本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(215)
- 2019年 2月 1日
- 評論・紹介・意見
- 本間宗究(本間裕)金融
心の謎
私のライフワークは、「お金の謎」と「時間のサイクル」、そして、「心の謎」を考えることにあり、現在では、最初の二つについて、ほぼ納得のいく答えが得られたものと感じている。そして、今後は、「心の謎」に全力を投入したいと思っているが、実際には、「雲をつかむような話」であるために、基本的な認識の説明から始めさせていただくが、この時に重要な点は、「現在、どこまで理解できたのか?」、そして、「何が分からないのか?」を考えることでもあるようだ。
つまり、「真理」という「今までに体得した間違いのない事実」を積み上げていく方法のことであり、「人生の山登り」と同じ手法でもあるが、今回は、「心の謎」という題名の「ジグソーパズル」を解き明かしていくことだと考えている。そして、最初に重要な点は、「人生の目的」を理解することだと思われるが、実際には、「成仏」という言葉のとおりに、「人間は、何度も生まれ変わりを経て、また、さまざまな体験をすることにより、最後には、お釈迦様と同等の人格にまで達成が可能だ」ということだと考えている。
別の言葉では、「輪廻転生」が前提条件であり、また、「あの世に持っていけるものは、その人が体験したことだけである」という理解でもあるが、この時に問題となるのは、やはり、「心とは、いったい、どのようなものなのか?」ということでもあるようだ。そのために、私自身も、この問題を、長い間、いろいろと考え続けてきたが、現時点では、「魂」と「肉体」とを分離すべきだと感じている。
つまり、「魂」は、「唯識論」が教える「種子(しゅうじ)」と呼ばれる「記憶装置」であり、この中に、「人生のすべて」が記録されているものと思われるが、「心」については、「ころころ」が語源であり、「魂」と「肉体」との間を行き来している状況だと考えている。そして、「芹沢光治良先生」の著書では、「人間が所有しているものは、心だけである」とも説明されているのである。
そして、問題は、「魂」が「肉体」に入ることにより、さまざまな矛盾が引き起こされる状況であり、実際には、いわゆる「原罪」や「業(ごう)」と言われるものだと思われるが、「心」について、最も興味深い点は、「行動が心によって決定される可能性」だと考えている。つまり、「心が動かない限り、行動が伴わない状況」であり、また、「社会情勢」を決定するのは「人々の行動の集合体」のことだが、この時に、「人々の行動」の決定要因となるのは「志」、すなわち、「心の指し示す方向」とも思われるのである。(2018.12.14)
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脳と悩みについて
「心」は、基本的に、「魂」と「肉体」との間を、行ったり来たりする性質があるものと考えているが、この点を理解するうえでは、「脳」と「悩」という漢字が参考になるようだ。つまり、「脳」という文字は「会意文字」で、「乳児の頭蓋骨」と「髪」が「肉体」に付いている様子を表しているが、不思議な点は、「悩」という文字が、「肉体」を意味する「にくづき」ではなく、「心」を意味する「りっしんべん」となっていることである。
別の言葉では、「漢字」が創られたのは、今から「4千年前」とも言われているが、当時の人々は、「悩みが脳から発生する可能性」、あるいは、「この問題に心が媒介している可能性」などに気付いていたようである。ただし、この時の注目点は、「魂」が、「神の分け御霊」と呼ばれる、「高貴な精神」を伴った存在でありながら、一方で、「動物」と同様の本能を持った「肉体」は、「生存本能」のために「他者を犠牲にしなければ、自分の存在が脅かされる状況」だと考えている。
つまり、「悩み」の本質は、「高貴な精神」と「肉体の欲望」との間で、「行ったり来たりする状況」を表しているものの、一方で、「煩悩即菩提」という言葉のとおりに、「心の成長」が促進される状況も想定されるのである。具体的には、私が作成した「心の座標軸」のとおりに、「目に見えるもの」と「目に見えないもの」、そして、「自分」と「他人」との間で、「心は、常に、揺れ動いている状況」となっているものと思われるのである。
そして、何度も「生まれ変わり」を経て、最後には、「お釈迦様と同程度の人格にまで行きつくことが可能である」ということが、「成仏」が意味することであり、また、「仏教」が教えることでもあるが、現在の「唯識論の理解」については、いまだに、「唐代の僧」である「玄奘三蔵」が、法典を持ち帰った時代から、ほとんど、進化していない状況のようにも感じられるのである。
つまり、最も重要な部分が抜け落ちているものと思われるが、実際には、現在の「経済学」と同様に、「マネー理論」を抜きにして「実体経済」だけが議論されている状況のことである。より具体的には、「心の謎」を考える時に、「魂」と「肉体」との関係性を無視することであり、その結果として、「唯心論」や「唯識論」の研究においても、「理屈の堂々巡り」、あるいは、「観念論が支配している状況」となっているようだ。別の言葉では、今後、「東洋の時代」が始まることにより、また、「人工知能の発展」などにより、この点に関する解明が、飛躍的に発展する状況を想定している。(2018.12.14)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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