チバリヨー(頑張れ)沖縄!(上)
- 2019年 5月 24日
- 評論・紹介・意見
- 小原 紘沖縄
韓国通信NO601
その後沖縄がたどった歴史は惨憺たるものだった。
沖縄県民の総意として新基地建設反対の意思を明らかにしたにもかかわらず、日本政府は沖縄には憲法が及ばないと言わんばかりに無視し続けている。
ここに至り、にわかに沖縄の「独立論」が現実味を帯びてきた。「もうがまんはできない」。私が琉球人なら独立を求める。植民状態から独立を求める動きは世界中に溢れている。、国連も民族の自決を後押ししている。
日本の米軍基地の7割を押し付けられた沖縄が独立すれば、すべての基地を本土は引き受けなければならない。沖縄に犠牲を強いてきた私たちヤマトンチュウにとっては「青天の霹靂」だが覚悟したほうがいい。久しぶりの沖縄行きの飛行機の中でそんなことを考えていた。
<不屈館―瀬長亀次郎と民衆資料をたずねて>
戦前、治安維持法違反で逮捕(1932)された瀬長は、敗戦後、本土復帰運動に献身、立法議員に当選後「人民党事件」で再び獄中へ。出獄後、那覇市長に当選(1956)。本土復帰後の衆院選当選以降、日本共産党の議員として活躍した。不屈の独立精神で琉球人の先頭に立ち、熱狂的な支持を受け続けた。
那覇市若狭にある資料館の展示コーナーには遺品、手紙、資料が所狭しと展示されていた。
私の記憶にかすかに残る瀬長の精悍な容貌と激しい演説。
彼が亡くなって20年近くになる現在でも、瀬長の沖縄に対する熱い思いを沖縄を愛する人たちは忘れていない。しかし瀬長の夢見た沖縄と現実はあまりにもかけ離れている。戦後の沖縄の歴史と未来を考えるうえで貴重な資料館となっている。
<薩摩島津とたたかった孤高の武人 謝名(しゃな)親方利山(りざん)>
那覇市旭が丘公園内にある謝名利山顕彰碑をたずね、琉球独立のために命をかけた英雄の存在を知った。尚寧王(しょうねいおう)の三司官を務めた利山は薩摩軍の攻撃によって敗北後、島津への忠誠を誓う「起請文」の署名を求められたが拒否(1611)したため斬首刑に処せられた。
琉球王国の誇りを最後まで失わなかった政治家として評価が高い。宿泊したホテルは利山に因んだ「リザン(利山)シーパークホテル谷茶ベイ」。客室数826、海に面した巨大なホテルだが、東京のホテルチェーン傘下とは意外だった。
<名護のコミュニスト二人>
名護の大きなガジュマルの木がある小さな公園に徳田球一(1894~1953)と宮城輿徳 (みやぎよとく)の記念碑が並んで建つ。4才違いの二人だが名護の同所に生まれている。
徳田の記念碑には肖像のレリーフとともに「為人民無期待献身(人民のために期待することなく献身する)」と書かれていた。戦中、戦後、日本共産党の幹部として活躍した徳田は、共産主義者ながら一般庶民から「トッキューさん」と親しまれた希代の人物である。石碑を設置したのが名護市というのも面白い。名護市の郷土の「英雄」である。
宮城輿徳(1903~1943)は私には馴染みのない人物だった。同行者のひとりから、西洋画家でありゾルゲ事件にかかわりスパイ活動を理由に逮捕され、獄中死した共産党員と教えられた。ソ連に情報を流したゾルゲ事件は近年再評価され、無意味な戦争を回避するための諜報活動という評価とともに、沖縄では宮城の絵画展が開かれるなど名誉回復が進んでいる。
<御嶽(うたき)とは何だろう>
沖縄各地にある信仰の聖地。琉球王朝の最高の御嶽としてユネスコ世界遺産に指定された南原市の斎場御嶽は有名だが、今回は那覇市内にあるビンヌウタキをたずねた。
