天安門事件・東欧革命30周年の年の「希望」とは
- 2019年 6月 2日
- 時代をみる
- 加藤哲郎天安門事件
2019.6.1 6月4日は、中国天安門事件、30周年です。 いまやアメリカと拮抗する大国となった中国では、wikipedia の接続遮断など情報統制が強まっていますが、世界中で問題を回顧し、その意味を考えようという動きがみられます。日本でも30周年のホームページが作られ、さまざまなイベントが行われています。1989年当時の中国民主化運動の学生リーダー王丹氏らが来日し、集会が開かれます。6月4日には、中国大使館への抗議と渋谷でキャンドルナイトとか。今日、日本で働いている多くの中国籍の人々や、中国人留学生、訪日中の中国人観光客の皆さんは、どのように受け止め、どんな感想を抱くのでしょうか、台湾・香港・米国などとの比較で、気になります。当時、私も一橋大学で何人かの中国人留学生を教えており、大学の同僚100人以上と中国政府への抗議文を作り、記者会見で発表すると共に、北京飯店ほか分かる限りの中国本土の電話番号に、手当たり次第にファクスで送信しました。まだインターネットがなかった時代の、 海外へのコミュニケーション手段でした。抗議文の末尾は、確か「6月4日を忘れない」でした。
その時の留学生の一人とは、昨年夏に再会して、昨年8・15の本トップで書きました。「かつて大学院の政治学ゼミに在籍した中国人S君から電話、いま日本にきているので会いたい、という話。早速打ち合わせて、久しぶりの再会。S君が 日本に留学してきたのは、1980年代の末、ちょうどベルリンの壁崩壊・ソ連邦解体の時期でした。中国の青春時代が文化大革命と重なり、4年の下放=農村生活を体験したS君は、文革終了期に猛勉強して大学を卒業、中国社会科学院の優秀な若手エリート研究者として、日本に派遣されました。ところが、ちょうど中国では天安門事件、日本に留学していた多くの中国人留学生が、民主化を求めて本国天安門広場の学生・民衆に連帯しました。留学生のリーダーの一人であったS君は、在日中国大使館前の抗議行動に加わり、それが日本のテレビ・ニュースに映っていたことで、6・4弾圧後に本国政府・中国大使館にマークされ、奨学金・ヴィザも止められました。本国に帰れば厳しい弾圧にさらされるので、友人たちと共に台湾に脱出、すぐれた日本語能力・知識が買われて台湾の日系企業に就職、その統率力も認められ、中国・台湾に工場を持つ日本企業の大阪本社で日中経済交流の発展に尽力ました。10年ほどで日本企業の上海支社勤務のかたちで故国の土を踏み、日本と中国をつなぐビジネスマンとして活躍してきました。研究者への道は閉ざされましたが、歴史と政治への関心は失わず、私が中国に行く際にはしばしば会って、日中両国の未来を語り合いました」。S君のように、民主化運動に加わり、天安門事件で人生設計を狂わされた学生は、おそらく数万人はいたでしょう。
そこからさらに遡ること33年、1956年の旧東独で起こった高校生たちの抵抗の物語が、映画になって、日本でも公開されました。日本での公開名は「僕たちは希望という名の列車に乗った」ですが、ドイツ語原題はDas Schweigende Klassenzimmer(沈黙の教室) 、 英語版はThe Silent Revolution (静かなる革命)です。東欧ハンガリーで1956年に起きた民主化運動とソ連の戦車による弾圧を、西側ラジオで知った東独の模範的高校生たちが、ソ連に抗議しハンガリーの若者に連帯して歴史の授業で2分間の黙祷をして、校長から教育大臣まで出てくる大問題に発展した、実話にもとづく映画です。高校生たちの青春と恋愛・家族・進学問題とうまく組み合わされ、天安門事件時の中国民主化学生たちとも共通する、現存した社会主義のもとでの自由と正義、友情と連帯の問題が、生活感のあるかたちで描かれていました。大学卒業直後の1970年代に旧東独に滞在して現存社会主義を体験し、それを土台に研究生活に入った私にとっては、1989年の「ベルリンの壁」崩壊後に見た泣き笑いの『グッバイ・レーニン』と、超監視国家としての東独をシリアスに描いた『善き人のためのソナタ』の双方の流れを想起させる、青春ノスタルジア映画でした。
