3・30公開ポスト資本主義研究会のレジメ 『社会学者の見たマルクス』に関して
- 2019年 3月 25日
- スタディルーム
- 片桐 幸雄
- 共産主義者たらんとの決意と、フリードリッヒ・エンゲルス 青年期
- 『ライン新聞』
- との出会いまで(1819-1843年)
- 疾風怒濤-ロンドン移住まで(1843-1850年) プルードン批判 「共産党宣言」とパリ追放
- 亡命職人たち
- エンゲルスとの出会い
- 『経済学批判』、『資本論』第一巻の完成まで(1850-1867年) 「ニューヨーク・トリビューン」の通信員 国際労働者協会(インターナショナル)
- 『経済学批判』と『資本論』
- 『フランスにおける階級闘争』と『ブリュメール18日』
- その死まで(1867-1883年)マルクスの死第2部 学説 剰余価値 本源的蓄積 価値理論と替え意見的事実の対立Ⅲ.資本主義的生産様式とその発展 ヘーゲルを清算するものとしての唯物史観Ⅴ.批判 マルクスの偉大さ
- 短い(9つの)批判
- 弁証法
- Ⅳ.唯物史観
- 利潤率の低下
- Ⅱ.平均利潤の謎
- 生産性の発展
- Ⅰ.経済学批判、価値理論
- パリ・コミューンとインターナショナルの終焉
翻訳の背景
山田潤二教授のこと
渡邉寛教授のこと
テンニースについて
フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)は、ドイツの社会学者。共同体における「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」の社会進化論を提唱したことで知られる。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州生まれ。少年時代は豊かな農村で過ごし保守的な気質を育む。1872年にシュトラスブルク大学入学、その後、イェーナ大学、ベルリン大学などで学び、テュービンゲン大学で古典言語学の学位をとったのち、関心は政治哲学、社会問題に向かった。
基本的には反マルクス主義的であったとされるが、労働組合や協同組合運動に積極的に参加し、またフィンランドやアイルランドの独立運動を支援した。1881年にキール大学の哲学・社会学の私講師、1913年に正教授となる。また、ドイツ社会学会の会長を1909~1933年にわたって務めた。1932~1933年には、ナチズムと反ユダヤ主義を公然と非難したため、キール大学名誉教授の地位を奪われることになった。
テンニースのマルクス 観 について
テンニース自身が、Marx Leben und Lehreの「はじめに」で以下のように語っている。
1887年に出版された拙著『ゲゼルシャフトとゲマインシャフト』の第1版には、当時「経験的文化形式としての共産主義と社会主義」という副題をつけたが、その序文ですでに私は次のことを特に強調していた。「考察にあたっては、3人の傑出した著述家のそれぞれ内容の全く異なった著作から、きわめて深い影響を受けた。それは刺激的、啓蒙的かつ確信的な影響であった。その3人とは、サー・ヘンリー・マイン、O・ギエレク、そして、私が最重要視した(経済学的)見解に関しては、最も注目すべきであると同時に最も深い内容を持った社会哲学者である、カール・マルクスである」。私はまたその時マルクスを、資本主義的生産様式の発見者、一つの思想を創出しそれを明確化しようとした思想家、と呼んだ。その思想は、今度は私が、自分で新たな概念を形成することによって、自分なりの方法で表現したいと思っている思想である。『ゲゼルシャフトとゲマインシャフト』の本文中でも私は多くの箇所でマルクスの優れた業績に言及している。
