周回遅れの読書報告(その43) フェアプレーは、時と場合によりけりだ
- 2018年 1月 22日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
昔、まだ仕事をしていたころ、ある事情で、どうしても「しらを切る」というか、「嘘をつく」ことを余儀なくさせられる可能性が極めて高い状況になったことがある。「どうしたものか」と一時思い悩んだ。そんな時、偶然、電車の中で、佐高信『魯迅に学ぶ批判と抵抗』を読んだ。その数日前に書店の店頭で拾い出して買ってきた何冊かの文庫本のなかの一つである。ミステリーにしようか、これにしようか迷ったほどであるから、電車に乗るときに、「暇潰し」用として、たいして考えもせずに持って出かけたことになる。
読み始めて驚愕した。まるで当時の私の精神の揺れを見透かしたかの内容なのだ。例えば、「ウソをつかない」などということに対しては、「ウソによってしか武装できない民衆を武装解除する役割しか果たさない」という武谷三男のコトバが引いてある。「簡単にウソをつくななどいうな」と佐高はいう。そして項をかえて、「虚偽の重荷を負うことが必要なのだ」ともいう。さらに、「フェアプレー」や「正義」などは、客観的状況の中で判断すべきものであって、それ自体を振りかざしてみたところで何の意味もないともいう。
佐高は魯迅の次のような文章を引いている。「もし虎にぶつかったら、木によじ登って、虎が腹をすかして立ち去ってから降りてきます」。
これを読んで救われた気がした。
いずれ状況を説明しなければならない日が来る。そのときどう対応するか。それをずっと思い悩んでいた。「正義」ということからすれば、断じて言い逃れをすべきではない。しかしそうやった瞬間に、二の矢、三の矢を射るチャンスはほとんどなくなる。それでは、ウソをつくことは許されることなのか。答えが出なかった。
しかし、佐高が紹介する魯迅の考え方を知って、悩みは吹っ切れた。権力に対する抵抗である限り、あらゆる逃げも嘘言も許される。いや許されるというよりは、そうすべきなのだ、と思った。今はフェアプレーを云々している時期ではないのだ。権力を倒すこと、この一点だけを考えて行動しなければならない。
ただし、嘘言の責めは負わなければならない。いつか、ことが終わるときまで、嘘言の重みを背負わなければならない。その覚悟だけして、あらゆる戦法を駆使して、ゲリラ戦を挑むのだ。そう決意した。偶然手にした小さな文庫本がここまで自分を勇気づけるとは、我ことながら些か信じられない思いがした。
幸か不幸か、実際には虚言を使わなければならないことにはならなかった。それだけ追い詰められることはなかった。それが、私の戦い方がぬるかったからか、権力を握っていた側が油断していたからかは今となっては分からない。しかし、たとえその関係が変化していて、追い詰められたとしても、私は平然と虚言をはいていたと思う。それが必要ならば、躊躇すべきではないということを、この小さな本で学んだ。「山高きがゆえに尊からず」という。その真逆のことを、この230頁足らずの薄い文庫本で知った。
この本を手にしたことも、「嘘をついてでも切り抜ける」と決意したことも、もう遠い日の思い出となってしまったが、そしてこのあと、そういうことが再び生じる可能性も薄くなったが、強者に立ち向かわざるを得なくなった時に、どうすればいいかを、教えてもらった気がする。ただ、残念なことに、この本を含む現代教養文庫は社会思想社と共に姿を消した。「自分が生きた時代にはこんなにいい文庫があったんだけどなぁ」と回想しなければならないのは、せつない話である。
佐高信『魯迅に学ぶ批判と抵抗』現代教養文庫(社会思想社、1997年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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