辺見庸Ⅳ―わたしの気になる人⑭
- 2019年 5月 30日
- カルチャー
- 辺見庸阿部浪子
辺見庸が地下鉄サリン事件の被害者を救助した体験に、わたしは心から注目したい。単に美談としてではない。1995年3月20日、東京の神谷町駅でのことだ。ほとんどの通勤客は、被害者たちをまたぐようにして職場へ急いだ。辺見庸も通勤客の1人だった。共同通信社の外信部に勤務していた。
また、辺見庸は、1991年1月に「自動起床装置」で芥川賞を受賞した作家だ。
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辺見庸には、『反逆する風景』(鉄筆文庫)という随筆集がある。2014年10月に刊行された。あらたに、書き下ろしの「花陰」と「遺書」が加わっている。同名の単行本とその文庫が講談社から刊行され、すでに10数年が経過しているが、収録の作品41点はちっとも色あせていない。ふかい感動と共鳴をよぶ。なかでも「飢渇のなかの聖なる顔」に、わたしはいちばんに注目したい。
地下鉄サリン事件の前年8月に発表された。事件での救助体験・行動をもって、この作品「飢渇のなかの聖なる顔」を照射すれば、辺見庸の、人としての後ろめたい心情など、より鮮明になってくるのではないか。文学的な秀作だと思う。
1992年暮れから、辺見庸は外国を取材旅行する。翌年に各新聞に連載される「もの食う人びと」を執筆するためだ。食べるのに困っている人たちと多く出会い、彼らといっしょに同じ物を食べながら、彼らのドラマを聴いて歩くのだった。
取材旅行の途次で、辺見庸は2人の死にゆく女性と出会う。1993年夏、東アフリカでのこと。14歳の避難民と22歳のエイズ患者。2人の「高貴な」「美しい」顔は、その後、辺見庸のからだのなかに埋めこまれているという。そのときの風景を描く辺見庸のふでは、じつにリアルだ。それと同時に、辺見庸のくるしい胸の内が、痛切に伝わってくる。
避難民の女性は、収容施設にしゃがみこんでいた。枯れ枝のようだ。まなざしは苦海を凝視していた。ただ、飢えのすえ死ぬためにだけ生きている。恐怖に凍えて発声も身動きもならない。辺見庸は、「この娘こそが世界の密やかな中心でなければならない」と思う。しかし、「じつにじつにただの傍観者として、その場を無責任にあとにした」のだった。
エイズ患者の女性も、針金のようだ。余命いくばくもない。お金がないから病院に行けない。自宅の暗がりに身を横たえていた。しかし、「人を真実思いやるのではなく、なにか聞きだすことをすべてに優先させている」「罪深い」自分に、辺見庸は気づくのだった。
帰国してからも、飲み屋のカウンターに伏しては、彼女たちの「死の意味」と、人としていかに「卑怯な」「醜い」自分について考えこむ。夜半に鏡を見ては、飽食の顔は美しくはない。たらふく食べられるこの国には「精神の飢餓」が広がっている、と思うのだった。
辺見庸は、死にゆく人間の極限でのありさまに直面した。鮮烈な衝撃をうけた。ジャーナリストならではの得がたい体験にはちがいない。しかし、そのとき、辺見庸は「自責の念」などの心情をいだくのだった。心の波紋。葛藤。反省。その心情のさまは、辺見庸の人としての真率なものにちがいない。
そして、翌々年3月、辺見庸は、サリン被害者を救助したのだ。知らんぷりだってできる。しかし、卑怯なことはしなかった。
その間の辺見庸の心情を推察すれば、そこには、人としての、弱者へのまなざしと貧者の側に立つ視座がある。身をかがめる姿勢もある。作家としての内的衝迫の源泉もある。それは、2018年10月に刊行された、長編小説『月』(KADOKAWA)にまで一貫するものであろう。
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鉄筆文庫の収録作品41点のなかで、つぎに注目したいのは「反逆する風景」だ。3つの話のうち、とりわけ「第一話」がつよく胸を打つ。1994年11月に発表された。そこに書かれた、辺見庸の衝撃体験を知ってみれば、先述した辺見庸の心情は、全体像も、さらに厚みと深みが加わるのではないか。
1987年、共同通信社北京支局の記者だった辺見庸は、中国当局から国外退去の処分を食らう。「国家機密を不当な手段で窃取した」という理由で。外務省の役人が辺見庸に「ある記事の情報源の名前を明かせ」とせまる。「絶対にいえないよ」。情報秘匿という記者の鉄則よりも、「いえばいったという事実でその瞬間から」自分を「蝕む」と感じたし、それは「未来永劫不快だろう」と予感したから、と辺見庸はいう。
