最高裁の「君が代」判決に、読売社説の追従と小林節の指弾
- 2018年 7月 31日
- 評論・紹介・意見
- 弁護士日の丸君が代澤藤統一郎
7月19日の、再雇用拒否第2次訴訟最高裁判決。各紙の社説を見てきたが、朝日・毎日・東京・道新などが確乎とした批判の論陣。これに対し、判決を肯定的に評価したのは産経一紙のみだった。
本日(7月30日)、読売社説が産経に与した。いや、いつものとおり政権側に与したのだ。「君が代判決 最高裁は起立斉唱を尊重した」というタイトル。
これを批判の対象として紹介するが、率直に言って極めて格調が低い。いや、そもそもものを考えた論説になっていない。法律論がない、憲法論になっていないというレベルではない。床屋談義並みのイデオロギー剥き出し。この点では、「天下の読売」が産経と変わらない。わが国の保守勢力を代表する大新聞のクォリティがこのレベルではまことに心もとない。
一方的に言い分を言い募るだけでは説得力ある論説とはなり得ない。対立する考え方を咀嚼し、噛み合った批判を提示し、その批判が何ゆえ正当かを論じなければならないが、読売社説にはその姿勢の片鱗も窺えない。そもそも、説得力ある論説を起案しようという意欲に欠ける。そういう眼で、以下の社説をお読みいただきたい。
入学式などで君が代の起立斉唱命令に従わなかった教員を、定年後に再雇用しなくても、違法とは言えない。穏当な司法判断である。
起立斉唱せずに戒告などの処分を受けた東京都立高校の元教員らが、それを理由に再雇用を拒否されたのは不当だ、と損害賠償を求めていた。最高裁は訴えを退け、元教員側の敗訴が確定した。
当時は、再雇用の希望者全員が採用されたわけではない。判決は「選考で何を重視するかは任命権者の裁量に委ねられる」との見解を示した。その上で、都教育委員会の対応が「著しく合理性を欠くとは言えない」と結論付けた。
再雇用した場合、元教員らが再び職務命令に反する可能性を重視した常識的な判断だ。
1審は、都教委の対応が「裁量権の逸脱で違法」だとして賠償を命じた。2審もこれを支持したが、最高裁は覆した。不起立については、「式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうもので、生徒への影響も否定できない」と指摘した。
入学式や卒業式は、新入生や卒業生にとって一度しかない大切な儀式だ。厳粛な式典で、教員らが調和を乱すような態度を取ることには到底、理解は得られまい。
日の丸・君が代を巡っては、「戦前の軍国主義の象徴だ」などとして、起立斉唱を拒む一部教員と学校側の対立が続いてきた。
都教委は2003年の通達で、式典で起立し、国歌を斉唱するよう教職員に義務付けた。起立斉唱の職務命令に従わなかった多数の教員が処分され、命令の違憲性を争う訴訟が相次いだ。
最高裁は11年、職務命令は「思想・良心の自由を間接的に制約する面がある」と認めつつ、合憲との初判断を示した。式典での秩序確保の必要性や、公務員の職務の公共性を鑑みた結果だ。
年金の支給開始年齢の引き上げを受けて、都教委でも現在は、希望者を原則として全員、再雇用している。そうであっても、都教委が「今後も職務命令違反については厳正に対処する」との姿勢を示しているのは適切である。
言うまでもなく、教員は児童生徒に手本を示す立場にある。小中高校の学習指導要領にも、入学式や卒業式で「国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と明記されている。
東京五輪・パラリンピックを2年後に控える。子供たちが、自国や他国の国旗・国歌に敬意を表する。その意識を育むことが、教員としての当然の務めである。
これではまるで、原告ら教員が「大切な儀式・厳粛な式典の調和を撹乱する不逞の輩」と言わんばかりではないか。現実を知らないにもほどがある。一人ひとりの教員が、どうして起立できないのか、斉唱できないのか。その理由を真摯に問う姿勢がない。全員が国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表することだけが正しくその強制を当然とする、読売・産経流の感性こそが、全体主義・国家主義の温床である。排外主義・非国民思想の根源でもある。
