「サザエさん」に見る敗戦直後のくすり事情(2)
- 2018年 9月 4日
- カルチャー
- 内野光子
手元の「サザエさん」の八巻分の後半をたどりたい。
第五巻:1950年8月刊。第1頁から、チリンチリンと鐘を鳴らす納豆屋さんから買うのが、1本10円のわらづとの納豆だ。2頁目が、郵便屋さんが「年賀はがき」を売りに来る。1949年12月1日、お年玉付き年賀はがきが売り出されている。ちなみに1円の寄付づきの年賀はがきが3円、普通の葉書が2円なので、寄付の割合が3分の1というのも、今では考えられないが、はがき代の5倍が納豆1本という時代だったのだ。
タラちゃんのノドの具合が悪いらしく、ルゴール液を綿棒の先の脱脂綿につけている場面もあったが、一般家庭でもされていたことだったのだろう。私は、水銀体温計で、かっちり5分間かけて計るという場面が興味深かった。いまでこそ、額に触れもしない電子体温計でたちどころに計測されるが、かつては、1分計、3分計、5分計、7分計などというのがあった。そのメーカーも、仁丹(森下仁丹⇒1974年デルモ)、マツダ(マツダランプ⇒武田薬品)、柏木というのがあり、平たいのと三角形の棒状のものがあったはずだ。私も、たしかに、「何分計にしますか」などと売っていた覚えがある。父は、どういうわけか、お客さんには、必ず「1分計や3分計でも、10分は計らないと、正確には出ませんよ」と、念を押すのが常だった。少々高額な体温計を買ったお客さんにしては何となく腑に落ちなかったのではないか。
第5巻、水銀体温計は、計り終わって、水銀を下げるときに、手首を何度も振って、近くの何かにぶつけて壊してしまうということが一度ならずあった。ころころと玉になって転がる水銀を息をつめて?集めたことが思い出される。テルモが家庭用電子体温計を発売したのが1983年という
第六巻:1951年2月刊。サザエは、大阪のマスオの父親の法事に二人で出かける。大阪までの東海道線の列車内の光景や親戚との出会いや大阪、京都観光もなかなか面白い。まだ、回虫の寄生率は高かったらしく、「怖い話」として登場している
また、なんと「サンマータイム」が題材となって何度か登場しているのも興味深い。現在、安倍首相やJOCが、2年後のオリンピックの猛暑が不安になったのか、思いつきのように「サマータイム」の検討を言い出した。ヨーロッパでは廃止や廃止の方向にあるなか、何をいまさらと思う。GHQの指導で、1948年4月「夏時刻法」公布、5月2日から9月11日まで実施、以降、51年の夏まで実施され、1952年、独立を機に廃止した。実施中は、混乱も多く、残業の増加、寝不足など、すこぶる評判が悪かった。日本列島の日の出・日の入りの時間差や夏の湿気の多さは、夜になっても変わらないことから、サマータイムは不向きとされているし、第一、付随する機器の切り替え費用が半端ではないらしい。
第六巻、何度目かのサマータイムに関わらず、混乱している様子が分かる。一家に時計なるものが、一つしかない時代であった。現在、家の中の時計をサマータイムに合わせろと言ったら大変ことになるはずだ
第七巻:1951年8月刊。この巻あたりから、「朝日新聞」の夕刊での連載を経て、1951年4月16日から「朝日新聞」の朝刊での連載分だろうか。
2018年の猛暑は、当方の加齢もあってか、きびしいものだった。アセモこそできなかったが、冷房をかなりの時間かけていたし、少し動くとどっと汗が出て下着を替えたりした。「サザエさん」で、涼をとると言えば、うちわ・扇子か扇風機であった。また、ワカメが泣いておねだりするのを、母親に「アセモできますよ」と言われて、鏡台の前で、しきりに「天花粉」をパタパタとパフではたく場面があった。そういえば、シッカロール(和光堂)、あせ知らず(徳田商店)は、銭湯に持参する人もいて、よく売れた。丸い缶入り、ボール紙の容器もあった。大人も子どもも、赤ちゃんもアセモをよくつくっていたような気がする。
第7巻、こんな鏡台もなつかしい
箱に入った布袋の「あせ知らず」は、粉が飛び散らず、携帯用にもなっていた
一方、物価は上昇を続け、サザエは編み物の内職までするようになる。ご近所には喜ばれていた様子もうかがえる。当時は、つぎあて、染め直し、洗い張り、仕立て直しなどは、主婦の日常の仕事だった。わが家でも、母は、みやこ染めを使って、大きな鍋で染め直しをやっていたのを思い出すし、近くで洋裁をしている方に、何かとお願いしているようだった。
なお、相変わらず、衛生状態は悪く、1948年と50年には、蚊を媒体とする日本脳炎の大流行があって、1950年、患者は約5000人に達したが、54年からは法定伝染病に指定され、予防ワクチン接種が勧められるようになって、いまでは発症はまれである。脳炎ではないけれど、私には、ご近所の同学年の男子Yちゃんが狂犬病で亡くなったという出来事があった。狂犬病は、戦時下の1944年から流行し始め、1947年伝染予防法で患者届け出制ができ、1950年に狂犬病予防法が成立している。Yちゃんは、映画大好きで、夏の夕涼みの折など、「鞍馬天狗」の話や嵐寛寿郎の真似が得意で、みなを和ませていた。狂犬病にやられ、10日ほどで亡くなってしまったのだ。我が家で20年以上前から犬を飼うようになって、毎年4月の予防注射の時期になると、Yちゃんのことを思い出しては悔やまれるのだったが、いまはその二匹も亡くなって数年経ち、予防注射とも縁が無くなってしまった。
第7巻、ちょうど続き頁でこんな2本があった。ワカメならずとも、ピー・ティーエー、ビーシージーもD・D・Tの略語は分りにくかったはずだ。保健所からの強制散布が日常的だったことが分かる一コマだ、
第八巻:1952年1月刊。サザエの父親が、庭に花の種を蒔いたつもりが、「仁丹」とわかる一コマは、微笑ましい。第三巻には、ワカメが、ご近所からサツマイモ1本をもらったと、息せき切って、庭いじりをしていた父親に届けると、なんとダリヤの球根だったという一本もあったことと比べると、暮らしにもややゆとりが感じられるようになったことが分かる。さらに、父親は、サザエに婦人雑誌の新年号を土産に買ってきて喜ばれるが、サザエが寝入ると、そっと「抜け毛を防ぐ方法」という記事を見ながら、鏡台の前で試している1本もあり、そんな余裕も若干感じられるのだった。
初出:「内野光子のブログ」2018.09.03より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0693:180903〕
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