中国当局は「じつにしつこく」尾行する。街路樹の陰から路地の角からつぎつぎに男たちが飛びだしてくる。ガタガタ身震いして歩く辺見庸たちに伴走してくる。一目散に逃げた。停まっていたカメラマンの車にとび乗った。車が3台も追いかけてくる。
しかし辺見庸は、当局に情報源を明かさなかった。自分をつらぬくのだった。国外退去になる。
辺見庸は、こんなにも、おっそろしい思いを体験しているのである。外国の地で。43歳のころに。体験は人や心情や思想を形成するものだと思う。この作家はどのように誕生したのか。わたしは、作品を読みながら、一方で、作家の土壌や人生も知りたくなるのだ。
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辺見庸の、文章の魅力の背後にある体験、心情をたぐりよせてみたが、鉄筆文庫の主なテーマは、表題どおり、「風景はかならず意味に反逆する」ということだ。
辺見庸が何度か情報源を拒否したあと、中国のわかい役人がポケットから写真を取りだした。逮捕状か。恐怖で辺見庸は目がかすむ。しかし、役人の2歳の子どもの写真だった。
情報源を明かさぬという文脈のなかで、役人のその行為の意図は、どこにあるのか。辺見庸は何回も考えたけれど、わからない。最近は「整合しないことってままある」のだ。ただ単に子どもの写真を見せたくなったのかもしれないとも、考えているという。
この不整合を、文章のなかにとりこむべきか否か。「絶対に盛りこまなければならない。」「意味のぼこりと陥落した風景があってこそ、風景はやっとそれなりのおもしろい立体的全体になりうるからだ」と、辺見庸は主張するのである。
常識を蹴飛ばすような、反逆する風景の具体例は、「第二話」にも「第三話」にも書かれている。たしかにおもしろい。「新聞人」は、反逆する風景の細部を切って捨ててしまう。書かない。もっともらしい意味をとりつくろう。おなじ「新聞人の端くれ」の自分としては、それは不満だと、辺見庸はいう。
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収録作品「見えざる暗黒物質を追え」にも、注目したい。1994年10月に発表された。辺見庸は、女子中学生の手紙に応えている。彼女は、世の中に起きている「たいせつなこと」は、新聞の紙面には見つけがたい。裏にひっそり隠れている。「なぜ」起きるのかも、紙面から伝わってこない、と書く。
では、一体どうすれば、見えざる大事なことを読者に伝えられるのか。「新聞人」はもっと不可視の実在について語れ、と辺見庸はいう。名もない人たちの嘆きと喜びの詳細を、データによらず、「生の風景」に分けいって書きぬく、技量と気迫と眼力をもて、とも。「新聞人」への訴えは、辺見庸の自己確認でもあろう。
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「遺書」は、鉄筆文庫の書き下ろしの1点だ。2014年9月27日の執筆。辺見庸の誕生日である。辺見庸は、1996年に共同通信社を退社してから作家活動に専念する。こしかたをふりかえり、辺見庸は、「いまはとことんつまらなく、くだらなくおもわれてならない」という。「風景はなぜ、こんなにもことごとにわざとらしいのだろう。」「なぜ存在は芯をなくしたのだろう。」「はっきりしているのは、ことばが損傷をきたしていることだ。」「主体がことばからはなれ、ますます乖離してしまった。」これまで、文と言葉との格闘を真摯にかさねてきた辺見庸は、嘆くのである。憤るのである。
辺見庸はさらにふりかえり、わが人生は「つまらない人生ではあった」という。そうだろうか。起伏に富んだ激しい人生ではなかったか。
そして高齢のいまこそ、一段とかがやいている。辺見庸は、小説、評論、随筆、詩と、さまざまなジャンルに挑戦する。個性あざやかな作家だと、わたしは思う。
「さはやかジム」でのリハビリテーションがつづくかぎり、執筆はつづくにちがいない。
(拙文「テレビ出演した辺見庸」を、「リハビリ日記Ⅲ⑰⑱ちきゅう座」http://chikyuza.net/archives/91468 で読んでみてください。)
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〔culture0801:190530〕
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