、コーシャは「ハンガリー動乱」を生涯のテーマにして、体制に疑念を提起する映画監督としての地位を築き、体制転換後には新生社会党の政治家へと後押しされた。
ところが、社会体制が自由化された途端に、書籍出版も映画制作も簡単でなくなった。人集めや金策に苦労しなければならなくなった。旧体制時代には人件費も印刷費も安価で、政府や管轄団体がOKを出せば、必要経費は賄えた。しかし、そのような牧歌的時代は終わった。市場経済へ歩み出したハンガリーでは、どんぶり勘定の資金援助は期待できない。また、体制転換以後の社会を映画にすることも分析することも簡単でなくなった。
冷戦時代には平和か戦争かの政治的スローガンを掲げるだけで良かったが、冷戦が終わった途端に社会をどう構築していくかの具体的で複雑な構想が必要になった。社会の活動が複雑かつ多層的になり、旧社会では考えられないような経済犯罪が生まれた。政治経済社会の大きな変化の裏で生起した事件や事象を丹念に辿り、体制転換過程で生じた歴史的犯罪を映画や書籍にするのは簡単ではない。それだけではない、政権の当事者である人々や同時代に生きる者が、その政治経済社会の背後で、どのような事件や犯罪が進行していたのかを客観的に分析することは難しい。それに比べれば、旧体制社会はきわめて単純な社会だった。支持するにせよ批判するにせよ、単純明瞭な社会だった。共産党も単純に社会主義を唱えていれば良かった。しかし、そういう牧歌的な古き良い時代は終わってしまったのだ。
1994年に指揮者小林研一郎ハンガリーデビュー20周年を祝う会を組織し、オープンして間もないブダペスト・ケンピンスキーホテルで開催した。国立フィルのメンバーが各種の音楽プログラムを用意し、何度か小林と共演したソプラノ歌手パスティ・ユーリアが、小林のピアノ伴奏で、「藤棚の下に」というサトウハチローの詩にメロディを付けた小林少年14歳の作品を歌った。パスティ・ユーリアはオペラ劇場に所属する47歳の魅惑的なソプラノ歌手だった。その後、リスト音楽院の声楽家教授になった。
それから長い時が過ぎ、2011年、東日本大震災の犠牲者鎮魂のために、マーチュアーシュ教会でモーツアルト「レクイエム」のコンサートを国立合唱団とともに企画した折、ユーリアが教え子のなかからソリストを手配してくれた。ところが、演奏会当日、17年振りに顔を合わせたユーリアを識別できなかった。私と同い年だが、あまりの変わりように、言葉が出なかった。それは別として、これを契機に、ホームコンサートやクリスマスコンサートに来てもらい、私もヘンデル「私を泣かせてください」を何度も一緒に歌わせてもらった。その後、乳がんが見つかり、闘病生活に入り、一緒に歌うことができなくなった。
その代わりと言っては何だが、お嬢さんのカロシ・ユーリアが率いるジャズバンドを、何度かクリスマスパーティに呼んだ。リスト音楽院のジャズ科で歌唱を学び、ヴァーカルとして自らのバンドを率いている。その彼女に長男が生まれからは、パスティ・ユーリアは孫の世話に明け暮れている。
70歳記念コンサートはリスト音楽院の公式行事として開催され、教え子の若い歌手たちが次々と素敵な歌声を披露した。舞台のスクリーンには若き日のユーリアの動画や写真が投影された。コンサートの最後にカロシ・ユーリアのジャズバンドが舞台に入り、ハッピーバースディを奏で、2時間ほどの記念コンサートがお開きになった。
政治集会より、映画や音楽の集まりは、心を和やかにさせてくれる。ハンガリー経済や政府の経済政策の体たらくに苛つく毎日だが、芸術分野の集まりはハンガリー生活を豊かにしてくれる。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion7178:171212〕
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