四〇歳は「惨勝と解放」に何を見たのか - 堀田善衛『上海にて』を読む(2) -
- 2019年 1月 7日
- カルチャー
- 半澤健市堀田善衛書評
《戦争と哲学と歴史》
一九四五年の春、堀田善衛は当時上海にいた作家武田泰淳と南京に旅行した。二人は南京の城壁に登った。その時に堀田は次のように考えた。
■中国戦線は、点と線だというけれど、こりゃ日本は、とにかく根本的にぜーんぶ間違っているんじゃないかな。この広い、無限永遠な中国とその人民を、とにもかくにも日本から海を越えてやって来て、あの天皇なんてものでもって支配できるなどと考えるというのは、そもそも哲学的に、第一間違いではないかな。/政治家どもは論外として、たとえば西田幾多郎とか安倍能成などという哲学博士どもは、こういうことを哲学の問題として考えてくれたことがいっぺんでもあったかな。/参謀肩章をぶら下げていばりちらしている連中は/ただの技術インテリにすぎない。/最終的に勝つ、なんということは、これは絶対不可能だ/■
眼前に紫金山の岩肌を見た堀田はこの体験が、のちに日本軍の南京虐殺事件をテーマにした『時間』という作品になろうとは考えてもいなかった。そして岩肌の美をこう書いている。
■『史前』、つまり人間の歴史以前、あるいは『史後』、人類が絶滅して、人間の歴史がおわり果てたときの風景、そういう徹底的なものを、眼前に、たしかにくりひろげて見せてくれるからである。自然は歴史以前にもこうだったでのであろう、そして歴史以後も、恐らくこうであろう。見た眼にはなんのかわりもないであろうという徹底したもの・・・。この場所に於ける現代、近代化、未来、それらのことを考えるためには、私にはもとより及ばぬことであるが――せめて毛沢東ほどに哲学者である必要があるだろう■
私(半澤)が驚くのは二点。一つは「中国戦線は点と線」という認識が、当時は常識ではなかったらしいことである。日中戦争下で、日本軍の支配が「点と線」に過ぎず「面」は中国人民の下にあったのは常識だと私は思っていた。しかしその見方は作家の観察であった。もう一つは堀田自身が、自然の徹底性を人間滅亡後の世界にまで時間軸を拡げて感じていることである。文学者的というより哲学者的である。
『上海にて』は、一九五七年に日本文学者団体の一員として中国を旅行し、さらに一九五九年に単身でインド旅行を経験したのちに書かれた。それがこの壮大なパースペクティブを語らしめたのかも知れない。作家は自分の眼で見たもの、聞いたこと、書物で読んだものを、時に融合し、時に峻別して語っている。
《漢奸の処刑を見る》
漢奸の処刑を見て作家は次のことを書いた。
■漢奸とは、要するに日本軍の侵略戦争に対する協力者である。/どうしてそういう死刑執行などを見ることになったのか。その当時、漢奸や日本人戦犯の処刑は、屡々公開されていた。/日本人のうち、誰かひとりでも見てこれを、いかにその方法が残酷無慙なものであろうとも、とにかくそれを見た人がひとりでもいた方がいいであろう、と思い、嘔きたくなるのを我慢して大量の汗を流して、群衆のたちこめる濛々たる埃のなかに立っていたのであった。漢奸は、首筋から背中に高札をしばりつけられ、それに名前と罪名が黒々としるしてあった。引き立てられてその男は、護送車から転げ落ち、芝生に跪いた。高声な判決文朗読があって後、兵の一人が大きな拳銃を抜き出し、それを後頭部にあてがった。そこで、私は群衆の海にしゃがんでしまった。銃声一発、ついでもう一発、二発目は、恐らく心臓に対するとどめであったろう。それで終わりなのだ。/イデオロギーも思想も糞もあるものか、と私は思った。そうして、その場を一歩離れると直ぐに、私は到底担い切れないほどの重い、しかも無数の想念が襲いかかって来、その想念の数々のもう一つ奥に、死者と同じほどに冷たく暗い、不動な、深淵と言いたくなるような場所があることに気付かされた。漢奸の名において、中国では、戦中戦後、恐らく千を超える人が処刑された。
