私が出会った弁護士(その3) ― 安達十郎
- 2018年 8月 17日
- 評論・紹介・意見
- 弁護士澤藤統一郎
東京弁護士会の月刊機関誌を「LIBRA」(リブラ)という。公平の象徴である「天秤」の意味なのだそうだ。その「LIBRA」の最新号(2018年8月号)の会員消息欄に、安達十郎さんの訃報が掲載されていた。6月29日の逝去。享年93。弁護士登録番号は6336。謹んで哀悼の意を表する。
安達さんは、私が弁護士となったきっかけを作った方。おそらく安達さんご自身には記憶になかったろうが、50年以上も昔にこんなことがあった。
私は学生で、駒場寮という学生寮に居住していた。その「北寮3階・中国研究会」の部屋の記憶が鮮やかである。ペンキの匂いも覚えている。ある夜、その部屋の扉を叩いて、集会参加を呼びかける者があった。「これから寮内の集会室で白鳥事件の報告会をするから関心のある者は集まれ」ということだった。
白鳥事件とは、札幌の公安担当警察官・白鳥一雄警部が、路上で射殺された事件である。武闘方針をとっていた共産党の仕業として、札幌の党幹部が逮捕され有罪となった。そして、再審請求の支援活動が市民運動として盛り上がりを見せていた。
当時、私は毎夜家庭教師のアルバイトをしており帰寮は遅かった。集会の始まりは深夜といってよい時刻だったと思う。なんとなく参加した少人数の集会だったが、その報告者の中に、若手弁護士としての安達十郎さんと、まだ30代だった国民救援会の専従・山田善二郎さんがいた。もちろん私は両者とも初対面。自由法曹団も、国民救援会も殆ど知らなかったころのことだ。
具体的な会合の内容までは記憶にない。格別にその場で劇的な出来事があったわけではない。しかし、初めて弁護士が受任事件について情熱をもって語るのを聞いた。安達さんの報告に好感を持ったのは確かなこと。私はその集会をきっかけに、国民救援会と接触し、札幌の白鳥事件の現地調査に参加し、山田さんに誘われて鹿地事件対策協議会の事務局を担当し、やがて弁護士を志すようになる。
弁護士を志す最初のきっかけが、安達弁護士と山田さんの、あの駒場寮での深夜の集会だった。そして、弁護士になるなら、当然自由法曹団に参加するものと決めていた。私が弁護士になったころ、安達さんは、池袋にあった青柳盛雄法律事務所(現・城北事務所)の番頭格の弁護士だった。蒲田の東京南部法律事務所の所員となった私が頻繁に接する人ではなかった。
私の同期で親しかった門屋征郎君が、青柳盛雄法律事務所に入所して安達さんから哲学や経済学の薫陶を受けたと聞いていた。しかし、私が安達さんに直接、学生時代こんなことがありました、とお話しする機会は最後までなかった。
安達さんは、自由法曹団東京支部の通信に、次のような一文を寄せている。飾らない人柄がよく出ているこの文章をご紹介して、故人を偲びたい。
1 私は昭和49年秋城北法律事務所を退所して、池袋に安達法律事務所を開き、いわゆる「個人団員」となった。
その頃、個人団員は団活動から遠ざかり、事務所の経営に精力を集中するのが一般であったが、私は前と同じく団の市民部会(現「市民委員会」)に出席し、団活動を続けていた。
弁護士というものは、「丸ビル」内に事務所を張って、大企業を顧客として収入をあげる極く少数の弁護士を除くと、あまり儲からない仕事である。団活動をやめて経営に集中したからといって、大きく収入が増えるというものではない。
私は「個人団員」となって数年後、団市民部会に持ち込まれた千葉県松戸市の石材店組合の「所得税課税処分取消請求訴訟」を担当し、千葉地裁松戸支部の法廷で証人尋問をしていたことがあった。
私はその日から数日後、私の尋問を傍聴していたある「病院経営者」からその経営する病院の法律顧問に就任して欲しい、との申出を受けた、この申出は、私の尋問技術ではなく、国家権力の不当な処分に立ち向かってゆく姿勢を評価してくれたものと思われる。
私は病院の法律顧問に就任してから、ある造園業者を紹介され、その業者の法律顧問となった。
自由法曹団での活動は、事務所の経営を圧迫するのではなく、かえって、市民の信頼を得ることによって、その経営にプラスすることもあるのである。
2 昭和53年頃から大型小売店舗(スーパー)が既存の商店街に進出し、その出店によって地域の小売業者が倒産するなどの大打撃を受けるようになった。
団の市民部会所属の団員は幾度も団本部に集合し、地元商店会の役員、地域民主商工会の役員・事務局員などにも来てもらって対策を協議した。
その結果、地元商店会の皆さんがスーパー進出に反対する旗印として掲げた「生業権」をスーパーの出店を制約する法理論として構成することが出来ないかとの問題提起があり、私がその理論構成の担当者にされた。
私は、私の考えを「『生業権』試論」という論文に取りまとめ、「法と民主主義」(125号)に掲載してもらった。私は、商店会や民主商工会などから寄せられた資料に、私の乏しい法知識、経済学、経済哲学、倫理学などの知識を総動員して、「生業権」の理論構成を試みたが、出来上がったものは、現実にスーパーの出店を差し止める程の権利とまでは、いえなかった、しかし、この論文はある大学のある学部のゼミナールの教材として使用され、また、「法律時報」の1998年12月号でその要旨が紹介された。
3 私は、新自由主義経済の時代に入ってから自由法曹団の諸活動に関連して、この経済社会を批判する主張を「特別報告」としてとりまとめ、団の5月集会に提出したことが何回かあった。
私の独自の主張を読む団員はいないだろうと思っていたが、意外にも、毎回いく人かの団員から、「面白かった」、「啓発された」というような感想を頂戴した。
自由法曹団は、私にとって、まことに居甲斐のある団体である。
学生時代のあの日。駒場寮内の薄暗いあの部屋での集会に参加しなかったら、法学とは縁もゆかりもなかった私が弁護士を志すことは多分なかっただろう。弁護士になったとしても、「『丸ビル』内に事務所を張って、大企業を顧客として収入をあげる極く少数の弁護士」を志していたかも知れない。
多くの人との出会いの積み重ねで、自分が今の自分としてある。安達十郎弁護士と山田善二郎さんには、大いに感謝しなければならない。なお、駒場寮の存在にも感謝したいが、いま駒場のキャンパスに寮はなくなっている。寂しい限りと言わざるを得ない。
(2018年8月13日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.8.16より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=10912
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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