ちきゅう座 第14回 定例総会の報告
- 2019年 6月 4日
- ちきゅう座からのお知らせ
- ちきゅう座運営委員会
去る5月25日午前11時半より、明治大学駿河台校舎リバティタワーにて、2019年度ちきゅう座定例総会が25名の会員参加を得て開催されました。
まず冒頭のあいさつを弁護士で、ちきゅう座ネット論壇の常連執筆者―というより毎日執筆者―である澤藤統一郎氏よりいただきました(詳しくは後掲資料1を参照して下さい)。たまたま5月が天皇の代替わりに当たり、安倍首相の露骨な政治利用とマスメディアによる総祝賀歓迎ムードの演出がなされたことも念頭に置き、澤藤氏は言論の自由の本質が権力と権威を批判することにあるとしました。今日民主主義の危機が、マスメディアによる権力者・権威者の意向の忖度と自主規制と同調により増幅されている現状に鑑みるとき、批判の刃を研ぎ澄まし容赦なく切り込んでいくのは、戦闘的民主主義者たらんとする者の心構えでなければならないとする趣旨の挨拶は、ちきゅう座同人の出席者を大いに励ます感がありました。
このあと事前に提出されていた4本の議案にそって報告と討議がなされました。
先ず第一号議案 事業報告及び年次運動方針では、まず情勢報告がなされました。平成でくくられる30年間を回顧して、グローバルな新自由主義という資本主義の形態が世界を席巻した結果、貧富の差の拡大、相次ぐ経済・金融危機、戦争や難民問題などの続出、日本でも福島第一原発事故で未曾有の被害を出したこと、沖縄の辺野古基地移転の強行や防衛予算の拡大、AI技術を使ってのテクノファシズム化の動き、そしてNHKのひたすら安倍内閣寄りの報道姿勢と民間放送の追随などを指摘。とくにちきゅう座論壇もその一翼を担う論壇ジャーナリズムにおいて、右傾化を許さず、権力への「批判精神」を持ち続けてくことの意義が強調されました。
来年度運動方針案では、マスメディアの右傾化のなか、ちきゅう座の存在意義が市民社会でも認知されつつあり、またカバーする領域も芸術批評、映画評論、文学評論などに広がってすそ野の広がりが感じられるとしました。しかし投稿掲載数では昨年度は例年並みでありつつも、若手や女性の投稿者が少なく、依然として宿題が解決されていないことが明らかにされた。またアーカイブ・アカウントを設けて、投稿者・読者の利用の便に資することなど、新しい課題の達成へ向けて検討が始まっていることも報告されました。
第二号議案では、昨年度決算と来年度予算が報告説明されましたが、特段の提案はありませんでした。
第三号議案の監査報告では、ちきゅう座の存在意義の再確認と課題提起がありました。そのなかでちきゅう座の原点ともいうべき活動理念について、あらためて2014年1月の運営委員会の声明が紹介されました。
「私たちはそのための(正確で本質的な情報提供とそれの共有)方策として、真に重要な情報の提供や、私たちの生活実感や研究・実践活動に基づく自由な現状批判や問題的気、相互討論のための共同の場や思想家・実践家の現状分析や問題提起、さらには著書、論文の紹介などを掲載することによって読者の参考に供し、時に討論を挑発する役割を果たしたいと考えております」
これに関連して、質疑応答の中で会員相互のコミュニケーションを強化する仕掛けの必要性が提起されました。これについては意義は十分に認めつつも、ボランティアで支えられている編集委員会の仕事量の限界から、現行の「交流の広場」をもっと活用するかたちで進められるべきという答弁が執行部よりありました。
最後に第4号議案として、運営委員を14名に増やす人事案の提案がありました。
以上、すべての報告を終えてあと、各議案の採決に移り、ほぼ満場一致で報告案が承認されました。
この後休憩をはさんで、上西充子法政大学教授の講演がありました(詳細は、資料2を参照のこと)。
安倍一強の右傾化状況に風穴を開けたいという思いは満ちていますが、それを表現し広範な世論に訴えていく運動形態をどうしたらいいのか悩ましい状況にあるなか、上西先生らの斬新な試みが大きな関心を呼んだことは間違いありませんでした。
総会終了後場所を移して懇親会が行われましたが、総会出席者の7割が参加する盛況ぶりで、現下の状況を憂いて熱い議論がいつまでも闘わされました。(文責 野上)
資料1)
挨拶:言論の自由は、権力と権威を批判するためにこそある。
<澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士>
本日は、「ちきゅう座」第14回総会にお招きいただき、冒頭発言の機会を得ました。「ちきゅう座」には、私の拙いブログを、毎日掲載していただいていることに感謝申し上げ、そのブログに関連して、短い時間ですが、私流のブログ作法のようなものをお話しさせていただきます。
私がブログを書く基本姿勢は、「当たり障りのないことは書かない」「すべからく、当たり障りのあることだけを書く」ということに尽きます。「当たり障りのあること」とは、誰かを傷つけると言うこと。誰かを傷つけることを自覚しながら、敢えて書くということです。
「誰かを傷つける」言論は、当然にその「誰か」との間に、軋轢を生じます。それは、面倒を背負い込むことであり、けっして快いことではありません。場合によっては「裁判沙汰」にさえなります。それでも書かねばならないことがあります。
近代憲法を学ぶ人は、典型的な近代市民革命の成果としてのフランス人権宣言(「人および市民の諸権利の宣言」・1789年8月)に目を通します。その第4条に、有名な「自由の定義」が記載されています。
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることである。」という有名な一文。私は、これにたいへん不満です。えっ? たった、それだけ? 自由ってそんな程度もの?
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうること」という文言では、論理的に「誰も、他人を害する自由を持たない」「他人を害することは、自由の範囲を越えている」ことになります。私には、到底納得できない「中途半端な人権宣言」でしかありません。
他人を害しない、当たり障りのない言論は、「自由」や「権利」として保護を与える必要はありません。戦前、國體と私有財産制を擁護し、富国強兵や滅私奉公を鼓吹する言論は誰憚ることなく垂れ流されました。当時は、これが「他人を害しない、当たり障りのない言論」でした。その反対の、天皇の権威を傷つけ、生産手段の私有制を非難して資本家を排撃し、軍部・軍人を揶揄し、侵略戦争や植民地主義の国策を批判する言論は、多くの国民の耳に心地よいものではなく、当たり障りある言論として徹底的に取り締まられました。
いま横行している、天皇を賛美し、アベノミクスを礼賛する言論。人をほめるだけの「当たり障りのない言論」は、ことさらに自由や権利として保護する必要はありません。他人を批判し、他人を傷つけ、他人との間に軋轢を生じる言論の有用性を認めることが、文明の到達した、表現の自由を筆頭とする自由や人権の具体的内容でなければなりません。
もっと端的に言えば、表現の自由とは、権力と権威を批判するためにあります。いうまでもなく、権力は批判されなければ腐敗します。権力を担う者は、いかに不愉快で、傷ついても批判の言論を甘受しなければなりません。批判さるべきは政治権力に限らず、社会的な強者、経済的な強者として君臨する者も同様。付け加えるなら、社会的多数者もです。
そして、今問題とすべきは権威です。あらゆる権威が、批判に晒されなければなりません。とりわけ、批判が大切なのは、権力と癒着する恐れある権威です。そのような権威が今われわれの眼前にあって、それに対する批判が極めて弱い。表現の自由の危うさを感じざるを得ません。
表現の自由とは、多様に根拠付けすることができるかと思いますが、究極のところ、権力と権威の批判の手段として有用であり必要だと思うのです。すべての権力は血塗られた実力で創建されますが、これを維持するためには権威の調達が必要となります。宗教的権威であったり、文化的権威であったり、神話であったり、いずれもウソとゴマカシで練り上げられた権威。
戦前、天皇は権力と権威を兼ねていました。荒唐無稽な神話に基づく国家神道が、天皇を神として教祖ともしたのです。その天皇の宗教的権威が、天皇の統治権の総覧者としての権力を支えていました。
日本国憲法は、天皇から権力を剥奪しましたが、象徴天皇というかたちで、天皇制自体は残存し、その権威の払拭は不徹底のまま現在に至っています。日本国憲法の政教分離は、天皇を再び神とすることを阻止するための歯止めですが、これさえ十分には働いていません。しかも、天皇の権威とは、必ずしも宗教的権威にとどまらない、文化的、社会心理学的なものがあると考えざるをえません。