《惨敗と惨勝と解放》
惨勝という言葉を堀田は一九四六年まで知らなかった。山東出兵以来、一八年に亘る日本の中国侵略、太平洋戦争、の苦しい戦いから両国の人民が免れ出たとき日本は惨敗し中国は惨勝した。彼が「惨勝」の字を初めて見たのは四六年夏、延安発行の『解放日報』紙上においてだった。
■当時、私は中国にいて、戦後のただならぬ現実を、いち早く「惨勝」としてうけとった中国の人たちの現実認識に深くうたれた。そして惨敗という、惨憺たる現実を、いち早く「終戦」と規定して、国民のうける心理的衝撃を緩和しようと企画した日本の支配層の、その、たとえて言えば隠花植物のような、じめじめとした才能にも、なるほど、と思わせられた。異様な具合式で、感心させられ、さえした。一民族の、どん底の基底というものは、結局、その民族の現実認識の能力如何にかかっている。勝利直後の、フタをあけてみたときの、中国は、いったいどんな工合であったのか。
十八年にわたる戦災、洪水、饑饉、内戦、日本側からの産業接収に際して起った混乱、損耗、救済物資と称する外国物資の氾濫、それによる民族資本、民族産業の崩壊、投機、倒産、天井知らずのインフレ、失業者、難民、そして内戦■
これらの惨勝経験を作家は細かく叙述している。それらの経験は、中国人民に国内外の世界と歴史の存在を認識させ、「解放」の意義をあらゆる階層の身体に叩き込んだ。堀田はそう強調している。
これに関連して私自身の小さな記憶を書いておきたい。『周恩来』(一九九一年・丁蔭楠DingYin-Nan監督)が、中国共産党七〇周年映画として日本で公開されたのをみた時、私は「抗日戦争の話が殆どない」ことに驚いた。金融マンだった私は、中国人の同僚にその理由を聞いた。彼は逆に、私の質問の意味を聞いた。惨勝を阿片戦争以来の反植民地闘争の勝利という見方もある。そういう観点からは、抗日戦争勝利は長い抗争の一コマに過ぎないのかも知れぬ。私の疑問は今度の読書で少し解けた。
惨勝の後に来た「解放」はどんなものだったのか。
堀田は一九四六年の国民党の徴用時代に、現地の大学で日本を語った。そこで大学生から受けた質問をこう回想している。「日本共産党は米占領軍を解放軍と規定したそうだが、資本主義国から来た軍隊が最終的に人民解放を支持するとは思えない。堀田の意見は如何」であった。まだ政治にうとい二八歳の作家はしどろもどろの答えしかできなかった。
解放とは何か。五七年の中国旅行時に、日本の作家たちは「革命」「革命以前」「革命以后」という言葉を中国人から聞かなかった。ほとんど「解放以前」「解放以后」の言語であった。
■そのことから、私は素人考えというものにすぎないかもしれないけれども、中国共産党と中国人民解放軍による、新民主主義革命というものが、革命そのものよりも、その実質実体としての、人民解放、中国の自然とその資源の、人民全体としての解放、人民と自然のエネルギーの解放として、つまり実質実体的なものとしてうけとられているということを、それは動かぬものとして感じさせられ考えさせられもした。/それはおそらく、明治維新のとき、御一新ということばによって、日本の歴史が、民族としても、個人としても、くっきりわけて把握されていた事情と似ているであろうと思われる。現在の日本における、戦前、戦中、戦後という区分けは、個人の人生においてははっきりしたものがあると思われるけれども、民族としては、戦争責任者が戦後の責任者として見事にえらばれ得るという事情によってくっきりと行っているという具合ではないと思われる■
《魯迅の墓を見なかった作家》
