ミャンマー民主化運動の進化を阻むもの―戦前の日本における大量転向に通底するメンタリティ
- 2019年 1月 13日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
年明け早々、ある出来事が民主化運動や市民社会活動家のサークルで話題になっています。NLDで最も有能な幹部の一人とされている、ヤンゴン管区地方政府首相―東京都知事に相当する―ピョーミンティン氏が、ある元有名政治家に対し公的な場で深い敬意を込めた挨拶を送ったというのです。これは1988年以来この国が味わってきた塗炭の苦しみを知る者にとって、仰天するような出来事であります。なぜなら自身十数年の獄中体験を持つ地方政府首相があいさつを送ったのが、往時民衆弾圧に狂奔した秘密警察のトップであったキンニュン氏だったからです。たとえて言えば、獄中十八年の徳球こと徳田球一共産党書記長が、つい最近まで特高の親分であった内務省トップをあなたのやったことはすばらしいとハグしたようなものなのです。
私は2017年秋、久しぶりにヤンゴンを訪れました。私の見立てでは表面的な変化はあるものの、薄い地表をはがしてみれば、旧態依然たる貧困と閉塞状況がまだまだ優勢な状態でした。私は新しくできた巨大なショッピング・モール内にある書店に入り、思潮の変化を探る意味もあって書棚を見て回りました。するとどうでしょう、元秘密警察の親分であるキンニュン氏の自伝的書物が、しかも分厚いハードカバーで威風堂々と並べられているではありませんか。ある程度予想していたとはいえ、ショックでした。罪深き秘密警察の元首領が過去を悔いてひたすら謹慎するどころか、その反対に自己宣伝に精を出し、これをまた世論が黙認しているというなんともやりきれない光景なのです。
この民衆弾圧の張本人はすでに9冊もの自己弁護の本を出していて、上述の公的な場というのも、じつはその著作活動への表彰式だったというのですから、開いた口が塞がりません。キンニュン氏は2004年独裁者タンシュエによって捕えられ、首相の座から引きずり降ろされ、長い自宅軟禁のあと2011年に恩赦で自由の身になっています。しかしだからと言って、彼が軍部独裁の犠牲者であるわけではありません。とくに以前の独裁者ネウインの最側近として秘密警察を牛耳り、1988年秋の軍部のクーデタとその後の圧制に辣腕を揮った、200名余と言われる拘留尋問における拷問死の直接の責任者なのです―千とも二千ともいわれる街頭での犠牲者は、国軍によるものです。
「自分は上からの命令に忠実に従っただけであり、また学生たちを逮捕したのは、彼らが法に違反したからであって、私たちの行為に違法性はない」、これにキンニュン氏の言い分は尽きています。弾圧の頂点にいた人物が、上からの命令とは笑止千万であります。私が1998年春にヤンゴンに行った頃はMI(軍秘密警察)の天下であり、我々素人目には毎日テレビや新聞に露出するキンニュン氏が、軍政のトップであると映ったほどでした。国軍幹部ですら監視の下に置き、全国にスパイ網をめぐらし、国境貿易を始めとする許認可にまつわるあらゆる利権を独り占めして国軍の嫉妬を買い、その結果としての失脚でしかありませんでした。
※左の写真は首相時代のキンニュン氏ですが、顔は笑っていても目は笑っていません。私はキンニュン氏直属の内務大臣と会食したことがありますが、彼も同じような目つきでした。「こいつは何者だ、敵か味方か、どれくらい利益になる人間か」と、その鋭い目つきは私を品定めしているのです。ぞっとするほど冷たいまなざしでした。
しかしより問題なのは、キンニュン氏の復権活動に対し手を拱いているばかりのNLD政府の現状です。こんな現状を放置すれば、キンニュン氏の個人的な弁護はやがて勢いを増し、歴史修正主義者revisionistの跋扈するところとなるでしょう。いや、すでにスーチー氏は自分の政治家としての正当性根拠が88年の国民的決起にあることを大方忘れ、国軍支配はやむを得ないものだったとする歴史修正主義に振れている感があります。スーチー氏の救世主的活動家からロヒンギャ見殺し政治家への振幅の大きさは、自身の思想性の問題であるとともに、この国の民主主義、民衆運動の力がいかにひ弱で頼りないものかの反映であります。