一連の天皇代替わり儀式において、国民主権原理違反、政教分離原則違反が明らかになりつつありますが、これは象徴天皇制そのものが内在的にもつ矛盾であり、「権力と癒着する権威」という天皇制の本質の表れというほかはありません。
権力と権威に対する仮借ない批判の言論が今こそ必要な時期だと思います。「ちきゅう座」が、そのような立場で大きな役割を果たされるよう期待の言葉を述べて、「当たり障りのないご挨拶」といたします。
(2019年5月26日、ちきゅう座より転載)
資料2)
ちきゅう座総会後講演会
国会を取り戻す―「国会パブリックビューイング」の試み
上西充子法政大学教授
―要約―
最初は、「仕事帰りの新橋デモ」という高度プロフェッショナル制度への反対デモで、最後にスピーチをするより映像を見せたい、また、デモをしている間に同時並行でやりたいという思いで、技術面でサポートしてくれる人もいたので実現できた。路上に出ていく際、スピーチやスタンディングなどあるが、実際の国会審議映像をそのまま切り取って一つの質疑をずっとみてもらうことにした。ネットで、いい加減な審議をしていると報告しても、関心のある人しか読まない。テレビのニュースも取り上げないし、クローズアップ現代のような特集番組でも国会採決の直前になってからとりあげるので遅すぎる。
やってみると反響は大きかった。国会で野党がこうですねと質問しているのに政府側がまともに答えていないのがはっきりわかる。ニュースで聞いてもああまた野党が反対しているかと思って終わるが、映像で見ると受け止め方は違うということである。説明つけずにただただ上映するだけでよい。どれくらいの人が見てくれるか思っていたが結構見ている。チラッと見ていくのではなくずっと見ている人も多いことがわかり、高プロの危険性について認知度を高められると考えた。新宿や渋谷、恵比寿などで実施、また高プロ問題からその後の入管法改正、勤労統計不正などがあって継続している。
(実際の映像を示しての解説)
①長妻議員が首相に「岩盤規制にドリルで穴を空ける」というのは、労働法制についてはおかしい、労働規制をゆるめたら安心して働けなくなる、むしろ規制をつよめてゆとりのある働き方を実現すべきだと糺したのに対し、安倍首相は「岩盤に穴を開けるにはドリルが必要」というだけであった。
②法改正が、時間外労働時間に上限規制を設ける一方で、高プロ導入によって働かせ放題になる、労働者は言われれば受けざるを得ない弱い立場であり、健康は守られなくなるとの指摘に対して、答弁では、時間外の上限規制強化の面だけを強調して都合の悪いことには答えない。「上限規制を設けることなどの労働法制改正を・・」と言って、高プロを含んでいることは口にしないという答弁ぶりだった。
③竹中平蔵が「労働法制改正は高プロの目的は経営側のニーズだ」と言っている点にも官僚作成の答弁を棒読みで答えなかった。
④過労死遺族会が首相に面会申し入れを繰り返しているのに全く取り合おうとしない点を追及された際、答弁を厚労相に代理させて平然としているシーンは、委員長の運営ぶりを含め、議会討論を形骸化させようという政府・与党のひどい姿勢がよくわかるものである。
こうしたずさんな答弁ぶりはなかなか一般の報道ではわからない。NHKのニュースではアナウンサーのやりとりを一言ずつだけで終わりで、それではあたかも首相がちゃんと答えているようにしかならない。しかし生の映像でみるとそれが浮き彫りになる。
少し長すぎるのではという指摘もあったが、採決強行で紛糾した場面のみをたとえば3分くらいにして、それを何回もみせたら効果的かというとそうではないだろう。むしろまたかと拒否反応が出るだろう。審議模様を上映していくことで、野党が淡々ときちんと論点を指摘してまじめな質疑をし、政府側もよりよいものをめざして論議をするのが国会のあるべき姿にもかかわらず、政府側はまともに答えていないことがはっきりとわかる点が大事だと思う。
見た人からツイッターで声援が送られた野党議員から勇気づけられたと評価してくれたり、ちゃんと見ているからいいかげんな答弁は許させないぞといったことも含めて双方向に話が流れていく効果が出ていると思う。ユーチューブに流したり、CDに焼いて配るということもできている。
