ノーベル平和賞と日本国憲法
- 2018年 3月 3日
- 交流の広場
- 山端伸英
(以下は思想の科学研究会会報187号に発表されたものを許可を得て貴ブログに投稿するものです。末尾に二行ほど補足を行いました)
最近、フェイスブックなどのSNSで日本憲法にノーベル平和賞を受賞させようという運動があるのを知った。その気持はわかるのだが、ノーベル平和賞という権威に対する安易な寄りかかりがあるのではないかという懸念を持つ。
一九七〇年代に、佐藤栄作がノーベル平和賞を受けた。それは、少なくとも日米軍事同盟が再強化された六七年に山崎博昭が集団行動の中で殺され、由比忠之進が自害を遂げた日々に一人の高校生として生きていたものにとっては驚くべきことだった。しばらく経ってから、藤田省三が「平和賞の権威はなくなったが、物理学賞はまだ救われる」とか言って朝永振一郎の「鏡の世界」の一節を授業中に引用していた。藤田のような東大法学部権威主義者がこの世の権威の順位付けを行なうというのは言語道断な風景であった。わたくしは由比さんが倒れている写真の中の姿を思い出していた。藤田は『権威』という言葉を使いながら実は『権威』を渇望していた。彼とともにある現世的『権威』にも鏡の世界は介在していることを知らなかったようなのだ。左右は反対に映っても上下は反対に映らないのである。
ノーベル平和賞は、佐藤栄作が受賞した前年の一九七三年、あの戦争仕掛け人のキッシンジャーに与えられており、その際、ノーベル平和賞委員会の成員二名がこれに反対して辞任を申し出ている。また大統領に就任して二週間もたたないにもかかわらず、まったく平和に関しては未知数のバラク・オバマは平和賞を受賞した。彼は、その後、中東に永続的な火種を撒くことになった。下記で述べるように、ノーベル平和賞の「平和」は全面的平和を恐れながら生きているカッコつきの「平和」なのである。
二〇〇三年一二月二一日、スペインの新聞「エル・パイース」が『ノーベル賞のもうひとつの顔』と題する記事を掲げた(注1)。そこではノーベル財団がほぼ一貫して武器産業への投資によって収入の安定を得ていることが述べられており、ノーベル財団自身がその行為について、アルフレッド・ノーベルの遺言に対する矛盾はないと弁明していると記されている。二〇〇三年当初、イラクへの侵攻の時期、ノーベル財団は四億コロナのエリクソン株を売り、『より安全な』投資に鞍替えしている。その結果、財団の総資本は二八億コロナから同年八月までに三〇億コロナに上昇している。
アルフレッド・ノーベルは、ノーベル賞の設立を遺言状に記しサインを行なった時点では、ダイナマイト・ノーベルの社主である以上に、ボッファース(BOFORS)社の社長として重鋼製武器産業の近代化を急いでいた。ボッファースは現在でも欧州指折りの戦略兵器産業である。また、ダイナマイト・ノーベルなどの基幹企業は現在も残っているが、二〇〇四年にGEAとの合併などを経て化学部門などの分離も行なっている。しかし、ノーベル財団の株式運用には当面、これらのノーベル系企業や他の軍事産業への戦争需要が密接に関連していることは「エル・パイース」の記事でも明白とされている。
では、このノーベル賞の経済基盤から導き出される『平和』の概念は、どのようなものなのだろうか。既に述べたように、ノーベル平和賞は『局地戦争』をある意味では前提としながら、その終息や軽減に努めた人材にも賞を与えることになる。同時にそれは、キッシンジャーが現在でも勢力を失っていないような、そして、オバマがディープ・ガバメントと呼ばれる影響力の行使にこだわっているような『継続への意志』に貫かれているのである。ノーベル平和賞委員会は、全面戦争や核戦争には完全に否定的態度を崩さない。しかし、軍需産業という局地戦争に有益な産業の永続をも当面は願っている。その点では、ノーベル平和賞のスタンスは、一九四六年日本国憲法の第九条とは根本的に対立するのである。幸福なことに、私たちの第九条は国家組織に対する神の寛容をも許さない点で、アルフレッド・ノーベルの遺志とも折り合わないのである。(注2)
こんな窮屈なものは取り払おうというのが、日本国民の安倍政権である。彼は、庶民の目線から一歩、一歩、総務省など官僚システムの援助の下、「普通の国」に日本を近づけてくれた「庶民の味方」でもある。それは、北一輝のような『ホームランと見まがうようなファール』ではなく、二〇一七年一〇月の選挙が示したような『全体主義』を思わせるような泥沼の完成によって証明された。(注3)
ノーベル平和賞受賞が、威信ある人間の営みのひとつであるかどうかはさておき、小生は、か細くここで、第九条のノーベル平和賞への立候補を否定しておきたい。これが小生の『思想』である。そして、これを、たった一人にせよ、他の方にも共有していただくことを希望したい。これがこの文章を書いた動機である。その反面、チュルノブイリで命を失った兵士や作業員たち、そして、福島で政府、東電、日本社会の無策と無責任の中で、地球環境を守るため、寒い今日も、暑い明日も、孤独の作業を続けている作業員の方々に、国際的な賞与が手渡されることを切に祈りたい。それは『国防』のみならず世界の将来を守る戦いであるのであり、現在の日本の使命は、地球の環境保全に全力を傾けることにほかならず、他国に『自衛隊』を派遣することにはないはずだからである。
(注1)エル・パイースEl Pa?s : 英語で言えばThe Countryで『くに』を意味する。スペイン語で『国家State』はエル・エスタードである。進歩的な提起を行なっているが最近のカタロニア問題では動揺を見せている。カタロニア語版も発行されている。記事の原題は:La otra cara de los Premios Nobel. 記者はリカルド・モレーノ。
(注2)憲法第九条: 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本国民という主語は英語原文では『日本人民』である。また2の『前項の目的を達成するため』の一句は英語原文にはない。
(注3)現代日本の思想 (久野収・鶴見俊輔)岩波新書 (青版257)1956.
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