マルクス生誕200年、明治維新150年、米騒動100年、大学闘争50年の年に
- 2018年 1月 1日
- 時代をみる
- 2018加藤哲郎
◆新しい年ですが、松飾りや年賀の挨拶はなしです。米国と北朝鮮の瀬戸際挑発戦は続き、「国難」のはずの首相はゴルフ三昧、メディアの目玉は大相撲、 ウェブを見ると従軍慰安婦問題での韓国批判のヘイトの氾濫、国内外とも「おめでとう」とはいえません。今年は憲法改正が政局になるでしょう。でも、9条を守るべき野党勢力は心許ない布陣、おまけに象徴天皇制のバージョンアップが重なって、この国の行方は混沌です。政治権力の要諦は、グローバルな地球の中での時間と空間の支配、言語やナショナリズムで仕切りを作ります。その仕切りの中で、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったり、声をあげたり、もがいたり、沈黙したりしながら、みんな、生きていき、また死んでいきます。 今年も、安倍内閣の「ファシズムの初期症候」から逃れるわけにはゆかないようです。
◆ 明治維新150年が、政府や改憲勢力から宣伝されるでしょう。明治維新が、列強のアジア進出の時代に独立国家としての存続を保持し、アジアで最初の近代化に道を拓いたと讃え、「富国強兵・殖産興業」を推進した大日本帝国と帝国憲法の意義が述べられるでしょう。その代わり、君主主権も、治安維持法も、朝鮮併合も、中国侵略も、なかったかのように。50年前の佐藤内閣時の1968年明治100年祭には、歴史学者を中心に多くの批判があり、雑誌で論争されました。とりわけ1967年から「紀元節」が「建国記念日」という名で復活した後でしたの、神話的で天皇制的な復古主義歴史観を政府が賞揚することに、批判が集中しました。他方で高度経済成長のさなかでしたので、駐米大使ライシャワーのアメリカ型近代化論が流入し、「アジアの近代化の模範」ともてはやされました。この頃は歴史観も多様で、65年日韓条約や家永三郎の教科書検定裁判もあって、アジア諸国への侵略や沖縄返還問題ともリンクして、明治100年が論じられました。
◆その明治100年が、いわゆる学園紛争の年になりました。1968年当時在学中の当事者としては、大学闘争です。なによりも、ベトナム戦争で日本からも米軍機が出撃し、中国の文化大革命、プラハの春、パリの5月、イタリアの暑い夏、アメリカの反戦運動と、世界大乱の様相でした。オリンピックの開かれたメキシコでも、トラテロルコの虐殺の直後であり、陸上200メートルのアフリカ系アメリカ人の金メダリストは、公民権運動の象徴ブラックパワー・サリュートを表彰台で世界に示しました。マルクス生誕150年は一部の雑誌特集ぐらいでも、『共産党宣言』や『ドイツ・イデオロギー』は学生たちの必読書でした。マックス・ウェーバーや丸山眞男と共に『資本論』や『経済学・哲学手稿』に挑戦するのも、一種の見栄・流行でした。『朝日ジャーナル』や漫画週刊誌、ビートルズやフォークソングのサブカルチャーも登場しましたが、米騒動50周年とは銘打たなくても、少数者・社会的弱者への目配りもありました。女性運動はウーマンリブとして輸入されたばかりでしたが、高度成長の副産物としての公害・環境破壊は広く知られ、水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくの被害者救済・裁判も進行中でした。実はこの頃、原発の本格的稼働が始まろうとし、原発立地の住民運動や科学者や学生たちの産学協同・軍学共同反対運動も広がっていました。日本の社会運動にも、無党派市民運動やベ平連・全共闘運動が登場していました。
◆それからさらに半世紀、マルクス生誕200年、明治維新150年となりました。マルクスは昨年の『資本論』150年の延長上で、新自由主義グローバリズムや地球的格差への批判的・原理的引照基準として、生き続けるでしょう。そんな世界を空間的・時間的に切断し、象徴天皇制と元号で内向きのナショナリズム・排外主義に取り込もうとする勢力は、明治150年を最大限利用するでしょう。半世紀前と違って、すでに国旗国歌法から20年近くたって、日本の近代化の光と陰をしっかり見つめた歴史像は、生まれにくくなっています。「失われた20年」と隣国中国の台頭、アベノミクスの 失政が、明治の近代化と戦後の高度成長・バブル経済を一続きにしたノスタルジアを強めるでしょう。来年の元号変更、2020年の東京オリンピックに向けて、近代化の陰でのアジアへの侵略と戦争の歴史、高度成長期の公害・環境破壊、バブル崩壊後の非正規雇用増大と格差拡大が意識的に抹消され、メディアとインターネットを総動員して健忘症(アムネジア)の国民作りが進められるでしょう。半世紀前の68年学生たちが、退職・年金生活に入り、「全日制市民」として首相官邸・国会前や各種政治集会に集まることはあっても、沖縄やパレスチナの問題に正面から取り組めるかは疑問です。むしろ、今こそ米騒動100年に立ち戻って、女性や若者たちの生活世界の原点からの抵抗に、期待せざるをえないでしょう。幸い、ロシア革命と米騒動を直結させるような歴史評価や、生活者の抵抗を政党政治と労働組合に代行させるような社会運動は、影響力を失っています。 21世紀には、21世紀にふさわしい権力との闘争があり、それは国民国家の時間と空間の仕切りを超えた、広がりと深みを持たざるをえないでしょう。
◆ 私の「行く年」は、春に公刊した『「飽食した悪魔」の戦後ーー731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)と11月にロシア革命100年として書いた、中部大学『アリーナ』誌20号「ソヴィエトの世紀」特集への寄稿「米国共産党日本人部研究序説ーー藤井一行教授遺稿の発表に寄せて」で、ペンの力は尽きました。前者の731部隊については、講演記録「731部隊の隠蔽・免責・復権と二木秀雄」、「戦後時局雑誌の興亡——『政界ジープ』vs.『真相』」(関連資料)に加え、年末に『週刊金曜日』編のブックレット『加害の歴史に向き合う』 にも収録されました。「来る年」は、1月20日(土)の第304回現代史研究会で、「今日もなお徘徊する亡霊たちーー731部隊の戦後史」を講演します(1−5時、明治大学リバティータワー7階1076室)。戦後の日本に「希望」を与え、日本の反核平和運動の象徴であった湯川秀樹博士の1945年1月から12月の日記が、京都大学で公開されました。ウェブからも、アクセス可能です。今年は湯川日記をも手がかりに、原発・細菌戦と追いかけてきた日本の科学技術発展と大学の軍産学協同の問題を、考えていきたいと思います。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
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