しかし、ひとつの審議を全部見ないとできないので、制作にはかなり時間がかかる。今後は関係の人が集まって知恵を出し合う機会も設けるつもりである。
(会場での質疑応答)
Q 国民にとって国会中継番組は最もつまらないものだが、総理が代理答弁させたり、「・・など」で逃げるうそつきの有様を示すのに、新しい手法で立ち向かい展開しているのはすばらしい。
A テレビがこういうことをしてくれるとよいが、上のほうの忖度なのかやらない。国会中継ではだらだらでよくわからない、だから見ないのが政権には都合がよいのだろう。これまで関心をもてなかった人がこれによって変わってくれるのではと思っている。
Q 見る人が増えてくると規制されるのではないか。
A 新宿の地下は山本太郎や福島みずほさんが開拓してきた場所で、警察が来てもなんとか対応してすませている。有楽町はいい場所だが、商店街の人に文句をいわれたのでその後はしていない。100人にもなると落ち着いてできないことになる。50人くらいがちょうどいい規模である。
Q 安倍が「岩盤規制に穴を」といっているのは、社会の基盤を壊すことになり、保守政治家がいうことではないはず。知性の貧弱になったことを示している。また、担当大臣が責任をもって答弁すればよいはずで、なんでも首相に答えさせるのは結果的におかしくなるかもしれない。
A この場合は、厚労相があまりにもおざなりな態度だったこともあるので、あのようにならざるを得ない面があった。
Q テレビの劣化がすすんでいるが、やはり大多数が視ている。テレビを変えていくにはどうしたらよいか
A メディアの人は本業で番組を仕事として番組を制作している。それだけに上からダメといわれてしばりがかかるのだろう。こういうのをやるとテレビを批判的にみる助けにもなる。しかしテレビの中には何とかしたいと思っている人もいるだろうから、韓国の「共犯者」のように中から変えてほしいと思う。
Q TVも新聞もだんだん見なくなってきているが、影響力まだあるのか。
A 高齢者はまだみているし、投票はする。ネットは分断されて一部の人だけになる。
Q 影響力は落ちているが、フランスなんか10年前から家にTVがないような状況だったのに比べると日本はまだ見られているし影響力はある。ネットはやはりせいぜい数千人レベルの視聴者数で影響力は低い。台湾の例だと、新聞は政治色が強くて、運動を支えているようなパワーがあり、ダイナミックな感じがある。まだ民主化から日が浅いためではないかと思う。
Q ちきゅう座の人は、知性的でスマートで泥くさくないと感じている。
Q 新橋や有楽町よりも、次の若い世代に向けて大学のキャンパスでやってみたらどうか。
A 授業でやったことはあるが、キャンパスでは無理。チラシを配るのさえ禁止されている。
Q スマホやっている人は、隣の人さえ話しかけずパソコンでやる。スポーツなどにはわぁーと人が集まる。この奇妙な現状についてはどうか
A ツイッターだと身近にいなくても他の人とつながれる。新しいコミュニティーであって、スマホは単なる通信手段ではなくてそこで誰とつながれるのかということだ。
Q 安倍などは、利権団体として動いているだけ。大企業が裏で動いて、岩盤を外してもっともうけさせろとその手先になってウソをいっているのだろう。その背景の経済的理由がみえてこない。
Q 産業界はもうけがないから困っているのでは?
(最後に一言)
A 見ている人は受け身ではなく、あえて立ち止まって見ているので、そこで見て感じたことが自分の認識になっている。アベ辞めろというのではないなと感じる。安倍がやめても構造は同じで、その構造を変えるためには自分が職場などでどうしたらよいか、持ち帰って行動していくことにつながってはじめて大きな行動になっていくのでは思っている。
以上 (担当 村尾)
2019年度運営委員
運営委員長:合澤 清(再)
監事:矢沢国光(再)、内田 弘(再)
運営委員:松田健二(事務局長―再)、安岡正治(編集委員長―再)、
青山 雫(再)、生方 卓(再)、大川昭一(再)、片桐幸雄(再)、髭 郁彦(再)、府川頼二(再)、松井靖久(再)、村尾知恵子(再)、石川愛子(再)、安岡正義(再)、野上俊明(新)
ちきゅう座事務所:東京都文京区本郷2-3-10 御茶ノ水ビル303号 ℡090-4592-2845(松田)
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