また、パッペンハイムは『近代人の疎外』(岩波新書、1960)でテンニースとマルクスの類似性を次のように指摘している。
資本主義経済についてのマルクスの学説とテンニースのゲゼルシャフト概念とのあいだにはいちじるしい類縁がある。そしてテンニースはこの事実に十分よく気づいていた。(91頁)
(マルクスとテンニースという)二人の思想家は人間と人間との間の分離を近代社会の基本的特質として認めている。(103)
他方でテンニースは人間が本来的に持っている倫理観、そこから生じる力を極めて重視した。テンニースは、この倫理的な力の評価を巡って、マルクスと対立し、マルクスを批判する(このことについてはテンニースのマルクス批判で見ることとしたい)。
Marx Leben und Lehre(1921年刊)の構成
第1部 生涯
「学説」に関する補足
Ⅰ.経済学批判、価値理論
『資本論』第1巻の概説
Ⅱ.平均利潤の謎
『資本論』第2巻、第3巻の概説(特に第3巻)
Ⅲ.資本主義的生産様式とその発展
マルクスの経済理論(=経済学批判)
ア 歴史的存在としての資本主義
イ 資本主義の限界とその根拠
ウ 資本主義の陰
エ 対立・矛盾の評価
オ プロレタリアートを擁護するものとしての経済理論(=経済学批判)
カ 分析的手法から発生史的手法へ
キ 運動の過程での法則性の把握(弁証法的理解)
ク 理論はその対象の発展によって規定される
ケ (工場法に見られる)歴史の進歩の是認
コ マルクスの政治的言説と経済理論の落差
Ⅳ.「唯物史観」の概要
マルクスの歴史理論
V「批判」の概要
1.資本家(企業家)自身が行う価値形成労働の無視
→監督労働の費用は虚偽の費用か
2.中間的労働(他人の労働を搾取することと自分の労働によって暮らすことの中間にある労働)に対する歴史的研究の不在
→弁証法的考察の不十分性
3.(剰余価値率から利潤率への)転形問題の処理の困難性
→テンニースはこの問題を個々の労働力の価値の「足し算」としてではなく、資本の有機的構成の高度化による労働力の「増強」によってで解くべきだとする
4.商業利潤の説明の困難さ
→「労働者達が一定の制約下におかれ、資本が彼らをその制約下におくや否や、労働の社会的生産は費用を要することなしに発展する」(『資本論』第1巻第4部297頁)ということと同じことが商業にもいえるはずである。
《3、4を通じて、テンニースは個々の労働の価値と共同労働の場合の価値とは違うと主張する》
5.資本主義の本質が利潤獲得を目的として商業であることをより強調すべきである。
→資本主義の本質は労働と対立するものとしての商業であることにある。労働は具体的価値物を生産することを目的とするが、商業の目的は抽象的利潤の獲得にある。労働の疎外もそこから生まれる。
《テンニースの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の考え方の適用》
6.市場に向けた生産と共同体に向けた生産とが区別されていない。
→市場に向けた生産は疎外労働を強いるが、共同体に向けた生産は(協同組合精神を理解している限りは)そうはならない。
7.マルクスは倫理的な力と倫理的な意思を軽視する。
→労働者階級の任務が政治的権力の獲得だけにあるというのは「教条的」である。
8.資本主義をもって人類の前史が終わるという主張は根拠がない。
→資本主義の廃絶をもって直ちに「新しい人間」が生まれるという保証はない。
9.労働者の(自発的)成長の軽視ないしそのことに関しての不信
→「外部注入」の重視
議論のために
若干の違和感
・「二つの根本的に異なる闘争形態」(3頁)──とは何か?
