あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止問題にかかわる声明
- 2019年 8月 16日
- 評論・紹介・意見
- あいちトリエンナーレ2019大井 有
2019年8月9日
「自由・平和・民主主義を愛し戦争法制に反対する名古屋大学人の会」世話人・呼びかけ人有志一同
8月1日より開幕した「あいちトリエンナーレ2019」の企画の一つ「表現の不自由展・その後」が、開始わずか三日にして中止となりました。展示開始から中止に至る過程で、名古屋市長や内閣官房長官、文部科学大臣を含む複数の政治家らによる中止要請や圧力があり、また展覧会に危害を及ぼす旨の匿名による複数の脅迫がありました。
私たち「自由・平和・民主主義を愛し戦争法制に反対する名古屋大学人の会」(以下、名古屋大学人の会)の世話人・呼びかけ人有志一同は、これらの政治家による展示内容への介入に強く抗議するとともに、暴力をほのめかした脅しによって自由な表現の場を奪おうとする行為を厳しく批判します。また、あいちトリエンナーレ実行委員会には充分な準備と関係機関との協力を行い、観衆、アーティスト、運営関係者すべての安全を十分に確保した上で、「表現の不自由展・その後」の展示再開に向け、努力するよう求めます。
表現の自由は、表現者にとって自己の生を実現する根源的な権利であると同時に、表現に接する人々にとっては多様な情報に触れ、自らの思考を鍛える機会を保障するものです。また、表現の自由は人々が政治的意思決定をするための不可欠の前提条件であることから、民主政社会にとっても極めて大きな意味を持ちます。日本国憲法21条が表現の自由を保障し、検閲を明文で禁止しているのも、そのためです。
多数を標榜する者の不快感等を理由にして、政府や自治体等が表現行為を禁止することを認めてしまえば、立場の異なる人々の意見表明の自由は奪われ、民主政社会にとって必要不可欠な意見の多様性も失われることになります。ですから、日本国憲法21条を始めとして世界各国の憲法は、表現の自由を優越的な権利として手厚く保護しているのです。表現の自由の保障にも限界はありますが、その制約は必要最小限度のものでなければなりません。現在の展覧会の多くが国や地方公共団体からの補助金等に依存している以上、政府や首長が展示物の内容を理由として補助金の支出を停止することは、憲法21条に違反すると考えます。そして、一般市民の脅迫行為によって他者の表現の場が奪われるとすれば、暴力ではなく言論で成り立つ民主政社会の基盤が掘り崩されてしまうでしょう。
私たち「名古屋大学人の会」が危惧するのは、市民の自由な表現・言論活動に対して、補助金の交付を盾に取ったり「国の見解・方針」を口実としたりすることで行われる政治の介入です。また脅迫やいやがらせが横行することにより、市民の意見表明や表現活動が萎縮していくことです。そして、本来開かれてあるべき表現の場が、トラブルを避けようとするあまりに制約ばかりになっていくことです。
残念ながら、私たち「名古屋大学人の会」のメンバーが関わっている高等教育・研究の場においても、上記のような危惧は当てはまる時代になっています。自らの主張に沿わない研究を行う学者を名指しで批判し、科学研究費補助金の交付停止を訴える政治家たちが現れています。数年前には、新聞が一人の韓国出身の大学教員の授業を取り上げて批判し、その記事や右派組織の煽動に後押しされた人々によって、その教員および所属大学が激しい攻撃を受けた事件もありました(この事件については、今回の「表現の不自由展・その後」の年表にも記載されていました)。
表現の自由が守られねばならないのは、特別なアーティストのためだけではありません。私たちのすべてが、何の心配や恐れをもつことなく、自由に書き、描き、作り、学び、考え、語り合うために、それは守られねばなりません。自らの意に沿わない意見を圧殺し、開かれた表現と議論の場を消滅させていく行為は、私たちの社会を単一の価値観だけが支配する暗い時代へと導いて行くでしょう。
民主的で活発な社会が築かれていくためには、不都合に見える歴史の証言を受け止め、異なる意見をもつ他者の声に耳を傾け、目の前の作品が訴えかけてくるものに向き合う、やわらかで寛容な姿勢が大切です。そしてそうした社会と人々のあり方を根本で支える原則の一つが、表現の自由なのです。
表現の自由を守る連帯の輪が広がることを願い、あいちトリエンナーレ2019が表現の自由の重要さを認識する大切な機会となることを望みます。
以上
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8905:190816〕
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