私はNLD政治の諸悪の根源は、スーチー氏が独断で国軍との和解と融和を優先させ、民主化運動のあらゆる成長の芽を摘み取ってきたことにあると考えています。ほとんど準備期間も与えられず、政権の座についたために露呈した未熟さについては目をつぶるべきでしょう。だが、必要のない妥協や過度の譲歩を行なって、自らの手足を縛ったことについては責任があります。加えて、ミャンマーの政治風土としての権威主義と同調圧力は、NLDにおいてもスーチー氏に疑問や異論を提起する勇気を持つことを妨げてきました。
このところようやく若いジャーナリストや市民活動家が、勇気を奮ってNLD政治に異論を唱え出しました。イラワジ紙がそういう声を頻繁に掲載するようになった変化も注目すべきでしょう。ロヒンギャ問題についての直接的な言及はできないまでも、西側の人権批判には耳を傾けるべきであるとか、SNS上の人種差別の拡散には要注意だとかいう言い方で、あるいは政権の中国への傾斜の危険性に警鐘をならすかたちでNLD政治への批判が次第に輪郭を明確にしつつあります。
それにしてもミャンマーにおける人権思想や民主主義のひ弱さについて、政治問題としてだけでなく思想問題としての掘り下げも必要でしょう。思春期から長く外国で生活し、あまつさえ英国人と結婚し、子育てを英国社会において経験したはずのスーチー氏です。市民社会と日常生活における人権と民主主義の生きた姿を体験する機会は、存分にあったでしょう。いや、むしろ英国社会の貴族制度に根差す抜きがたいヒエラルキーや東洋人蔑視を目の当たりにして、失望や疎外感を味わい、そのために骨の髄まで民主主義者、人権主義者にはならなかったのかもしれません。これはあくまで推測の域をでませんが、母親ド・キンチーからの強い影響によるビルマ仏教への帰依が、西欧思想の受容にある種の限界を設けたのかもしれません。いずれにせよ、権力者となってからのスーチー氏の思想的退行が、孵化したてのミャンマー民主化運動に大きなダメージとなったことは否定できないでしょう。
かつて日本では「共産党、家へ帰れば天皇制」という一種戯れ言めいてはいるが、核心を突いた共産党批判がありました。外で革命を唱えても、家に帰れば封建的な亭主関白ではないかというわけです。また徳田球一による「家父長的支配」が戦後の一時期共産党を誤らせたという総括がなされたこともありました。こうした事例は、人が思想的にほんとうに変わる難しさ、外来思想がその伝統のない国に根付くことの難しさを物語っています。アジアなどの後発地域では、先進国の科学技術や思想は出来合いのパッケージ化された「知識」として輸入され受容されるかたちが普通でした。幕末、明治維新の西欧文明導入期にあって、西欧の科学技術の受容について、それらを生みだした思想的世界観的バックボーンまで遡って問題にし、認識論はじめ価値体系の根本的変換を要する事柄として認識していたのは福沢諭吉らごく少数でありました。福沢以前に、佐久間象山らが「和魂洋才」、「西洋芸術(技術のことーN)、東洋道徳」という二重基準を設けて西欧文明に対処しようとしたのも、折衷的プラグマチックな対応というより、民族的な自主的自立的な精神を失えば、亡国の民になるという危機意識からでした。失敗してもいい、なんでも西洋人の手を借りるのでなく自分の力でやることが大切だと象山は言いました。また諭吉は「学問のすゝめ」を執筆する前、京都の町人たちが自腹を切って新学校を設立し、東洋と西洋の知識習得を組み込んだカリキュラムを自主的に作成し、男女とも通える学校運営を軌道に乗せているのを見学して大感動しました(「京都学校の記」)。※
※日本はミャンマーに対し、何百校もの新設の学校を無償提供し、中にはカリキュラムの作成まで援助協力するものもあります。しかし相手の自助努力を重んじない援助が、ほんとうにその国の役に立つのかどうか、一考してみる必要があります。
しかし残念ながらその後の趨勢は、とかく単なる西欧ファッションの輸入と流行めいたものに貶められてきました。思想や哲学など本来はたんなる知識ではなく、生き方の根本、基本的な生活態度に関わるものであり、外来思想に対して自我に畳み込まれている在来の価値体系や信念体系との格闘や検証が必要であったはずなのです。単純化は避けるべきでしょうが、自我との格闘抜きの思想受容の脆弱性と、それがゆえの民衆思想との結びつきの弱さ――これこそが1930年前後の共産主義者の大量転向をもたらした一因でした。マルクス・ボーイという命名は、その間の消息をよく伝えており言い得て妙というべきでした。
