少数民族にとって中国革命とは何だったか(5)
- 2019年 11月 11日
- 評論・紹介・意見
- チベット中国阿部治平
――八ヶ岳山麓から(297)――
いわゆるチベット叛乱は、農牧民のレベルでは、民族の自決とか高度の自治を要求するものではなかった。初めは「民主改革」への抵抗である。こののちは中共軍の殺人と破壊からの逃亡である。
パンチェン・ラマの告発
チベット仏教第二の高僧第十世パンチェン・ラマは、文化大革命が終わって10年後の1987年春、全国人民代表大会チベット自治区常務委員会で、1959年までの中共軍によるチベット叛乱鎮圧について告発した。以下はその抜粋である。
「……青海省には3,4千(ママ。3,4百の間違いと思われる)の村や町があり、そこではそれぞれ3,4千世帯が4,5千(ママ。4、5人か)の家族とともに暮らしていた。この各村や町の8百人から1千人が投獄され、そのうち少なくとも3百ないし4百人が獄死している。つまり投獄されたもののほとんど半数が獄死したということだ。叛乱に加わったものはその中の一握りにすぎないことを去年(1986年)我々は知った。大部分の人間は全くの無実だったのである」
「ゴロク地区(現在の青海省果洛蔵族自治州)では、大勢の人が殺され、その死体は丘の斜面から深い凹地に転げ落とされた。そして中国軍兵士たちは遺族に向かって叛乱は一掃されたことを喜べといった。人々は死者の体の上で踊ることを強制され、しかもそのあとで、機銃の一斉射撃によって虐殺され、その場で埋められたのである」
「七万語に及ぶ『嘆願書』の中で、チベット人口の約5%が投獄されたと指摘した。だがその当時私の手もとにあった情報では、全人口の10%ないし15%ものチベット人が投獄されたのである。しかしその時、数字のあまりの大きさに私はそれを公表する勇気が持てなかった。もし本当の数字をあげれば、“人民裁判”で殺されていただろう」
パンチェン・ラマは、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教第二の転生ラマである。パンチェン・ラマ十世(1938~89)はダライ・ラマ十四世のインド亡命と農牧民の叛乱を非難した、もともと中共側の人であった。
ところが叛乱後のチベット人地域を視察すると、そこには民族と仏教が危機に瀕する悲惨な現実があった。彼は1962年に周恩来総理にあてて漢字7万に及ぶ、前出の『嘆願書』を提出した(以下『七万言書』という)。毛沢東はこれを一読して「中共に対する毒矢だ」と一蹴し、以後パンチェン・ラマを右派分子として、14年間、吊るし上げ、監禁、投獄という目に合わせた。
上掲のパンチェン・ラマの発言は、“Zhe Panchen Lama Speaks”の邦訳『パンチェン・ラマの告発』(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所1991)から引いたものである。チベット語での発言を漢語に翻訳して、中共最高層に配布されたものが漏出したものと思われる。重訳と誤訳のためか幾分ちぐはぐなところがあるが、この文書は『七万言書』の補遺であり、亡命政府の単なる宣伝文書とすることはできない。
仏教を守れ
チベット民族の叛乱は1956年に始まったが、これは簡単に各個撃破された。しかし58年にふたたび各地で叛乱が起きた。原因は寺院破壊への反発である。この年、青海省でも寺院は叛乱拠点になることが多かったから、中共政府は集落首長らとともに寺院高僧を予防拘禁した。
寺院の「民主改革」は、農地・家畜の没収と農牧民への分配、高利貸の帳消しで終わらなかった。叛乱がおきると、中共軍は伽藍と佛像を破壊し、金銀宝石を没収し、経典を焼いた。集落の小寺院も破壊された。日本ではよく文化大革命での破壊が強調されるが、青海省の寺院の90%超は、この時破壊された。
さらに布施や参拝を禁止し、僧侶に労働と還俗、結婚を強制した。釈尊は労働を禁じているから、中共の「坊主も大衆同様労働せよ」という政策は、結婚同様破戒の強制である。布施がなくなれば僧侶は餓える。しかも還俗は家族が扶養家族を抱え込むことを意味する。当時チベット人社会は一家に一人、あるいは二人の男子が出家していたから、集落社会は混乱した。
