緊急事態において“復興構想”を議論する東日本大震災復興構想会議の愚かさ
- 2011年 4月 18日
- 評論・紹介・意見
- 原発事故広原盛明東日本大震災復興構想会議菅政権
関西から(9)
4月14日、政府の東日本大震災復興構想会議が首相官邸で初会合を開いた。復興構想会議が設置された趣旨は、「未曾有の被害をもたらした東日本大震災からの復興に当たっては、被災者、被災地の住民のみならず、今を生きる国民全体が相互扶助と連帯の下でそれぞれの役割を担っていくことが必要不可欠であるとともに、復旧の段階から、単なる復旧ではなく、未来に向けた創造的復興を目指していくことが重要である。このため、被災地の住民に未来への明るい希望と勇気を与えるとともに、国民全体が共有でき、豊かで活力ある日本の再生につながる復興構想を早期に取りまとめることが求められている」というものだ。(首相官邸ホームページ)
会議の冒頭、菅首相は「ただ元に戻す復旧でなく、創造的な復興(ビジョン)を示してほしい」と述べ、それに応えて議長の五百旗頭真防衛大学校長は、(1)超党派の国と国民のための会議、(2)被災地主体を基本とし国としての全体計画を作る、(3)単なる復興でなく創造的復興を期す、(4)全国民的な支援と負担が不可欠、(5)明日の日本への希望となる青写真を描く、の5項目を基本方針として提示した。また会合後の記者会見では、「復興に要する経費は阪神大震災時の比ではない。国民全体で負担することを視界に入れないといけない」として「震災復興税」の創設を提唱したという。(毎日4月15日)
だが各紙・電子版の報道によれば、会議は議題の取り扱いをめぐって冒頭からかなり紛糾したといわれる。原因は、菅首相が議論の対象から原発問題を外すよう指示し、五百旗頭氏がその旨を伝えたのに対して、各委員から異論が噴出したためだ。原発事故の被害に苦しむ福島県の佐藤雄平知事は「原子力災害も皆さんに共有していただきたい。安全で安心でない原子力発電所はありえない」と提起し、脚本家の内館牧子氏も「地震、津波、原発事故という3本の柱で考えたい」と主張した。また会議終了後、特別顧問の梅原猛氏は、「原発問題を考えずにはこの復興構想会議は意味がない」と断言したという。(毎日、同)
初会合でのこのやり取りを見るだけでも、菅首相が鳴り物入りで立ち上げた復興構想会議の意図はいったいどこにあるのか、大いに疑問が湧いてくるというものだ。会議の議論はまだ始まったばかりだが、以下、現在時点における私の感想や意見をいくつか述べてみたいと思う。
まず最大の疑問点は、原発事故の収束見通しが全く立たず、それどころか今後の対応次第では、チェルノブイリ級あるいはそれを超える「過酷事故」に発展する危険性さえ指摘されている緊急事態だというのに、「なぜいま復興構想会議なのか」という問題である。これを太平洋戦争下おける戦火・戦災との対比でいえば、アメリカ軍の大空襲・絨毯爆撃の最中に、「終戦」に向けての努力を放棄し、逃げまどう被災者を傍観視しながら、大本営で「戦災復興構想計画」の議論をするようなものだといえる。
しかも菅首相は、こともあろうに今回の「復興構想」から原発被災問題を外して議論したいというのだから、福島県知事ならずとも誰しもが「それでは話にならない!」と思ったのではないか。そういえば、構想会議メンバーには原子力・原発関係の専門家は一人もいないし、構想会議のもとに設置された検討部会メンバー17人のなかにも、同分野の専門家や研究者は誰一人として含まれていない。すでに構想会議メンバーの人選の段階から、「原発被災問題はやらない」との意図が徹底しているのである。
なぜ、菅首相はこんな現実離れした「構想会議」を立ち上げ、こんな偏ったメンバーの人選を行ったのか。私は、その意図のひとつが「原発事故逸らし」、もうひとつが「復興税導入世論づくり」だとみる。
「原発事故逸らし」は、意識するとしないとにかかわらず、事故発生直後から始まったとみてよい。事故初期に大量の放射性物質の放出が集中的に発生したのに(日経4月13日)、原子力保安院がレベル4程度の「軽微な事故」に見せかけようとしたこと、最悪の「事故レベル7」に引き上げられた現時点においても、原発周辺地域に対して明確な避難対策を講じることなく、「ただちに健康への被害はない」といった“風評”を、枝野官房長官をはじめ政府自らが撒き散らしていること、などを挙げれば十分だろう。
でも、こんな“小細工”はすぐにばれるというものだ。菅首相が松本参与に漏らしたとされる「原発の周囲30キロあたりは20年、30年住めない」といった発言(ホンネ)は、双方の否定にもかかわらずもうとっくの昔に既成事実化している(朝日4月15日)。事態がそこまで深刻化しているのであれば、もはや政府のなすべきことは「最悪の事態」に立ち向かう抜本的政策の立案であり、長期化する放射能汚染地域の自治体や地域住民に対する責任ある保障と生活再建策の提示でなければならない。
本来であれば、それが国民生活と国土の危機に直面した政府のなすべき使命であるにもかかわらず、なぜ菅政権はこんな小細工を弄してまで事態をごまかそうとするのか。またこの程度のことで、「被災地の住民に未来への明るい希望と勇気を与える」ことができるとでも思っているのだろうか。
このような事態が生み出された背景には、経団連をはじめ経済界が東電を庇うばかりで責任ある対応を取らず、傲慢にも原発の安全管理も事故補償もすべて政府の責任だと押し付けてくるという状況がある。また、それに抗することができない財界従属的な菅政権の体質がある。したがって菅首相に残された道は、「今を生きる国民全体が相互扶助と連帯の下でそれぞれの役割を担っていく」という美辞麗句のもとに、「震災復興税」を国民に転嫁する選択肢しかないのである。
しかし「震災復興税」をあまねく国民に負担させるには、それ相応の口上が求められる。大震災で被災者が困っているから、すべての国民が税金を負担して助け合おうというだけでは、「我々も困っている」という多くの国民を納得させることができない。そこで出てくるのが、「国民全体が共有でき、豊かで活力ある日本の再生につながる“復興構想”」なのである。
「単なる復旧ではなく、未来に向けた創造的復興を目指す」という枕詞は、原発事故の被災地復旧に第一義的責任を負う東電の企業責任を曖昧にさせ、それを「豊かで活力ある日本の再生」という言葉で包んで全国民の課題にすり替える伏線となっている。「元へ戻すこと」すなわち「復旧」は東電の責任だが、「創造すること」すなわち「復興」は全国民の課題であり、我々すべてが分かち合うべき社会的連帯責任だというシナリオなのだ。
被災者や国民を馬鹿にしてはいけない。「復興構想会議」という名称にあるように、当面する被災者や被災自治体の実効ある生活再建策を棚上げにして、いくら“復興構想”という「ポンチ絵」や「ダマシ絵」を書いても、それは日々深刻化する被災地域の現実によって描いた瞬間から容赦なく剥がされていくだろう。そしてこんな子供だましの紙芝居は、おそらく初幕は開けても二幕、三幕とは続かないことを知るべきだ。6月末までに第1次提言がまとまるというが、そのときに提言を受け取る菅首相の姿があるかどうかはわからない。
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