*台湾・中央研究院・講演(2019.3.19.) 「日本近代化」再考−明治維新150年に際して
- 2019年 3月 24日
- スタディルーム
- 子安宣邦
昨年2018年は明治維新(1868)150周年に当たりました。特別に国家的な行事がなされたわけではありませんが、書店の棚を埋める形で明治維新と日本近代史の再考察本が出版されたりしました。だがそれらは明治維新とそれから始まる日本近代史を本質的に読み直したり、問い直したりするものではありません。だれも明治維新が日本近代史の正当にして正統な始まりをなす変革であったことを疑っていないからです。
私は数年前から、正確にいえば15年の秋から津田左右吉の大著『文学に現はれたる我が国民思想の研究』とは何かを問うことを課題にした市民講座(公民教室)を開いてきました。津田左右吉(1873-1961)は『古事記』『日本書紀』に見る神話が天皇朝の神代以来の正統性を弁証するためのものであることを文献批判によって明らかにした『神代史の研究』(1913)などで、戦後日本で高い評価を受けた文化史的歴史研究者です。その津田に『文学に現れたる我が国民思想の研究』という大部な著作があります。この第1巻『我が国民思想の研究 貴族文学の時代』は大正5年(1916)に刊行されます。次いで第2巻『我が国民思想の研究 武士文学の時代』は大正6年(1917)に、第3巻『我が国民思想の研究 平民文学の時代・上』は大正7年(1918)に、第4巻『我が国民思想の研究 平民文学の時代・中』は大正10年(1921)に刊行されます。このように極めて順調に刊行されていった『我が国民思想の研究』は「平民文学の時代 中」をもって中断されるにいたります。
関東大震災(大正12・1923)を経、内外の極めて不安定な政治社会的状況の中で日本は昭和という時代を迎えます。昭和の戦前・戦中期に津田の『我が国民思想の研究』の最終巻「平民文学の時代・下」は刊行されることなく敗戦(1945)を迎えることになります。戦後津田は既刊の『我が国民思想の研究』4巻の改訂作業を進め、昭和30年(1955、津田83歳)にその作業を成し遂げますが、第5巻『我が国民思想の研究 平民文学の時代・下』を刊行することなく津田は昭和36年(1961)に89歳で亡くなりました。ここから大きな問題が提出されます。なぜ津田は彼のライフワークともいうべき『我が国民思想の研究』を完成させなかったのか。さらに大正から昭和にかけての世界史的日本の危機というべき時代に津田が書き、刊行し続けていった『我が国民思想の研究』とは何であったのかといった問題です。
こういう形で述べていくと本日の講演は津田論で終わってしまうでしょう。ここでは私がえた結論からお話をしたいと思います。未刊の『我が国民思想の研究 平民文学の時代・下』は徳川時代の末期から明治維新とその後を扱うはずでした。それからすればこの巻は「国民文学の時代」の夜明けを記す巻であったかもしれません。津田の没後2年の昭和38年(1963)から『津田左右吉全集』全33巻の刊行が始まりました。全集の編集室は未刊の『文学に現はれたる我が国民思想の研究 平民文学の時代 下』を全集の第8巻として刊行することにしました。その巻は津田の没後に書斎の筐底から発見された原稿二篇と戦後の彼の死にいたる時期までに書かれた明治維新とその後をめぐる論文をもって構成されました。私は全集第8巻に載るそれらの文章によって初めて津田が「明治維新」という変革の正当性legitimacyを認めていないことを知りました。
津田は明治維新を薩摩・長州という有力な封建的権力連合による中央権力の武力的奪取(クーデター)だとしました。このクーデターを正当な革命とするために天皇を抱き込み、「王政復古」をこの革命のスローガンにしたのだと津田はいうのです。津田は明治維新を天皇という伝統的権威を利用したクーデターとして、その正当性を否定しただけではありません。天皇を国家的中心に呼び戻した明治の新政府は、天皇の名による専制的な恣意的施政を可能にしたというのです。
私は明治維新の日本近代化革命としての正当性を否認し、この維新に由来する明治政府の正統性をも否認する津田の文章を見て、彼が『我が国民思想の研究 五 平民文学の時代 下』の執筆も刊行も断念した理由を理解しました。彼は明治維新を自立的国民の成立を促す革命とは認めなかったのでしよう。だが明治維新の正当性を否認する津田の維新観を知ったことは、ただ『我が国民思想の研究』最終巻の執筆断念の理由を私に教えただけに止まりません。それは明治維新を正当な始まりとする日本近代史そのものを相対化する視点を私にもたらしました。この津田がもたらした貴重な恩恵をふまえて明治維新と日本の近代化をあらためて考えてみたいと思います。