首里城を見下ろす小高い丘の上に信仰ポイントがあるが、峰全体がご神体ともいわれる。施錠された門の奥に祠 (ほこら)らしいものが見えたが、さびれて、たずねる人も少ないようだった。琉球人の心の聖地も近代化とともに「遺跡」化しているようだ。かつて訪れた斎場御嶽は、観光地化され入場制限されるほどの賑わいだった。ビンヌウタキがそれと同じ御嶽とは信じがたいほどだ。
<嘉数(かかず)高地をたずねて>
沖縄は米軍基地と沖縄戦の戦跡だらけ。観光目的で那覇の国際通りのショッピング、ビーチ付きのデラックスホテルを楽しめるとしても、目隠しでもしない限り、基地と戦跡は避けてとおれない。
前田高地の激戦地をたずねたことがある。米軍が上陸した直後の激戦地、宜野湾市にある嘉数高地をおとずれるのは今回が初めてだ。1945年4月1日、読谷、嘉手納の浜に上陸した米軍は首里を目指した。両軍は総力を尽くして嘉数高地で攻防戦を繰り広げた。日本軍の死者64,000名、米軍の死傷者26,000名。嘉数高台公園の展望台からは米軍が上陸した海岸が見渡せ、高地をめざす米軍と日本軍の攻防が目に浮かぶ。残存するトーチカから砲弾の音が聞こえるようだ。このあたり、夥しい屍体の山となったに違いない。公園内には三つの石碑「京都の塔」「青丘の塔」「嘉数の塔」が並ぶ。戦った日本兵の多くが京都出身者だった。兵士のほかに、嘉数部落の住民の半数374人が戦死した。青丘の塔には強制連行され戦闘に従事させられた朝鮮人軍夫が祀られている。
展望台から海側に目を移すと普天間基地にヘリコプターらしい姿が見えた。
「あれは間違いなくオスプレイ」「民有地を米軍が占領した。本土復帰後に返還されるべき土地だった」と地元民から教えられた。今頃、普天間の返還ということ自体がおかしいという。勉強になった。
嘉数高地が陥落すると後背地の前田高地(浦添城址)が激戦の場となった。そこで第三十二軍の精鋭部隊だった六十二師団が壊滅、続いて5月27日に米軍が首里市内に突入すると守備軍は首里城を放棄、南部へと敗走が始まる。南端の摩文仁(まぶに)に追い詰められるまで多数の島民を巻き込み、集団自決などの悲劇が続いた。嘉数高地の見聞で、沖縄戦全体の一片が新たな記憶に加わり、沖縄の現実とつながる。
<辺野古キャンプ・シュワブに来た>
辺野古の海が土砂で埋め立てられる風景を見て心を痛めない人はいない。浜辺のテント小屋、基地のゲート前の人たちと一緒に坐り込んだことがある。反対運動の先頭に立った翁長前知事の壮絶な死と、その志を引き継いだ玉城新知事の誕生。沖縄から遠い千葉に住んでいて、何もできないもどかしさを感じてきた。「ガンバッテェ、また来ます」と約束してから3年たってしまった。毎日、那覇からバスに乗って辺野古にやってくるオバサンに再会できるか。前日、不屈館で買った「NO BASE 全基地撤去!!」のステッカーを一緒に掲げるつもりだった。それが何としたことだ ! 砂利の埋め立ては土曜と日曜はお休み ! 抗議の座り込みもお休みだった。
浜辺で抗議活動を続けているテント小屋を訪問。こちらは抗議活動を始めてから5502日、基地前の抗議活動は1771日という不屈の闘いだ。ここには不思議と悲壮感はない。
その日、辺野古の浜ではハーリーの競技大会が開かれ、大勢の市民が集まりお祭り騒ぎをしていた。米軍関係者、家族たちも参加。彼らは辺野古の海を奪う側の人たちだが、スポーツの世界に敵も味方もない。参加者の誰ひとりとして戦争を望む人はいない。問題は人間の生命と幸福を考えない日米両政府にある。
「辺野古基地も原発もいらない。安倍首相もイラナイ」。ついでに「トランプもヤメロ」
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