2018.ドイツ逗留日記(7)
- 2018年 7月 31日
- カルチャー
- 合澤 清
ちょうど東京と真逆のように、このところ連日ものすごい暑さだ。東京からどうやら暑さも峠を越えたようだ、との便りがあったその日から、猛烈な暑さが始まった。
報道では、どうもヨーロッパ北部の方に強力な高気圧が居座っていて、なかなか南下せず、スウェーデンなども信じられないほどの暑さと旱魃に見舞われているようだ。
昔、エジプト人の友人が、こういう高気圧が北から南へと降りて来て、エジプトの上空あたりで停滞するため、エジプトの夏は猛暑になるが、その南下につれてヨーロッパは段々涼しくなるんだ、と言っていたことがあった。今年はそれが狂っているようだ。
水曜日の集まりでドイツ人の友人と話をしていた際、改めてこの話が出たので、「実は僕らは、明日日帰りでリューベック(北ドイツの海辺の町)まで行こうと思っているんだが、北の方が暑いのなら予定変更して南ドイツに行く方がいいかもしれないね」と軽口をたたいた。友人は案外真面目に、「それの方がいいと思うよ。ローテンブルク(Rothenburg o. d. Tauber)なんか、中世の町がそっくり残っていて、なかなかのもんだと思う。」「その後、僕の故郷のカールシュタットなんかによれば、美味しいフランケンワインが飲めるよ」と笑いながら付け加えた。
ついその言葉に乗せられて、予定変更し、ローテンブルク行きを決めた。
実は先日の2泊3日の旅行もだが、毎年5回分の「ジャーマンレイルパス」を買って来ている。最初の1回は、空港に着いた時にゲッティンゲンまでのICE料金込みの乗車賃に使うのが常である。まともに買えば150ユーロはかかるからずいぶん割得である。
ところが、残りの4回分をどう使うか、これが毎年の難題だ。昔は使用期限が2カ月間あった。ところが数年前に改悪されて今や1カ月しかない。7月の末までには切れてしまう。今回は27日がリミットである。友人たちからの誘いもある中で、日程のやりくりが大変になる。
先日の旅行で3回分(都合4回分)を消化したので、最後の1回分を今回使うことにしたわけだ。
ローテンブルク(Rothenburg o. d. Tauber)
「タオバー川ほとりのローテンブルク」というのが正式の名前だ。タオバー川というのは、マイン川(フランクフルト・アム・マイン=マイン川沿いのフランクフルトとして知られる川)の支流である。友人の故郷のカールシュタットも正式にはカールシュタット・アム・マインという。ドイツの地名にはこの種の名前が多い。
ローテンブルクは、いろんな国のドイツ観光案内などで紹介されているせいもあり、またおそらくドイツのグルントシューレ(小・中学校)の夏休み中の実習教育としても利用されているのであろうか、小さな町なのに、なかなか観光客で賑わっていた。
特にアジア系の人たちが目についた。駅のインフォメーションには、ドイツ語、英語に混じって日本語、中国語、韓国語のパンフレットが置いてあったが、日、中、韓でこの町が大いに宣伝されている証拠であろう。
ヴュルツブルクというフランケンワインの一大産地であるこの辺の大都会を中継点にして、各駅停車の電車を乗り継いでいく。約1時間程度。
およそドイツの街は、どこでも同様に城、市庁舎、教会を中心にしてその周辺に環状に町を作り、城壁というよりも町全体を取り囲む壁(マウアー)を巡らせてある。
マウアーが完全に近い形で残っているのは、おそらくここローテンブルクなど数えるほどしかないのかもしれない。マウアーには外部との交流のための通路が設けられていて、それぞれに塔が建てられている。何でもこの町のマウアーは、42もの塔を備えているそうだ。
ここにお城が建設されたのは、1142年というから、わが国の鎌倉幕府成立の50年前になる。その後さまざまな歴史的変遷をたどっているが、16世紀初めのドイツ農民戦争の時代には、この地は反乱軍側(トマス・ミュンツァーの方)に立っている。
第二次大戦時には、おそらくヴュルツブルクにナチス党の大きな拠点が置かれたせいでもあろうが、ここも爆撃の憂き目にあったそうだ。そのせいで、せっかくの中世の遺跡の約40%が破壊され、今の街は、実際には戦後の復興支援金で再建されたものだという。
右手の壁がマウアー マウアーの外部との通路
通路の上にそびえる塔 細い路地の街中
この町にまつわるいろんな伝説等に関しては観光案内書が詳しいので、ぜひそれをお読みいただくとして、面白い逸話としては、17世紀の初めごろ、この小国の危急存亡をかけての飲み比べで、当時の市長(ヌッシュ)がビール3.25リットルを一気に飲み干して町を救ったという話がある。なんだか、「黒田節」の逸話(黒田藩の母里太兵衛が「日本一の槍」をかけての福島正則との飲み比べ)とよく似ていて、少し興味がわいた。
しかし、私の率直な感想では、何かのテーマをもった探訪でないかぎり、やはり単なる観光巡りでしかない。おそらく、フェストの期間や有名な(中世の扮装をした)夜警の後についての街めぐりなどは、それなりの楽しさがあるだろうが、それだけでしかない。
例えば、ハンザ同盟の主要都市を訪ねる旅の方が、もっと気分は高揚する。いつか、時間があれば、ハンザについてもう少し調べてみたいと思っている。
今回の旅は日帰りの急ぎ旅だったため、友人の故郷にも寄れなかった。
また、ちきゅう座の仲間のFさんから、若い頃、この近くのLohr am Main(ローア・アム・マイン)という小さな町(実は「白雪姫」の舞台の町)のドイツ系の会社にいたことがあったというメールを頂いたので、どんな町なのか立ち寄りたかったのだが、それもできなかった。
マイン川沿いには美しい町が沢山あるというのがドイツ人の友人の話であった。確かに、電車の中から見る周辺の景色は、一面のブドウ畑が丘の傾斜全体に広がっていた。世界的なワインの名品(フランケン)を産出する地方だけあると思った。
余談だが、彼に言わせると、バイアン(バイエルン人)はいつもへべれけになるが、フランケン人は節度をわきまえて飲んでいる、とのこと。
もう一つ余談。8月4,5日にかけて、ベルリンの「カール・マルクス通り」(Karl Marx Allee)で、今年もビール祭りがおこなわれるそうだ。何でもこの通りの端から端まで、何km(?)だったかにわたってビール屋の出店が並ぶという。話を聴いただけで酔いがまわりそうだ。マルクスは、やはり「ビール党」だったのか…?