19世紀後期の日本は国際的な危機の中にありました。東方進出を計るロシア艦船が日本周辺に出没し始めます。軍事力をもって中国に自由貿易を要求するイギリスは日本にとっても脅威でした。アヘン戦争は当時の日本の先覚者には自国の危機としても認識されていました。1853年にアメリカのペリー艦隊が来航し、鎖国日本の開港と通商とを要求したことから、日本の国際危機は一気に国内危機に転化しました。当時の日本はこの対外的危機に主権国家として対応しうるような国家的体制(外交的、軍事的、法制的体制)をもっていなかったからです。このことは日本の近代化について大事なことを教えます。日本の近代化とそれを目的とした変革は対外的危機に促された国家的変革、何よりも国家の体制的変革であったということです。欧米の先進的国家に模した国家の体制的変革が当時の権力層の内部から求められ、遂行されたということです。たしかにそれは19世紀のアジア的危機における先駆的な国家的変革であったといえます。津田の明治維新批判はこの国家的体制変革に明治政府がとっていった方向とは別のもう一つの方向がありえたことを教えます。そのことは後に述べます。
明治維新をもっぱら対外的危機からくる国家的体制変革として見ることは、明治維新を日本の全面的近代化の始まりとする従来の見方と異なります。私は明治維新を、国家的体制変革を急務とした国家主義的色彩の強い近代化的変革であったと思っています。そのことを一層明らかにするには、明治維新とその遂行者によって封建社会として否定されていった江戸時代(=徳川時代)とは何であったかを知らねばなりません。日本の歴史家はこの江戸時代(1603-1867)を「近世」という時代区分でとらえています。「近世」は英語で“early modern”“pre-modern”とされるように「早期近代」「前期近代」を意味します。だが日本では江戸時代を早期近代とはしません。むしろ中世封建社会の後期、すなわち中央集権的性格をもった後期封建社会が江戸時代だとするのです。近世とは日本ではむしろ中世後期なのです。江戸時代をこのように見るのは、明治維新こそが「近代日本」の出発点を劃する最大の歴史上の変革、すなわち「近代化革命」であったとする見方によります。これが明治から現在にいたる日本のほとんど公的な見方だといえます。ですから「明治維新150年」が今日の日本のジャーナリズムを賑わせることになるのです。
明治維新を日本史上最大の変革とする見方への疑義が近来いわれるようになりました。日本の歴史上において最大の変化をもたらしたのは19世紀後期の明治維新ではなく、むしろ15世紀の応仁の乱(1467-1477)という大規模な内乱だと最初にいったのは日本のアカデミズムにおける近代シナ学の祖とされる内藤湖南(1866-1934)です。その説は最近、応仁の乱という大乱の実際を詳細に一冊のコンパクトな書の中で提示した歴史家によって再び取り上げられました(呉座勇一『応仁の乱』中公新書2016)。応仁の乱が日本史上最大の変革だというのは、この乱に続く16世紀の戦国時代という争乱の世紀を経て、京都の朝廷(貴族)・寺院(僧侶)・幕府(武家)の三者をもって構成されてきた日本の古代的な国家権力体制が崩壊するからです。ここから17世紀の徳川政権の成立は新しく読み直されることになります。すなわち1600年の徳川氏による全国統一的武家政権の成立とは、日本の長く続いた京都の古代以来の天皇朝廷的権力体制の崩壊を意味するものとなるからです。その意味で「応仁の乱」が日本における史上最大の変革をもたらした内乱だとされるのです。私もこのとらえ方を支持します。
それは明治維新についての従来の評価を変えることを意味します。その変化は明治維新による「近代」「近代化」の意味のとらえ方にも関わることです。この見方は明治維新の評価を変えるだけではなく、「近世」という江戸時代についての見方をも変えます。先にいいましたように1600年の徳川政権の成立は京都の古代的な天皇朝廷的権力体制の崩壊を意味します。江戸の徳川幕府が中央政権として全国的な政治的支配権をもち、宮廷も寺院も非政治化され、幕府の統制下に置かれます。天皇は祭祀的、儀礼的権威として京都の禁裡に隔離されます。江戸幕府は宮廷や寺院山門を非政治化するとともに、宮廷貴族や寺院僧侶によって独占されてきた学問・文化を一般に開放します。こうして民間でも儒学が学ばれるようになります。私が『江戸思想史講義』(中国語版、三聯書店刊)に書きましたように、都市町人身分から多くのすぐれた儒学者や国学者たちがこの時代に生み出されます。さらに全国的な交通網が確立し、中心的都市(江戸・大坂・京都)と地方都市とを結ぶ政治的・経済的・文化的な全国的なネットワークが確立いたします。江戸(後の東京)は18世紀には100万人の人口をもった当時の世界最大都市になります。このように見てくると17〜19世紀の江戸社会は〈近代化〉の進んだ社会であったといえるように思います。まさにここから明治の近代化とは何かがあらためて問われることになります。明治維新に始まる近代化とは何よりも国家体制の近代化、すなわち西欧の先進的国家を模した近代国民国家の形成を目指した近代化です。それは最初にいいましたように19世紀後期の国際的危機に直面した日本が出した回答です。日本は急速な国家主義的近代化をもってこの危機に対応しようとしたのです。