・エンゲルスとの違いの強調
テンニースはマルクスとエンゲルスの違いを執拗に主張する
このような本で両者の違いを詳細に見る意味は何か。
マルクスの本来的な特質(冷静さ)がエンゲルスの激情により「混乱した」と言いたいのか。
・マルクス『経済学批判』(1859)の重視
・「共同体」への言及の少なさ
社会学者でありながら、共同体への言説がほとんどない(産業革命[162頁]や本源的蓄積[172頁]における共同体の「解体」の言及はない)。これはどう理解すればいいのか。
テンニースは社会学者であるにもかかわらず、マルクスの国家論や共同体論が手薄な印象を受ける。
マルクス自身に国家論や共同体論が手薄なのかもしれないが、それならば、そうと指摘すべきではないのか。
・マルクスは何故『資本論』を未完のままとしたのか
このことは、本書を読んでも依然として不明
1867年に『資本論 第1巻』が完成した後、なぜマルクスは『資本論』を未完のままにしておいたのか。晩年のマルクスは「共同体論」に関心が移ったからだという説もあるが、テンニースの著作は、この問題にほとんど無関心である。
「批判」の検討
1.監督労働の位置付け──協同組合(Genossenschaft)における監督労働をどう評価するか
2.資本主義に先行する生産様式における中間的労働(手工業における親方労働)の「解体」はどう理解すればいいのか。
中間的労働は資本主義においては完全に解体されたといえるか
中間的労働は単純に「他人の労働の搾取+自己労働」に分解可能か
分解可能ならば、資本家的生産様式の支配によって、それは消滅する
3および4.テンニースの転形問題の処理方法への疑問
マルクス批判の概要 4で触れたように、テンニースは「個々の労働の価値と共同労働の場合の価値とは違う」とし、この違いから、剰余価値率と利潤率の乖離を解こうとする。
しかし、剰余価値率と利潤率の乖離とは1960年代以降の転形問題の(とりわけ数理マルクス経済学の)新たな展開を見た後では、こうした理解は受け入れられないのではないか
商業利潤の問題
「個々の労働の価値と共同労働の場合の価値とは違う」ということが前提となるが、この前提ははたして妥当か。ここでのテンニースのマルクス批判のほうにむしろむりがあるのではないか。
5.資本家的生産様式は流通過程が生産過程を包摂することによって完成すると考えれば、テンニースの主張は理解できる。
また、たしかにこの点においてはマルクスの主張には曖昧なものが残っているともいえる。
「疎外された労働」に関しては、しかしマルクスとテンニースの間には大きな違いはないのではないか。(「疎外された労働」をどれだけ重視するかという問題は残るが)。
6.市場に向けた生産と共同体に向けた生産とで労働は二面性を持つとするが、実際は、商業利潤の獲得を目的とした「手段」としての労働(前者)と、共同体が必要とする具体的有用物の生産のためのそれ自体がある意味で「目的」である労働(後者)の違いではないのか。
また、マルクスはこの二つの労働の違いを無視したというよりは、資本家的生産様式が支配している社会では「共同体に向けた生産」というものがそもそも存在しえないことから、後者を無視しただけではないのか。
7および9.「政治的権力の獲得」がすべてだとする革命の破産を見れば、たしかに、社会変革の運動が目指すべきものは「政治的権力の獲得」がすべてではないということになる。しかしそれは、倫理的な力と意思を軽視したからではなく、労働者の自発性をないがしろにしたことに根拠があるといえる。そして、労働者の自発性の蔑視あるいは否定は、必ずしも「倫理的な力と意思の軽視」が原因となるわけではない。労働者の自発性の軽視は、別の理由があるのではないか(それが何であるのか、まだ良く解らないが)。
8.確かに資本主義社会は「人間と人間との間の分離」という類的存在としての人間を根底から否定する。しかし資本主義の否定は、類的存在としての人間を「回復する」必要条件ではあるが、十分条件ではない。「政治的権力の獲得」がすべてだとするのは、必要条件と十分条件を混同したものだといえる。それは是認するとして、では「人類史の前史」を閉じるためには、一体何が必要なのか。
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3・30公開ポスト資本主義研究会―テンニースの邦訳本をめぐって
フェルディナント・テンニース著『社会学者の見たマルクス――その生涯と学説』の邦訳が片桐幸雄訳で社会評論社から刊行された。テンニースは1887年に『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(邦訳・岩波文庫)を上梓し、新たな歴史発展理論の提唱者として知られているドイツ社会学会の重鎮である。
彼が1921年に刊行したカール・マルクス論が2冊目の邦訳本として上梓されたのを機会に、訳者の片桐幸雄氏にその意義を語っていただく。
日時:3月30日(土)14時~17時(開場13時30分)
会場:東京都文京区本郷 本郷会館洋室A
会費:500円 問合せ先:090-4592-2845(松田)
片桐幸雄:著書に『スラファの謎を楽しむ』『なぜ税金で銀行を救うのか』
などがある。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1026:190325〕
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