ところがミャンマーにおいてはハンディキャップは倍化し、軍政の半世紀間出来合いの知識の輸入すら行われてこなかったのです。若いジャーナリストや活動家たちは時論の域を超えて問題の本質を追究する段になると、当然ながら大きな壁に突き当たってしまいます。素養として科学的知識や科学的方法論を身に着ける条件がなかったからです。恣意的な羅列で恐縮ですが、国土の均衡ある開発計画と国内市場の涵養。開発と経済民主主義、開発と自然環境の保護、西欧的な人権思想と仏教的な土着思想との関係、持続可能な開発の構想と政策化、都市と農村の関係、都市計画における人間的暮らしと開発の両立、農村と内発的発展のモデル、グロバリゼーションと国民国家形成との関係等々、理論的な追究の種は尽きることがありません。もちろん21世紀のグロバリゼーションの流れに掉さし、先進国からの援助や直接投資によるインフラ整備や製造業のサプライチェーンへの組み込まれ、アグロビジネス方式による農業のプランテーション化などによって、効率的な産業立国化をめざす新興国の趨勢に抗うことはなかなかできないでしょう。しかしその場合でも、理論的政策的な代案を提起し、運動の組織化を続けることにより、ネオリベラリズムのもたらす社会格差拡大や貧困化、自然=生活破壊、差別意識拡大や社会道徳の荒廃等に一定の歯止めをかけ、国民意識の向上と連帯の強化に資することはまちがいありません。
さらにいえば、元国連事務総長ウタントの孫であるタンミンウ—氏に代表される帰国知識人たち、つまり先進国で生活し、先進思想や知識を吸収する機会に恵まれた(亡命)知識人たちこそは、西欧思想とミャンマーの伝統思想との橋渡しをするのにうってつけと思われます。しかしスーチー氏には自身の経歴に反してそのような問題意識は希薄なようで、彼らの活躍場所について特に配慮したという形跡は見られません。ある種大ビルマ族ナショナリズムが、宝の持ち腐れというか、人材不足がいわれながら、しかし有能有意な人材を埋もれさせているようにみえます。
最後に再びキンニュンのことに話を戻しますが、過去の軍部独裁に関わる政治犯罪にどう対処するのか問題は、この国に社会正義と法の支配をもたらすためには絶対的に避けてはならない課題です。88世代のトップであったミンコーナイン氏は、キンニュン氏について自分のFacebookのページに「殺人者を尊敬する人物に変えるな」という短いメッセージを投稿したそうですが、そのような単発的な意思表示に終わらせず、さしあたり理論的な集団的作業が必要です。スーチー氏が国軍との和解の名の下に議論そのものを封殺したため、過去と向き合い政治道徳的に過去を清算する作業は手つかずのままです。ある元活動家は、「だれも彼(キンニュン)に対する報復を要求していません。私は彼を個人的に憎んではいないが、彼が国全体を破滅させた悪いシステムを運営していたという事実は否定できない」と言ったそうです。人は憎まないが、その罪は忘れないという意味でしょう。では報復ではなく、罪を認めず悔い改めの意思をもたないものに対する罪責の追求はいかなるかたちで可能なのか、もっと深刻に論究すべきです。どの程度罪に問えるかは、究極的には政治的力関係が決定すると私は考えていますが、さしあたりは理論レベルでの論究や、韓国、南ア、チリーなど歴史的な和解を経験した国々の経験から学ぶべきことを整理するだけでもいいでしょう。(ちなみに国軍が造った2008年憲法は、軍部独裁時代のすべての政治的犯罪に対しては免責条項を設け、追及できない仕組みになっています)
ミャンマー仏教は、罪人に対する恨みや報復感情を禁じているような論調が世論の中にあります。しかし仏教の主要教義は「因果応報」です。一般に罪や背徳に対して罰を行使しない宗教はないでしょう。応報的か教育的かの差こそあれ、罪に対して無力であるような宗教では、民衆の支持は勝ち取れないからです。しかし仏教においては、応報はいわば輪廻転生という人が与りを知らない摂理に委ねられているのであった、人の意思と行為によってなされるものではありません。内面の良心や意志的行為を介さない道徳性であるがゆえに、仏教が担保しうる社会正義はきわめて脆弱に思われます。この点をミャンマー人がどう議論し克服するのかは、道徳論としても興味あるところです。
いずれにせよ、この国の若い知性は、紆余曲折があるものの民主化という大目標に向かって少しずつ前進を遂げていることは、日々の新聞記事から十分くみ取ることができます。そしてそれは先進国に住む我々の不甲斐なさを叱咤激励しているようにも感じるところでもあります。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8299:190113〕
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