被爆の実相、体験の継承へ新たな試みを知る 広島を8月5日から7日まで訪ねて
- 2023年 8月 16日
- 評論・紹介・意見
- 山田幹夫核被爆体験
8月6日の中国新聞の朝刊・社説は、ヒロシマ78年として「原点の継承 今こそ誓いたい」と書いている。中見出しは「廃絶の道見えず」「核抑止力は幻想」「証言掘り起こす」と続いている。社説に込められた、最近の日本の情況から「気がかりな」ことも含めて、核廃絶へのこれからの方向性を訴える内容を、私は支持したい。
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平和記念式典(6日)前日の5日、原爆ドームがある平和公園周辺には署名を集める制服姿の中学生たちの姿があった。外国人に「インタビュー」を試みようとしている数人ずつの姿もあった。
道路の端でおずおずと署名を訴える中学生らに聞いてみると、最初は小さな声で「広島に来た人に、戦争や原爆や水爆をなくすための署名をお願いしています。名前だけもいいです」。署名をする人が続くと、女子たちは初めての体験らしく声をあげて喜び合っている。
◆記念式典への外国代表の参列は111か国。最多を記録
6日、今年の鎮魂の日の平和記念式典はコロナ禍で参加人数を制限した昨年までと違って、以前のように自由に参加できる。今年は外国人の参加が目立つ。式典には、広島市役所によると過去にはない、欧州連合(EU)を含む最多の111か国の代表が参列し、式典会場と周辺には各国大使館関係と思われる人と一緒の人たちも多く、海外からの旅行者と見られる姿もとにかく多い。特に家族連れや高校生や大学生らしい若い世代のグループ、カップルが目立つ。右を向いても左を見てもだ。
日本の広島の中学生たちは、数人で「何を聞こうか? 言葉をどうかけたらいい?」と、相談しながらのおずおずとしたアタック。授業の平和教育実践の一環らしく、「何を聞くのですか?」と質問すると、「広島のことを知ってほしい」と返ってきた言葉に、感慨深いというかうれしい思いがした。
私は広島、長崎、第五福竜丸、東京大空襲など、取材の仕事上で長くそれなりに関わってきて、退職して、広島へは10年余ぶり。久しぶりの原爆ドームと平和公園は変わらず、周辺は建物が増えてきれいになって変わってきているが、原爆の事を忘れないようにしている広島の精神には変わりがないことを強く感じた。
東京から小学生を連れた家族旅行の女性は、「中学校の修学旅行は広島で、宿の窓を開けると目の前に原爆ドームだった」そうで、広島を再訪してその建物が今も営業していることを見て、「ここだ。まだあった。えっ、この上空で爆発したんですか」と、ドームと見比べながらしばらくそこを動かなかった。
8時15分の、セミ時雨の中の厳かな黙とうに続いて、広島市長や県知事、国連の事務局長の内容の濃い「平和宣言」や挨拶、そして拍手も小さめの中身のないお恥ずかしい日本国首相の〝つぶやき”があった式典後、官庁街の北にある広島城を初めて見学して市街地に戻った。
◆商店街の名入りで平和を強調する大きな書「Peace from 紙屋町」
地上は暑いので、市内の繁華街中心部、紙屋町・基町の地下通路に入ると、広い中央広場を占めた「書を通じて平和のメッセージ」に出くわした。地元の安田女子大学の書道学科などと青少年センターが協力し、広島市が後援している。「広島から世界へ平和を繋ぐ」と大書された幕がとんでもなく大きい。
「平和の一筆とみんなでつくるピースアート」いうメッセージ発信の催しだ。誰でも自由に普通の半紙に書をしたためることができる。親子連れが筆をとって「書道体験」をしている。地元商店街の紙屋町の名を入れた平和アピールの書も大きく張り出されている。何枚もある。やはり、ここは広島だと実感する。