明治日本は国民国家の形成という課題を天皇制的国民国家の形成として実現させました。近世の徳川政権は天皇を非政治的な祭祀的儀礼空間としての京都御所に隔離しました。だが明治の維新政府はこの天皇をもう一度政治的中心に引き出し、近代国家を天皇制的な国家システムとして作り出していきます。津田が明治維新とこの維新遂行者による国家形成に強い違和感をもったのはこの点にあります。津田がいう通り「王政復古」とは明治維新という政治改革の反徳川的遂行者が掲げたスローガンです。これをもって彼らのクーデターを正当化したのです。だがこのスローガンは明治維新という日本の近代化改革に復古主義あるいは天皇主義を深く刻印していきます。明治国家はやがて憲法を制定し、議会を設けて近代的国家体制を整えていきますが、天皇制的支配の国家原則は貫かれ、やがて昭和(1926-1989)とともに国民を天皇制的全体主義国家の内に包み込んでいくことになります。総力戦という昭和の戦争を可能にしていったのはこの天皇制的全体主義です。「王政復古」の明治維新ははたして〈ほんとうの国民〉を成立させる近代化改革であったのか。それは津田の『我が国民思想の研究』を中断に導いた深い懐疑であったはずです。彼は近代日本に〈ほんとうの国民・国民文学〉の成立を見出すことはなかったのです。
明治維新から始まる日本の近代化のもう一つの特色は、東洋から西洋への全面的な文明論的転換であったということです。「文明開化」のスローガンのもとに明治日本は国家制度・軍隊だけではない、風俗から学問文化にいたる西洋化を実現させようとしました。明治政府は国民教育を通して西洋的近代化(=文明化)を徹底させていきます。明治政府は維新後直ぐに学校教育を制度化し、西洋的近代化を学校教育によって滲透させていきました。明治日本において近代化(=西洋文明化)がもっとも早く成功したとすれば、明治の近代化が国家主義的な性格をもった変革であったゆえです。もし明治維新という近代化的変革の成功をいうとすれば、産業上と軍事上の変革とともに教育上の変革の成功であったといえるでしょう。成功とはもちろん国家的成功です。
数年来、日本で「明治維新150年」がしきりにいわれてきました。それとともに「明治維新」と「日本近代史」の読み直しが盛んになされてきました。しかしそれらは決して「日本近代」の批判的な問い直しではありません。「明治維新」再評価の代表的な著述(三谷博『維新史再考』2017)では、西洋的近代国民国家のグローバル的形成のアジアからのいち早い応答として、さらに成功した実現例として明治維新と明治国家の成立がとらえられています。これは「明治維新150年」がいわれる現代日本の近代史家による代表的な言説です。
ここには私たちが明治維新や日本近代史を再考する際の不可欠な前提であった〈昭和日本の15年戦争〉もその〈敗戦〉もありません。歴史家におけるこの欠落は、現在日本の政権が歴史修正主義者によって長く掌握されていることに対応する歴史学的事態であるかもしれません。少年時に戦争日本・敗戦日本を体験した私は昭和の15年戦争と1945年の敗戦という事態を外にして明治維新も日本近代史も見ることはしません。むしろ私は明治維新と日本近代化の最終的な帰結が昭和の15年戦争であり、敗戦であったと見ています。ですから「王政復古」の維新を近代的「主権」の原理に適合する天皇制的政治体制を作りだした近代化改革などとは解しません。むしろ昭和の天皇制的全体主義国家を生み出す原因をなすような政治権力体制へのクーデター的政権交代が明治維新であったと私は見ているのです。
私のこのような見方はすでにいいましたように私の少年時における戦争体験に由来しますが、しかし戦争体験はいくらでも私とは逆の立場、すなわち国家主義的立場をも導きます。安倍首相の背後に何人も私と同世代の歴史修正主義者がいることを知っています。私の日本近代についての見方は私の戦争体験だけではなく、私の思想史の方法論によります。すなわち〈視点の外部性〉あるいは〈外部から見る〉という思想史的方法論によるものです。一国史を一国主義的な〈内部から見る〉かぎり、それを相対化し、その批判的な読み直しをすることはできません。私は90年代から日本近代史、すなわち日本近代政治史・思想史・宗教史・言語史などなどの批判的読み直しを始めました。その時私は日本近代を〈外部から見る〉という方法論的立場をとりました。その立場とは「方法としてのアジア」であり「方法としての江戸」です。