この読売社説には、原告教員らが拠り所とする、思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(20条)、表現の自由(21条)、学問の自由(23条)、(国家主義から解放された)教育を受ける権利(26条)、教育に対する不当な支配の禁止(教育基本法16条)などへの言及がまったくない。それでいて、学習指導要領(憲法の下位法規である教育基本法の、その下位の学校教育法の、その下位の法形式である「文科大臣告示」)についての恣意的な引用がなされている。そもそも学習指導要領に法規範としての効力があるか否かも争われているところであり、その学習指導要領ですら国旗国歌を強制せよなどとは言っていない。
本日のブログは読売社説批判に紙幅を費やすつもりでいたところ、適切な批判の記事が目にとまった。昨日(7月29日)の日刊ゲンダイ。小林節(慶応大名誉教授)の「ここがおかしい 小林節が斬る!」シリーズ。「教員の良心の自由を萎縮させる最高裁判決」というタイトル。これを引用させていただく。
小林節は保守の立場であり、改憲派でもある。その言論の多くに賛成はいたしかねる。しかし、産経や読売に比較して真っ当な保守であって、個人主義や自由主義を踏まえた立論で一貫している。この最高裁判決批判も真っ当なものだ。なによりも、国家との関係での「自由」というものの価値を語って小気味よい。
あらためて思う。「国旗に欠礼しただけで5年間の職を奪う」公権力。それを是認する司法。これは、恐ろしいことではないか。どこかの独裁国での出来事ではなく、これが我が国の現実なのだ。既に我が国は、政治的な雅量も寛容も失った、狭量な独裁国家となっているのかも知れない。
アメリカで、トランプ大統領が黒人差別を擁護するような発言をした直後に、あるプロスポーツの開会式場で国歌斉唱の際に、黒人選手が姿勢を正さず、片膝をつき、黒い拳を突き上げた姿が日本でも放映された。それが「自由な社会」というものである。
わが国は第2次世界大戦の加害国だという歴史的背景があるために、今でも「日の丸」と「君が代」については論争が絶えない。日の丸は、アジア諸国を侵略した帝国陸海軍の先頭にはためいていたために、軍国主義の象徴として忌避する者は今でも多い。また、かつて大日本帝国憲法の下で天皇制を称える歌として用いられた君が代は、国民主権国家に生まれ変わった現行憲法の下では違憲だと主張する者も多い。
だから、日の丸と君が代を用いる儀式に素直に参加することができない者も多い。これは、憲法が保障している「良心」の自由(19条)の問題である。
良心の自由に従って卒業式で日の丸・君が代に「欠礼」した公立校の教員が、懲戒処分を受けた。「式の秩序を乱した」ということで、戒告(単に「叱りおく」こと)はいいとしても、減給、停職は荷重である……と、かつて最高裁は判断した。
今月19日、最高裁は、式の秩序を乱したことに加えて、「生徒への影響も否定し難い」点を重視し、定年後の再雇用拒否も合法だとした。これでは二重のペナルティーであろう。
前述の歴史を考えた場合、教員が良心の自由に従って日の丸・君が代に欠礼した行為は、次代を担う生徒たちが「人権」と公益の関係を考える最高の教材であったはずだ。
それが当局に全員を再雇用する義務がなかった時期の処分であったとしても、この判決が全国の教育現場を萎縮させてしまう効果に思いが至らない最高裁には失望させられた。
40年も前にアメリカに留学した時に、憲法教授が、高名な元最高裁判事の言葉を引用して、「最高裁判事は、単に法律家であるだけでは足りず、政治的な雅量も必要である」と語っていたことが、今回、頭の中に蘇ってきた。その教員は君が代に欠礼しただけで5年間の職を失ったのである。
(2018年7月30日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.7.30より許可を得て転載 http://article9.jp/wordpress/?p=10815
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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