複雑に曲がりくねったドイツの道路
日本でも曲がりくねった道路は古道だということが言われる。おそらくそれらは自然の地形をそのままに利用し、田畑、森林、川や池などをよけながら作られていったせいであろう。もちろん、中には城郭内部やその周辺の城下町の迷路のように、敵が容易に攻めきれないように工夫されて作られたものもある。
西洋の道路もおおむね同じようなものだと思う。
パリの道路のように凱旋門から放射線状に伸びている近代的なものもあるが、こういう道路は、大体が19世紀半ば以降に作られたもののようだ。
パリの道路は、1848年の二月革命に恐怖した権力側が、デモや武装蜂起を防ぎたいとの意図から(もちろんそればかりではなく、コレラの流行を防止するなどの目的も伝えられている)、ナポレオン三世(第二帝政)の時代にパリの改造として建設している。
これらの事情については、フローベルが小説『感情教育』の中で生き生きと伝えている。
日本でも、明治期以後、あるいは関東大震災や第二次大戦の敗戦以後、主に大都市で道路整備が大々的に行われている。しかし、ひとたび田舎へ行けば、相変わらずの細くて曲がりくねった道が残っているのはご承知のとおりである。
ドイツも同様だ。鴎外が描写した留学中のベルリンの道路状況やその周辺の美しく繁った木々(例えば、「ウンター・デン・リンデン通り」にあったという森)は、今ではかなり様子が変わっている。詳しく調べたわけではないが、道路幅も当時とは比べ物にならないほど広くなっているだろうし、車が通るのに便利なようになってきているであろう。その分、自然は破壊され、美しい森林は削り取られている。
それでもいったん地方都市や村に入ると事情は異なって来る。先に触れたように、ほとんどの町が、城、あるいは市庁舎や教会を中心に環状に壁をめぐらせて作られている。壁(マウアー)で外敵の侵入を防御したり、他国の商人への課税目的の通行税などが、その狙いである(クライストの『ミヒャエル=コールハースの運命』でも触れられている)。
壁で囲まれた町の内部は、細い道がくねくねと交叉し、なんだか迷路に迷い込んだかの感に襲われる。古くて伝統のある町ほどこういう傾向が強い。
今日では、完全にマウアーで囲まれた街はほとんどないであろうが、それでも、一度迷いこめば、慣れない旅人は、なかなか街の外へ抜け出られなくなる。
われわれが現在借宿しているハーデクセンから隣町のゲッティンゲンまでは、おそらく直線距離ではほんのわずかでしかないだろうが、バスで行けば、複雑に曲がりくねった細い道を(しかもドイツのバスはかなりのスピードで走る)、よく事故を起こさず走るものだと思えるほど巧みなハンドルさばきで40分間位走り抜けていく。途中に「う回路」の指示標識が予告なしに立つのも日常的だ。
前にも書いたが、ドイツの自然環境は素晴らしい。しかし、こと道路に関して言えば、主な道路はほとんど車に占拠されている。うっかり歩こうとすれば、猛スピード(ドイツ人はスピード狂?)の車にはねられそうになる。ヒトや自転車は、やむなくそれ専用の道(丘のヘリや尾根などの小道)へと追いやられることになる。
道路について考えるときいつも思うのは、人間生活をエンジョイするためにどう環境問題に向き合っていくべきかということである。かつては「都市問題」として論じられたこともあった自然との共生の問題である。
はるか遠い昔から、人間は環境を自己防御(戦争)と産業の利便性という面からのみ専ら都市づくりに利用してきたのではなかったか。しかしそれが今や、人間生活にとって阻害要因になり、利便性が環境破壊と騒音、大気汚染、交通渋滞、さては異常気象の原因の一部にもなり、洪水(ダムの決壊なども含む)、がけ崩れ、道路の陥没、山火事や害虫による森林破壊、などにつながって来ているのではないのか。
諸個人の生活を豊かにするために作られたものが、今や逆に、国家(戦争)や産業の利便性が主になり、諸個人の生活はそれらのためにあるかのごとき従属的立場へと追いやられてしまっている。
今一度、これらの関係を考え直すべき時に来ているのではないだろうか。
(2018.7.31記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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