堀田は一九四二年冬と四三年秋に魯迅を熱心に読んだ。改造社の全集を読んでその小説には感心しなかったが魯迅の写真に感じたという。当時の読書ノートに書いたことをこう書いている。
■十六年前の読書ノートには次のようにしるしていた。「魯迅の(写真の)あの、何よりも第一に、何ともいい様のない深い憂いを湛えた、うるんだ眼の裏には『村芝居』「故郷」のような風景が灼きついているのだ。そして幼年時代の回想が、かくまで美しく描かれるためには、『阿Q正伝』『吶喊』『狂人日記』などのような辛くいたましく、不気味な現実がなければならなかった。これは、この二つの系列は表裏一体のものだ。この二つが魯迅の眼だ・・・」。あれから十六年たった今日でも、私はそう思っている。
優しくて、冷酷で、それから正反対の形容をいくつでも並べることの出来るあの眼が、何か物凄いことを語りかけていた。魯迅と日本、魯迅がもった異民族交渉というものもまた、実に徹底的なものであった。その例を、多くのなかから一つだけあげておこう。次に引用するのは、魯迅が日本文で書いた「私は人をだましたい」という題で、『改造』の一九三六年四月号にのったものの末尾である。
「・・・云いたいことは随分有るけれども『日支親善』のもっとも進んだ日を待たなければならない。遠からず支那では排日即ち国賊、と云ふのは共産党が排日のスローガンを利用して支那を滅亡させるのだと云って、あらゆる処の断頭台上にも日章旗を閃かせして見せる程の親善になるだろうが、併しかうなってもまだ本当の心の見える時ではない。自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解するには、筆、口、或は宗教家の所謂る涙で目を清すと云ふ様な便利な方法が出来れば無論大いに良いことだが、併し、恐らく斯る事は世の中に少いだろう。悲しいことである。・・・終りに臨んで血で個人の予感を書き添へて御礼とします。」
この文章の、最後の一行を平然と読みすごすことの出来る日本人も、中国人も、一九三六年当時も、また今日でも、恐らくいないであろう。その間に、「血」の歴史があり、「血」の歴史を経て、今日の中国と日本とでは、いまだに正式の国交すらないのである■
魯迅の小さな墓を、一九四五年に武田泰淳と見たことを回想して、堀田はこの文章を書いている。訪中の日本文学者たちは改修されて大きくなった魯迅の墓を見に行った。堀田は行かなかった。近代、現代の日中の歴史を比較してその在り方のちがいを痛感してこの作家は行かなかったのだと語っている。社会と文学、それの日中での認識の違いを彼は強く意識したのである。
《作家がここから四〇年で見たものは》
引用ばかりで私の感想をいう紙数がなくなった。簡単に書く。
作家は一方で更に続くであろう解放と建設の困難を予感している。一方で新中国を希望に溢れた特異な理想郷になるだろうと展望している。本書は次の叙述で終わる。
■私は今回中国を旅して、革命解放が、同時に中国の悠久な歴史への復帰という面を、広く強くもっている、と感じてきた。毛沢東の詞「雪」にある、秦皇、漢武、唐宗、宋祖などの歴代王朝の歴史のなかに現在の中華人民共和国をおいてみるとするならば、それは、人民王朝時代とでもいうべきものであろうか■
四〇歳の作家の観察力に私は圧倒される。このときから六〇年が経った。二〇一八年までの歴史を知っている私は、しかし堀田善衛の予測力に成績をつけようとは思わない。更に四〇年を生きて一九九八年に死んだ作家が、インドの現実やスペインの芸術家やフランスの哲学者のなかに何を見たのか。私の興味はこの一点にある。閉塞の時代からの出口を求めて読書の旅を続けたいと思う。(2018/12/24)
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