ていこう原理 17 とっくに「新しい戦前」の学校教育
- 2023年 5月 23日
- 時代をみる
- 長谷川孝
◆ナショナリズム的な「態度」育ての教育
最近、はやり言葉のように「新しい戦前」と言われますが、学校教育ではとっくの昔に戦前化されてぃる、と言わざるを得ません。憲法と一体とされた一九四七年制定の教育基本法が《殺され》(つまり大改悪され)、第2条(教育の目標)にいくつもの「態度」を養うことが規定されました。教育の根本法で求める「態度」とは、いわば「国民としての態度」と言えます。
大改悪をしたアベ政権の文科相は執務室に教育勅語を掲げていたと言われます。第2条はまさに、勅語の思想を持ち込んだ条文だと考えてよいと思います。〈そうか、学校は今、子どもたちにナショナリズム的な態度を養わせる(仕込む)国家装置なのだ……〉。送っていただいた一冊の本のタイトルを見て、とっさに思ったことでした。
『学校で育むアナキズム』(池田賢市著、新泉社)です。そして、子どもの自由な学びと育ちを述べる本に違いないと感じました。読み切らぬままにこの原稿を書いていますが、外れてはいないと思います。
◆教育を受けると自分が学校化する
子どもたちは、既定の態度や秩序や行動様式などのない自由な存在。まず、席に座って、教員の話を聞き、チャイムに合わせて行動することから、態度を仕込まれます。学校様式に体の動きを合わせ、アナーキーではない〈良い子〉になるわけです。
フィンランドの小学校やイタリアのモンテッソーリ小学校の「授業」の様子を思い出します。教員に向かってそろっている子など一人もいません。そんなイスも机もありません。教室内だけでなく廊下でも、それぞれの課題に自由に取り組んでいます。教員は様子を見て回ったり、質問に答えたりしています。一斉授業などもしません。フィンランドで言えば、知識とは一人ひとりが〈自分の知識〉として獲得するものだからです。だから一つの正解を求めるテストもありません。
日本の例で、ある私立小4年生の総合学習を思い出します。クラスで取り組むテーマは、学校近くの大きな川に沿って河口まで歩くことで、「目的はない」でした。目的の達成が求められる学校ですから、担任には「ツライ」テーマだったはずです。子どもたちは、散歩する市民や興味を持って同行する人、河川敷で暮らすホームレスの人などに出会ったりしながら、子らはそれぞれに「目的」を見つけながら河口にたどり着きました。
目的を持って努力だけでなく、歩く(生きる)途中で気づいてもいいのだと、大人も考えさせられました。フィンランドやイタリアの教室の子らも、教員から与えられた目的に従って学んでいるのではないのでした。
◆教育機会確保法のゴマカシ
いわゆる「教育機会確保法」と云う法律があります。フリースクールや子どもの居場所、夜間中学など、「学校以外の場」での活動にも光を当て(つまり公認し)、予算もつくようになった、と評価する考えも多いようです。
でも、そうでしょうか? 推進した政治家たちの顔ぶれからも、そうとは思えません。教基法大改悪、道徳教育の教科化、指導要領の内容や教科書検定そして教育行政への政治介入などなど「教育再生」が進み、〈学校教育の本体はがっちり押さえた、学校に馴染めないなら勝手にどうぞ〉なのだという気がします。
憲法第二六条で「受ける権利」とされた教育。この「権利」が「義務」へと脅かされているのは、九条と同じです。(読者)
初出:「郷土教育765号」2023年5月号より許可を得て転載
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