「方法としてのアジア」も「方法としての江戸」も私の著書『「近代の超克」とは何か』(中国語版『何謂「現代的超克」』)と『江戸思想史講義』(中国語版同名)で構成していった思想史の方法論的概念です。まず「方法としての江戸」ですが、私は『江戸思想史講義』でこれを〈江戸から見る〉ことだといいました。従来〈近代・東京〉から〈前近代・江戸〉を見ていた視線を逆転させようとしたのです。この視点の逆転によって私は明治近代とは別の〈もう一つの近代〉としての〈江戸〉があることを知るとともに、〈明治近代・近代化〉の特殊な性格が明らかにされていきました。すなわちきわめて国家主義的な近代化の性格と天皇制をもって枠づけた国民国家の復古的な形成のあり方が、新たな明治の権力所有者の制作的意志とともに明らかにされたのです。〈江戸〉から見ることによって日本近代は〈明治近代〉として相対化されたのです。それとともに〈明治近代〉が否定していった〈江戸〉が〈もう一つの近代〉として見直されていったのです。
「方法としてアジア」とは『「近代の超克」とは何か』に見るように竹内好が〈西洋的〉近代日本への強い反省的批判とともにいった言葉です。竹内はそこでいう「アジア」とは実体ではなく方法(=見方)だといっています。ですから「方法としてのアジア」とは〈アジアから見る〉ことを意味します。これは日本近代史の方法論的転換をうながす重要な言葉です。竹内は日本近代史を日本に植民地化された〈朝鮮から〉、日本の帝国主義戦争の戦場にされた〈中国から〉見よといっているのです。私は竹内が戦後世代のわれわれに残した遺訓というべき「方法としてのアジア」に「方法としての江戸」を添えて近代日本の批判的読み直しの言説を綴っていきました。私は『近代知のアルケオロジー』(2003年、中国語版『近代知識考古学』三聯書店近刊)以来、10冊をこえる近代批判の書を刊行してきましたが、それらは21世紀の日本の政権を支配するに至った歴史修正主義的ナショナリズムに対抗するための批判的重石です。
歴史修正主義は戦前と戦後日本との連続性に立って、戦後日本の戦前日本との国家的断絶を否定します。「明治維新150年」を言い立てる言説とは、近代日本の連続性を祝祭する言説です。それはアジアという他者あるいは隣人から見ることもせず、江戸という他者あるいは先人から学ぶこともしない、一国主義的な独善の言説です。私がしてきたことはこの一国主義的な独善に対抗の重石を置くことでした。
だが私がいま自らしてきた批判的思想作業を過去形でもっていうことは、「方法としてのアジア」といい、「方法として江戸」という方法的概念は「明治維新150年」がいわれる21世紀のいま果たして有効な批判的な方法的概念としてあるのかという疑いが私にあるからです。果たしてこの「アジア」は日本にとっての外部的他者性を構成するものとしてあるのでしょうか。〈中国から見る〉というその視線がすでに大国主義的視線と見紛うものであるとき、また〈韓国から見る〉という視線がナショナリズムの対抗的な視線と不可分であるとき、それらが構成するアジアとはもう批判的方法概念としての「アジア」ではありません。いま求められているのは、21世紀の日本を中国や韓国とともに批判的に見直すことを可能にする本当の外部的他者としての「アジア」です。
「方法としての江戸」もまた一層の深化が求められていると思います。批判的に見られる〈近代〉も、批判的に見る〈江戸〉とともにその意味を深化させる必要があります。現代のわれわれの生(い)き死(じ)にの根柢にかかわる形で、批判的に見られる〈近代〉も批判的に見る〈江戸〉もその意味をより深める必要があると思います。私がいま「方法としての江戸」を深化させつつ問うとしているのは、「われわれを待っているのはただ孤独死であるというような死に方、いや生き方は正しいのか」という問題です。
だがここに述べましたような〈近代〉批判の方法を練り直し、より深化させる作業に私はとりかかったばかりです。しかしそれはすでに年齢的にも遅すぎます。皆様の手でこの作業の深化と推進がなされることを切に期待して私の講演を終えます。[台湾・中央研究院人文社会科学研究センターでの講演原稿、2019.03.19]
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.3.22より許可を受けて転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/79369081.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1026:190324〕
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