『七万言書』によると、中共の工作者はこちらに村の娘や尼僧を並べ、あちらに僧侶を並べて相手を選ばせた。僧侶と尼僧を同居させ、性的堕落状態をつくるという「革命的」方法もとったという。ほとんど家畜同然の扱いである。
チベット人集団が「仏教を守れ」というスローガンを掲げたのはこのゆえである。
虐殺
58年6月毛沢東は青海の叛乱を聞き、「反動分子を粉砕するチャンスだ」といい、青海省党書記はこれに追従して、「奴らの親玉を捕まえれば任務は半分完成だ。そいつらを銃殺すれば100%完成だ」といった(後述)。
58年青海省の牧畜地帯では、4万9000人余が反革命として逮捕され、その多くが殺された。成人男子が殺されたために女子供だけになった集落が出た。また食料とテントが奪われたために餓死凍死したものが多数生まれた。さらに皆殺しのために集落が消えた所もある。
私は、叛乱を起さなかったのに集落20数戸のうち10数人の男が連行されて帰らなかった例を聞いたし、またある青年から、彼の集落では父母の世代に腹違いのきょうだいらしいのがかなりいるという話を聞いた。成人男子が多く殺されたから、こういう現象が生まれたというのである。
叛乱の捕虜とされたもののあつかいは猖獗を極めた。彼らは捕縛され、荷物のように積み重ねられて、トラックで次々西寧の監獄に送られた。水も食事も与えられなかったためか、人事不省となったものがいた。運搬途中死んだものもあった。
青海省副省長だったタシ・ワンチュクはこれを見て、あつかいのひどさに驚き怒った。のちにプンワン(中共ラサ工作委員、拙稿前回参照)に会ったとき、中共軍の捕虜の残酷な扱いを話して涙を流した。タシ・ワンチュクは長征途上の紅軍がカムを通過した時紅軍に加わった「老紅軍」で、のちに第一野戦軍とともに青海に来て、そこで省幹部になった人物である。
消えた村
パンチェン・ラマの故郷インドウ郷(現青海省海東地区循化県)は15年間地上から消されていた。
58年、循化県では「民主改革」に際し、回族も含めて地域の上層分子が予防拘禁された。その中にパンチェン・ラマ十世の幼時の師匠で、声望の高いインドウ・ゴンパ(僧院)のジナイファ・ラマがいた。
4月17日、牧野の「民主改革」に反対して工作組を殺害した武装牧民100人余りが循化県城におしかけた。彼らはジナイファ・ラマを取り戻そうとして、県政府を攻撃し商店に放火した。さらにジナイファ・ラマの釈放を陳情する農牧民4000人が循化県城にやって来た(楊海英『チベットに舞う日本刀』(文芸春秋)はこれをムスリムのサラール人としている)。当然街頭は武装牧民と一般大衆がごちゃごちゃになる。
4月24日午後、叛乱鎮圧部隊が循化県城の黄河対岸に集結した。25日の明け方、2個連隊が渡河して、「叛乱集団」を包囲銃撃し、たちまち500人をなぎ倒し、2500人を捕虜とした。民衆をすべてチベット人とすれば、当時の循化県のチベット人は1万1000人ほどだから、4分の1が殺傷逮捕されたことになる。この騒ぎのなか、ジナイファ・ラマは自殺したといわれる。だが仏教は自殺を禁じているから事実とは思えない。
インドウ郷はインドウ・ゴンパ(僧院)の僧侶とともに全員が近郷へ強制移住させられた。彼らが帰郷できたのは、文化大革命後の1983年すなわち25年後である。
循化同様に悲惨を極めたのは、牧畜地帯のモンゴル人の民族島河南蒙旗の叛乱である。この地区は1956年に「民主改革」に抵抗したために、「匪民未分(見境なし)」の残酷な弾圧を受けた。58年には、牧民らはラサ方面への逃亡を企てた。5月3日、3590人の戦闘可能の牧民のうち1597人がケセントルゴ山に集結した。彼らは黄河対岸のチベット人400余人の掩護のもと、渡河逃亡しようとした。
この情報を得た中共軍騎兵一師(内モンゴルからの騎兵隊)は、明け方に女子供も含めた「叛徒」を包囲。大砲と機関銃で遠方から攻撃し、射殺265、負傷142、黄河で溺死115、その他の死者11、合計1594人を殲滅した。逃亡しおおせたのは137人に過ぎなかった(『河南県誌』、内モンゴルからの騎兵隊については、モンゴル人楊海英が前掲書で詳細に論じている)。(つづく)
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