周回遅れの読書報告(その45) スラッファの寡黙さ
- 2018年 2月 4日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
アルド・ナトーリ著『アンティゴネと囚われ人』を読んだことがある。グラムシが獄中にいたとき、彼を精神的・物質的に支えた、タチャーナ・シュフト(グラムシの妻の姉)と、グラムシの往復書簡をもとに(1934年に両者が定期的に会えるようになって、書簡のやり取りがなくなって以降は、タチャーナとP・スラッファの往復書簡で補強しつつ)タチャーナがいかに献身的にグラムシを支えたかが描かれている。
P・スラッファが大学以来のグラムシの友人であり、グラムシの死去に至るまで、最も親しい友人であり続けたことは知っていたが、そのことを、この本で改めて確認した。この本でもう一つ発見(確認?)したことは、スラッファの寡黙さである。グラムシの入獄の前後から、グラムシを親トロッキー派として、スターリンやその意を受けたトリアッティらは彼と距離をおき始めた様子がある。そしてこれを伏線として、グラムシが「彼らにやられた」と判断した1928年2月の奇妙な手紙がある。これ手紙を出させたのが誰なのか、そして何のために出したのか、グラムシは最後までそれにこだわっていた。タチャーナは、グラムシの死――1937年4月27日――の後(同年9月18日)、スラッファはそのことを知っているのではないと考え、彼に問いただす。
私は例の悪名高い手紙にそれとなく触れ、私の採るべき行動についてあなたから何かお聞きしたいと思っておりました。さもなければ、私はジューリャ[グラムシの妻:当時ロシアにいた]に対してさえどのように行動したらよいのか分かりません。……人は最も重要な問題を往々にして放置するものだ、ということはよく知っています。そうすることができるのは、怠慢とか、無関心とか、安穏な生活への愛着とか、ご都合、等々といういろいろな理由からです。私は単にニーノ[グラムシのこと]に対するばかりでなく、さらにまた裏切ってはならない彼の生涯の目的だったすべてのものに対する、私のもっと厳粛な義務を絶対にゆるがせにしたくないのです。
これほど、人間の勇気というものを想い出させる手紙も珍しい。アルド・ナトーリは「タチャーナは偉大な言葉を述べた」と書いている。しかし、スラッファの返事は素っ気ないものだった。それはタチャーナを――スラッファを最も信頼できる友人と信じてきたタチャーナを――激怒させ、スラッファとの絶交を決意させる程のものであった。スラッファは、グラムシもタチャーナもこの手紙を勘ぐり過ぎているとする。しかし、グラムシがそう思いこむに至った背景(イタリア共産党と共産主義インターナショナルの戦略方針に対するグラムシの不同意)に対しては全く沈黙する。グラムシの死後30年経てから出された手紙(1969年12月18日付けで、ケンブリッジから出されたもの)においても、曖昧に、1937年当時のグリエーコ(例の「手紙」の署名者である)の「指示」がどういうものであったか明確にすることなく、それは「私を激怒させた」と答えているだけである(しかも、それさえ秘密を条件に!)。そしてスラッファはそれ以外に何も語らずに世を去った。「[1937年]当時の彼[スラッファ]の沈黙は恐らく、死ぬまでの辛抱強い黙秘として、彼があえて越えようとしなかった一つの世界の悲劇的な限界だった」(234頁)とアルド・ナトーリはいっているが、スラッファは彼の最良の友人をむざむざと死に至らしめた政治の世界の論理に底知れぬ絶望感を抱き、生涯の沈黙を決意したようにも思える。
スラッファは彼の本来の仕事である経済学の分野においても、生涯に亘って極端なまでに寡黙であったが、その寡黙さは若き日のこの事件にあるいは一因があったのであろうか。
アルド・ナトーリ著『アンティゴネと囚われ人』(御茶の水書房、1995)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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