ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(2)
- 2018年 5月 21日
- カルチャー
- 内野光子
5月8日、ダッハウ収容所へ、大勢の若い見学者たちに圧倒される
9時に中央駅構内のスタバでガイドのKさんと待ち合わせ、一日乗車券を手渡された。列車Sバーン2でErding行きと反対方向に乗ればよく、ダッハウ駅の先で二手に分かれるらしい。
Kさんは、ミュンヘン在住48年という主婦で、若いとき、日本での高校教師を経て、海外青年協力隊で、しばらくインドにいらしたという国際的な方だ。娘さん3人、お孫さん4人、現在は夫婦二人暮らしとのこと。ミュンヘンの観光ガイドとダッハウ収容所ガイドという二つの資格を持つベテランで、後者の資格を持つ日本人はしばらくの間、一人だったが、最近50代の方が加わり、二人になったそうだ。座席にカードとティッシュを配っている女性がやって来た。「あれは物乞いなんですよ、触らずに放っておいてください」ということだった。知らない間に、そのティッシュは回収されていた。そんな話を伺っている間に、ダッハウに到着、収容所行きバスの乗り場は、若い人たちでごった返していた。学校単位なのか、グループなのか、みんなリゾート地のようなラフな服装で、行き先が収容所とはとても思えない賑やかさである。バスは満員で、次を待つ。学校では強制収容所学習が義務付けられていて、バスで直接見学に来ることも多いらしい。
ダッハウ強制収容所も、かつて見学したポーランドのアウシュビッツやベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所の外観や概要は似ているようにも思ったのだが、Kさんの話を聞いたり、後で資料を調べてみたりして、その成り立ちや性格が少しづつ異なるのがわかった。
<私のこれまでの強制収容所見学記録は、以下のブログを参照いただければと思います>
・2010年5月31日「ポーランドとウイーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html
・2014年11月17日「ドイツ産都市の現代史に触れて フランクフルト・ライプッチヒ・ベルリン2014年10月20日~28日」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html
1933年、ヒトラーは首相になって開設したダッハウ強制収容所は政治犯のための強制収容所であり、他の強制収容所の先駆けとなりモデルにもなり、親衛隊SSの養成所にもなった。ミュンヘン近辺の140カ所の支所たる収容所のセンターでもあった。警察組織と親衛隊組織を統合した権力のトップにたったヒムラーが統括し、アイケが所長となっている。ここは、ドイツのユダヤ人のみならず、ポーランド、ソ連などの人々も収容した。ユダヤ人だけで死者3万2000人以上を数え、1945年4月29日のアメリカ軍による解放まで、のべ約20万人の人々が収容され、ここからアウシュビッツなどの絶滅強制収容所に送られた人々も多い。また特徴としては、聖職者も多く専用棟があり、医学実験と称して、人体実験(人体は気圧の高低、気温の高低のどこまで耐えうるかなど)が数多く実施されたことでも知られている。のちに述べるように、バラッ”X”と称される建物には、シャワー室を模したガス室が残っており、その近くには4基の焼却炉を持つ火葬場がある。ただ、このガス室は、使用された形跡がないともいわれている。
KZはKonzentrationslagernor強制収容所の略で、その記念地ダッハウとある
ARBEIT MACHT FREIの文字が読める
入り口②には、例の「働けば自由になる」(”ARBEIT MACHT FREI”)の文字がある門扉をくぐり、まず映画を見ましょうと、かつての管理棟、「見取り図」③の中央の映写室に入るが、第1回の英語バージョンは終り、オランダ語になっていた。Kさんが、後ろの座席から、画面の説明をしてくれるが、目を背けたくなるような映像が続く。上映が終わると、幾組かの中高生のグループが立ち上がり、オランダからの見学者なのかしらとも思う。この映画は、各国語の解説付きで、20分ほどの上映らしい。ドイツ語と英語は一日に5回、フランス語とオランダ語が各1回となっていて、日本語はない。
英語版のリーフレットの一部
公式のガイドブックの英語版の表紙
公開されている強制収容所跡は、以下の1945年現在の平面図の中の右下の長方形の部分と火葬場のあった部分であり、その拡大図が次の「見取り図」である。この敷地は、収容所の前は火薬工場があったところで、現在公開されていないエリアは、警察機動隊が使用しているということだ。公開エリアに関してもバイエルン州には、当初別の再開発計画があったそうだが、多くの関係者の要望で、今のような形で残されることになった。ここが、日本の、多くの日本人の歴史認識と異なるところだろう。
“MUNICH 1933-1945″の末尾の4頁がダッハウ強制収容所の説明と写真が収められている
「見取り図」、前掲リーフレットから
細長いコの字型の建物③の屋根には、かつては写真のように、スローガンのようなものが書かれていた。いまは、十数室の展示棟になっていて、1933年から時代順にこの収容所の歴史をたどることができている。様々な工夫がされている展示だが、丹念に見ていたら、半日以上はかかりそうだ。
これは1938年11月の収容者点呼の様子を描いたもので、残された貴重な資料の一つ。隊列の最後尾には遺体が並べられている。D.L.Bloshブロッホが、のち上海に逃れた1940年に描かれた
罰則のムチの刑がなされた台という。SSによる収容者への制裁は、食事抜き、70㎝四方の直立不動、強制労働などと並ぶムチ刑で、30回近く続いたという
こうした写真も数多く展示されているので、よほどの覚悟も必要である
1945年ナチスドイツの敗退直前、4月26日から始まった、ダッハウからテーゲル湖への収容者7000人の移動は、「死の行進」と呼ばれ、犠牲者は多数に及んだ。今ではその沿道に、慰霊の彫像が数多く設置されているという
初出:「内野光子のブログ」2018.05.20より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/01/post-9a71.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0631:180522〕
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