文学青年が政治を発見するとき - 堀田善衛の『上海にて』を読む -
- 2018年 12月 26日
- カルチャー
- 半澤健市堀田善衛書評
『上海にて』の序文には一九五九年六月の日付がある。
敗戦後一四年を経て書かれたこの文章について、筆者は「私のこれまでに書いた、まとまりのないもののなかでも、もっともまとまりのないものである。まとまりをつけようと努力をした。が、それをとげることが出来なかった」と書いている。
たしかに本書は、エッセイでもあり、評論でもあり、歴史認識でもあり、ルポルタージュでもあり、旅行記でもあり、個人的な回想でもあるが、同時にそのいずれでもない作品である。「一年九カ月ほどの上海での生活は、私の、特に戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしてしまった」という。本書にはその「生き方」と「決定的なもの」が、溢れかえり、溢れ出ている。彼の全作品の原型を先取りしているのではないか。文庫で二〇〇頁余りの書物をそろりと読み取っていきたい。
《芸術至上主義の枠が破れた》
慶応義塾大学の仏文科を出た二七歳の文学青年は一九四五年三月の東京大空襲の惨劇を見てから上海へ渡った。到着直後のある日、青年は次の場面に遭遇する。(■から■、「/」は中略、以下同じ)
■(アパートから)花嫁衣装を着た中国人の花嫁が出て来て、見送りの人々と別れを惜しんでいた。自動車が待っていた。私は、それを通りの向い側から見ていた。すると、そのアパートの曲り角から公用という腕章をつけた日本兵が三人やって来た。そのうちの一人が、つと、見送りの人々のなかに割って入って、この花嫁の、白いかぶりものをひんめくり、歯をむき出して何かを言いながら太い指で彼女の頬を三度ついた。やがて彼のカーキ色の軍服をまとった腕は下方へさがって行って、胸と下腹部を・・・。私はすっと血の気がひいて行くのを感じ、よろよろと自分が横断していると覚えた。腕力などというものがまったくないくせに、人一倍無謀な私は、その兵隊につっかかり、撲り倒され蹴りつけられ、頬骨をいやというほどコンクリートにうちつけられた。
/戦時中の時局向きのことを自ら遮断した、いわば芸術至上主義青年であった私の、一つの枠がそこで破れた、ということになろうか。/私は日本の侵略主義、帝国主義について、別して政治的、経済的、あるいは政治史、経済史的な理論的理解をもっていなかった。私の理解したものは、すべて、たとえばいまあげたような経験によるものであった■
「玉音放送」を現地で聞き堀田は敗戦国民となった。次いで自ら望んで中国国民党中央対日委員会に徴用されて一九四七年一月の帰国まで上海に滞在した。
堀田はなぜ上海へ行ったのか。
堀田はそこで何を見たのか。
堀田はそこから何を受け取ったのか。
一九四五年春といえば「大東亜戦争」は敗色濃厚であった。その時期に中国へ渡ったのは何故か。「酔狂」だと評した批評家もいた。堀田は、兵役を解かれ療養中に魯迅全集を読んでいたこと、渡航の手づるがあったこと、上海を踏み台にしてヨーロッパへ行きたかったことを理由に挙げている。その真偽の詮索はせず筆者の言葉を信じよう。彼の生涯を見ればその「酔狂」はある種の真実となったのである。
《上海の「混沌・混乱」と玉音放送》
堀田が上海で見たものは八月一〇日までは半植民地中国、日本の敗戦後は解放された中国。それぞれの現実であった。しかし現実は一夜では変わらない。「敗戦=解放」の前後に共通するものは、圧倒的な「混沌・混乱」である。
日中の軍隊がいる。中国軍には国民党軍と共産党軍がいる。国共対立は内戦に転化し四九年に共産党の毛沢東が天下を取る。両軍のほかには全土に軍閥がいる。日本敗戦後は、日本軍の武装解除と全ての日本人の帰国を担う米軍が入ってくる。米国は国共内戦の調停者でありながら、両軍への関係は複雑だった。米軍・国民党が組み、共産軍をソ連が支援するという単純な図式はなかった。逆の場合すらあった。「魔都」上海市の人口は四六年末で四五〇万人、その多くは労働者、商人、サービス業者、農民、貧困者であった。
「混沌」を書く前に、堀田の「玉音放送」観を書き留めておく。我々は「玉音放送」を聞いて宮城前広場にひれ伏す人々をテレビ画面で何十回も見ている。堀田はこの放送をある印刷所で聞いた。上海では、日本政府が八月一〇日にポツダム宣言を事実上受諾したことを知って一一日から町中が戦勝ムードに沸いていた。そこへ玉音放送である。堀田は、戦中に日本へ協力した中国人―漢奸として処罰される―に関して天皇が何と言うかに注目して聞いた。
