価値判断と事実判断
- 2019年 2月 17日
- 交流の広場
- 箒川兵庫助
-(韓国)国会議長の発言の中に、天皇を指して『戦争犯罪の主犯の息子ではないのか』という言葉がありましたね。あれが、日本の国民を刺激したのではないでしょうか。-
澤藤統一郎氏の「ある日の待合室で話題となった、天皇の責任」(ちきゅう座、2月17日)は若い人に良く味わって頂きたいものだ。現首相に対する痛烈な批判が文章に現れている。特に戦争犯罪を断罪してこなかった,敗戦世代に対する叱責も見逃せない。
ここで思うことは3つ。1つは開戦を決断した天皇とポツダム宣言を受け入れることを決断した天皇は同一人物であること。軍部上層部と一般国民の責任は異なり,一億総懺悔という言葉では「一括り」にはできない。戦争を煽った記者や知識人には,八百屋のおじさん・おばさんと異なった責任がある。前者は世界の情勢を英文なりドイツ文なりで知ることができた。さらに特別高等検察という内務官僚とて戦争遂行責任は一般国民より重い。しかし処罰されなかった。「私は命令に従ったまで」と発言したヒムラーの如し。
第2に戦後に育った世代は日中15年戦争などの戦前の侵略に直接の責任はない。しかし戦後の責任はある。この意味で「戦後に生まれたので戦争責任はない」という高市早苗元総務大臣の発言は間違い。
戦後,南東アジアを含めて日本帝国が侵略した国々の人々に対して敗戦処理をする必要がある。しない場合は怠慢の誹りをまぬかれない。例えば南ベトナムに補償し,北ベトナムには補償しなかった例を見れば明らかであろう。また例えば教科書で「侵略」を「進出」と書いた教科書に対して抗議しなかった戦後世代は無責任である。
そして3つ目は価値判断と事実判断と混同する多くの日本人の癖。--(韓国)国会議長の発言の中の、天皇を指して『戦争犯罪の主犯の息子ではないのか』という言葉は何処もおかしくない。
裁判は法治国家において大事なものであるが形式的なものである。拷問で痛めつけられて死んでも,銃弾で倒れても無駄死にした兵士たちの怨念は鳴りやまない。インパール作戦でマラリヤにやられようと核爆弾で殺されようと,彼らにとって天皇の治世は犯罪の歴史である。朝鮮半島の人々が天皇を犯罪者呼ばわりしても事は変わらない。われわれは事実判断をしなければならない。
-あれが、日本の国民を刺激したのではないでしょうか。-
亡国の首相のこの言葉は不正確である。刺激された国民もいれば小生のように当然と思う国民もいる。二等空佐が言ったように「日本人ではない」のである。戦前・戦中の言葉で言えば非国民。しかし彼の言葉は正しいのかもしれない。なぜなら多くの日本人は事実よりも事実に感情的に過敏に反応しがちであるからである。そして事実判断より価値判断が優先してしまうからである。
(情報理論から言えば,情報という「入力」に対して「出力」がある。刺激―反応である。眼を付ける人がいればそれに過剰に反応する人もいる。「眼を付ける」が入力であり暴力で反応すればそれが「出力」となる。したがって大阪府県警の機動隊員が「土人」発言すれば,沖縄県民はもちろん、県外の県民も何らかの反応を示す。)
(韓国)国会議長が発言したように,現天皇は『戦争犯罪の主犯の息子で』あることは間違いないのである。全然抗議することではない。
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