ただし今回は、現在の若い日本人学生たちと一緒に見ました。学生時代からの友人川人博弁護士が、東大教養学部で長く「法と社会と人権ゼミ」を開いていて、その受講学生有志と1956年の東独を描いた「僕たちは希望という名の列車に乗った」を見て、鑑賞後の感想会でコメントしてくれと言う誘いに乗って、喜んででかけました。まずは大学1・2年の学生たちの感想を聞き、私なりに映画の歴史的背景や1950年代・70年代・89年崩壊期の東独について補足しました。学生たちは、何しろ21世紀生まれが多く、素直にドイツの青春映画の一つとして受け止めていました。東独の秘密警察シュタージによる監視国家も、現代の中国や北朝鮮の言論の自由とダブらせて、やっぱりあんなものだっただろうという学生もいました。むしろ、ソ連に抗議する2分間の黙祷の目的を校長らに追及され、当時のハンガリーのサッカー選手プスカシュが犠牲になったので追悼したという若者たちの機転の利いた口裏合わせに、共感していました。私はプスカシュの名を知らなかったので、あの部分はフィクションではと言ったら、すぐに女子学生がスマホで調べて、いやフェレンツ・プスカシュは実在のプロサッカー選手で2006年まで生きていた、と調べてくれました。そもそも「社会主義」と「ファシズム」の関係がわかりにくかったらしく、なぜ東独では「反ファシズムの闘士」というだけで党幹部や指導者・教育者になれたのかという疑問が出されました。映画には描かれなかった1956年ソ連での「スターリン批判」の衝撃、日本では当時「ハンガリー動乱」と呼ばれ、今は「革命」とよばれていることの説明は、時間切れで舌足らずに終わったようです。でも、そうした問題を自由に屈託なく話す、若い学生たちの感性に、希望を感じました。映画で東独の学生たちが乗った「希望という名の列車」は、黙祷事件で退学になり家族とも切り離されて西側に逃れるための、やむなき逃避行でしたが、現代日本の学生たちにとっては、そうした自由や権利は、インターネットを通じて当たり前の空気のようになったようです。
その東独時代の体験は、講演「『国際歴史探偵』の20年」で簡単に述べましたが、数年前に中部大学『アリーナ』誌に発表した長いインタビュー記録を、本「ネチズンカレッジ」にも入れてあります。聞き手は、他ならぬ1956年ハンガリーについての名著『ハンガリー事件と日本』(中公新書)の著者・小島亮教授です。川人弁護士が、人権を学ぶ学生たちに、さらに関心あれば本「ネチズンカレッジ」へと紹介してくれたので、天安門事件と「ベルリンの壁」崩壊時の私の同時代の著作『東欧革命と社会主義』のプロローグとエピローグを、今回アップしました。そこで巻頭においたポーランドの哲学者コラコフスキーの詩「なにが社会主義ではないか」は、当時は話題になりました。でも「あとがき」の「ベルリンーー1973年春」に書いた、現地の友人ディーター・フクスとの秘密の交流こそが、私の現存社会主義批判の原点で、「希望という名の列車」体験でした。そしてその連帯は、1945年以前のナチス・ドイツと天皇制日本は、ファシズムと呼ばれた同盟国で、旧ソ連や東独の一党独裁・監視国家と同じような自由の欠如と人権の抑圧が当たり前だった過去を共有することで、裏付けられていました。日本における戦前の「治安維持法体制」の一端については、その支配の重要な一翼であった思想検事「太田耐造関係文書」中のゾルゲ事件関係新史料にもとづいて、6月8日(土)午後、専修大学での大きな講演会で、「昭和天皇へのゾルゲ事件上奏文ーー思想検察のインテリジェンス」と題して報告します。 ご関心の方はどうぞ。
初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye4609:190602〕
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