■あのときに天皇はなんと挨拶したか。負けたとも降伏したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者に対して、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ス、というこの曖昧な二重否定、それっきりであった。その余は、おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、それが可愛い、というだけのことである。その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた。放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前の言うことはそれっきりか、それで事が済むと思っているのか、という、怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。
あれから十四年、あの放送についてのいろいろな人の感想を読んだり聞いたりしたが、それを聞いて怒り出したという人には、会ったことがなかった。私は聞きおわって、これでは日本人が可哀想だ、というふうに思った。なぜ可哀想か。天皇のこんなふうな代表挨拶では、協力をしてくれた中国人その他の諸国の人々に対して、たとえそれがどんな人物であれ、またどんな動機目的で日本側に近づいて来たものにせよ、日本人の代表挨拶がこれでは相対することさえ出来やしないではないか・・・。
それはともあれ、国家、政治というもののエゴイズムをはっきりと教えてくれはした■
《「義勇軍行進曲」と「リンゴの唄」》
堀田が遭遇した「暴動」と「リンゴの唄」について書く。
彼が従事した国民党宣伝部の仕事は、国民党政府の対日放送であった。国民党機関紙『中央日報』の論説の日本語訳から、自ら日本語や英語のアナウンサーまでやったらしい。
一九四六年晩秋の朝、彼はいつものように放送局へ行こうとしていた。そこで大勢の人々が黙々と一定の方向へ歩いていた。不気味な雰囲気が感じられた。そのうちゼネストが指令されたことが分かった。デモは警察本部へ向かっていた。難民や浮浪者による大道商売を市長が禁止したことへの抗議だというのである。違反した五〇人ほどの逮捕され警察で拷問を受けている。話はそれだけではない。学生らしい若者は『民主報』という左翼紙の発禁や学生三五名の銃殺への抗議デモだと言った。反米デモだという説もあった。日本人の引揚げが目的だった米軍が、日本人帰国後も居座り、大量の余剰物資を援助と称して国内市場に供給して、中国の民族資本を破壊している。その反米闘争だという。
堀田自身が「暴動などというものは、恐らく、たった一つの理由などで起こるものではない」といって暴動の原因を究明できていない。結局、デモに阻まれて放送局へ行けなかった。暴動はデパートの襲撃にまで発展したが一週間で収束した。市側は米軍戦車や日本軍から押収した装甲車で制圧に出た。男女の学生の集団が堂々と、田漢作詞になる「義勇軍行進曲」をうたって歩いているのにもぶつかった。これは、のちの中華人民共和国の国歌であり、当時は厳禁されていたものである。
このしばらく後、一二月二八日に堀田は上海を離れ、翌四七年一月に佐世保港に着き四日に上陸した。この待機期間に退屈した同船者が乗船してきた警官に戦後日本で流行の唄をうたわせた。
警官は「リンゴの唄」をうたった。堀田はこう書いている。
■約一年と九カ月、それこそ日本からの梯子をはずされてしまっていた私は、敗戦後にありうべき感情の基本というものが、恐らくは〝怒り〟であろうか、と推察していたので、この唄のかなしさ、おだやかさ、けなげさ、デリケートさに、つくづくびっくりしたのであった。もとよりしばらくして、/事情を諒解したが、いまでも私は、あの薄暗い船艙のなかでの演芸会で、若い警官がこの唄をうたったときのおどろきを忘れない。その後に、私はいわゆる「虚脱」ということも諒解したが、そのときは、なんという情けない唄をうたって・・・、という怒りをもって考えたことを正直にしるしておきたい■
《すべての文章を書き写したくなる》
本書の解説を大江健三郎が書いている。
大江の「このように引用しつつ語っていると、ついにはすべての文章を書きうつしてしまうことになりかねない」という言葉に同感する。二〇〇頁の本書の紹介にもう一回かけることになった。(2018/12/20)
■堀田善衛『上海にて』(集英社文庫、2008年刊、571円+税)
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