日本人の中国認識を揺さぶる映画体験—王兵の『死霊魂』を観て
- 2020年 8月 10日
- 評論・紹介・意見
- 小泉雅英
王兵の『死霊魂』を観た。4月の初めに予定されていた劇場公開が、コロナ災害で2回も延期された後、ようやく今回の公開(8/1~)で作品に接することができた。8時間26分の超大作。この日のために体力と時間調整を続けてきた、というのは本当のことだ。
会場のイメージ・フォーラムは、昨年6月のジョナス・メカス追悼上映で訪れて以来だから、1年2か月ぶりということになる。渋谷は、この1年余りで、さらに変貌したようだが、方向感覚は失っていなかった。新しい高層ビル(ヒカリエ)を通り抜け、昔ながらの宮益坂に出た時は、ほっとした。予約していた席は、とても見やすい位置だった。昨年との違いは、座席が前後左右、一つおきに間隔をおいて設定されていることだが、観客としてはとても良い配置だと感じた。イメージ・フォーラムの座席は、もともと広くはないが、劇場の営業側からすると、今は大変厳しい状況に違いない。ともあれ、この小さな空間で、朝11時半から夜8時半まで、王兵の大長編作品を観た。
前置きが長くなってしまったが、この映画の本編の時間は、日曜午後の渋谷の空気と違い、甘いものでは全くない。それは長さの問題ではなく、スクリーンに立ち現れる映像と音声が、否応なく人を凝視させ、耳を澄まさせることになるからだ。この作品を観ながら、何度も『無言歌』のシーンが浮かんで来た。『無言歌』は劇映画だが、今回の『死霊魂』と、私の中で交じり合い、立体的に立ち上がって来るという感覚だった。『死霊魂』の登場人物の話を聴いていると、これは『無言歌』で観たあのエピソードのことだ、と思うことが何度もあった。
例えば、遺体から肉を剥ぎ、焼いたり、保存して食べたりする話は、複数の方が証言しているが、そのまま『無言歌』にもあったものだ。食えない植物を食べてよく下痢したという話を聴きながら、壕の外で苦しそうに吐く男の吐瀉物の中に、未消化の物を探し、それを拾って口に入れる『無言歌』のシーンを思い出していた。
第二部に登場する趙鉄民氏の証言は、その迫真性で、特に強い記憶が残った。人肉を食った男の話をしながら、食った男の名前は直ぐに出てくるが、食われた者の名前がなかなか思い出せない、というのもリアリティがあった。夫を訪ねて、西安から子連れでやって来た女の話には、胸が詰まった。ようやくこの辺境の地の収容所に到着したが、既に夫は死去していたことを知った彼女は、子供を事務所に預けた後、布団カバーを裂いた紐で、首を括り、自死を図る。この話は、『無言歌』の重要なシーン、上海から来た女性が夫の死を知る顛末と、墓を探して砂漠を彷徨し、仮の墓の前で号泣するシーンを思い出すのは、ごく自然なことだ。
この趙氏の証言は、死者となった「囚人」仲間たちの記憶だけではなく、彼自身が収容されるまでの経緯や、2回も脱走を図った顛末、家族への愛情など、実に活き活きと語られ、『死霊魂』の中で際立って魅力的なものだった。
600時間に及ぶ120人の証言を、24人、8時間半に編集した『死霊魂』は、一つ一つが重要な証言で、それぞれの語りも個性的で、一つ一つ、じっくりと聴き直したいと思うほどなのだ。その中で、この熟達した話芸を聞くような趙鉄民氏に加えて、第三部に登場する、趙氏の語りと対称的な、氾培林氏の静かな証言が、特に強い印象を残した。
氾氏は、本人が収容されたのではなく、文学教師だった夫が右派として批判され、再教育のために収容されたのだった。子どもを抱え、辛酸をなめて暮らし、会いに行く余裕もないまま、夫は収容所で餓死し、再会することはなかった。その後、同じ収容所の生存者と再婚したが、彼も後の文革時に批判され、暴力を受けて半身不随となり、苦労の果てに亡くなったという。こうした彼女の波乱万丈の個人史が、中国の歴史と合わせて淡々と語られ、この映画の掉尾にふさわしいインタビューだった。
王兵のカメラは対象に感応し、カメラの後ろで、思考を続ける主体がいる。対象が人間の場合は、その人物との信頼感(trust)に裏打ちされていることが分かる。談話分析で言うラポール(rapport)が築かれている、と言っても良いだろう。人に対しても、物に対しても、カメラの背後には凝視する主体と、対象への親密な視線がある。『収容病棟』の廊下を駆け周る男を追いかけるカメラには、その人物を見つづける眼差しがあるのだ。
映画『死霊魂』は、収容所跡周辺に散らばる頭蓋骨などの骨片を、一つ一つ確認するように進むカメラが、ザクザクと歩む足音と、吹き抜ける風の音を聞きながら、壕の入口で停止する。そして、長い沈黙を残して、画面は溶暗していった。
日本でも中国現代史を少しでも学べば、誰でも「百花争鳴」「反右派闘争」などの言葉を知るだろう。しかし、その実態を知ろうとする者は、どれだけいるだろうか。この映画には、その穴を埋める重要な証言が詰まっている。1989年「6・4」によって中国認識を転換させられた私には、この『死霊魂』は、その認識をさらに揺るがし、深化させる映画体験だった。他の誰にも、しかも二度と成しえない歴史的・映画的達成である。機会があれば、体力を整え、ぜひ見直したいと思う。(了)
【付記】今回の公開に合わせて公刊された『ドキュメンタリー作家 王兵』(土屋昌明・鈴木一志共編著、ポット出版プラス刊)と、劇場公開用パンフレット(ムヴィオラ発行)は、この作品の理解にとても役立った。特に前者は、王兵監督へのインタビューが2本(土屋昌明氏によるものと、樋口裕子氏によるものが)収録されていて、王兵の生の発言に接することができる。王兵作品を包括的に論じる藤井仁子の論考も必読だろう。
本書の中心となる「『鳳鳴』を読み解く」は、王兵の重要な作品『鳳鳴』を徹底的に」解読していて、映画と歴史を同時に理解できるように作られている。巻末のフィルモグラフィは、デビュー作『鉄西区』から制作進行中の『上海の若者』まで、解題と短い批評的解説が収録されていて、王兵ファンにはとても実用的で、学べることが多い。(2020/8/9小泉雅英)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10015:200810〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。