6日の夕方から夜は「灯篭流し」だ。原爆ドーム西側の元安川の広い両岸やコンクリートで立派になった元安橋の上は人でビッシリ。午後6時から9時だが、7時半になっても日差しは明るく、ゆったりとした流れに灯篭もゆっくりと動いてお互いに集まって流れる。人は集まり続けるが去る者はほとんどいない。見やすい場所を探して歩く家族連れの、「6日は広島の特別の日じゃけん」と子どもたちへの言葉が何度も背中から聞こえた。
◆私がずっと懸念してきたことは二つ。一つは被爆者の方々の高齢化
かつてインタビューなどをお願いした人たちの顔は忘れていないが、ほぼ全員と、もう会えない。
6日の早朝というか日の出前から平和公園は、60以上ある様ざまな慰霊碑や記念碑に詣でる人々が多い。犠牲となった親類縁者に静かに想いをはせるためだ。それも10数年前までと変わらない。
被爆時のここ一帯(中島地区7町)には推定6,500人が住んでおり、建物疎開作業中の国民義勇兵や動員学徒らも非業の死を遂げ、街並みも一瞬で消え去った事実は永遠に残る、ここは慰霊の地である。
今年は、式典が始まる午前8時の直前、7時過ぎから半まで急な通り雨。「涙雨だね」と通行人。
2023年は原爆被爆から78年にもなる。被爆者(被爆者健康手帳を持つ国内外の生存者)の平均年齢は85.01歳になるということから、被爆者がいなくなる日は、いずれというよりも、すぐ目の前ではないか。
◆「家族伝承者」という広島市の新しい試みに拍手
「被爆者なき時代」とは、被爆の実相、人類も消し去るかもしれない核兵器の怖さが分からなくなることを心配してきたが、若い世代の「広島のことを伝えたい」という声を聴くとうれしくなる。
広島市が「家族伝承者」と言う制度を昨年5月から始めたことを知った。被爆者の体験や思いを次世代へ、という被爆者だけでなく有志の「語り部」の運動を、私も取材して伝えてきたことがあったが、家族である祖父・祖母、父・母、親類の想いを子どもや孫が、家族として繋ぐために聞き取ることは、これまでは簡単ではなかった。それがいま歩み出したことを知った。
NHK広島放送局の画面で「思い出したくないと言われていたので、聞いてはいけないことだと思っていた」という家族が、意を決して語る親族の高齢の被爆者から聞き取る様子を見させてもらった。それまでは話してもらえなかった親の体験や気持ちを初めて耳にした中年の息子の染み出る涙にジンと来てしまった。どの家族でもできるということではないと思うが、温かい思いも混じる素晴らしい試みだと思う。
◆「質問者が自分事として感じてもらえる」ことをAIで追求する試みも凄い
他方、気になることは、有名で大規模な「原爆資料館」にある物は世代を超えて見て、聞いてという伝承ができるが、各所にある被爆者の証言、文章やビデオは残されてきているものの、見る人、見る機会が限られていることだ。
そうした懸念に応える試みの一つがNHK広島の6日午後の番組であった。被爆者の方に5日間かけて話を聞いてビデオに記録。そして、等身大の被爆者の映像の前で質問をすると膨大な記録データの中からAI(人工知能)が瞬時に適切に抜き出して編集し、本当に目の前にいるような臨場感でその方の表情の動きまでもが自然な感じで出る。あたかも質問者と直接に会話をしているような内容が紹介された。
ナレーションは「被爆者の証言を、質問者が自分事として感じてもらえる」ことを目指して開発中であることを伝えたが、とても良い! こういうことは国家レベルの事業にすべきだと感じる。
◆懸念の二つ目は、平和の運動
6日の記念式典で岸田首相は「核兵器のない世界」とは言うものの、批准国が増えている核兵器禁止条約や核不拡散条約には、やはり触れず。「唯一の戦争被爆国」として恥ずかしい姿だった。となれば、主権者の国民や自治体が奮起するしかない。
<注>「核兵器禁止条約」は2017年(平成29年)7月7日、122か国の賛成により採択されて各国による署名が開始。2020年(令和2年)10月24日、批准した国が発効要件となる50か国に達し、90日後となる2021年(令和3年)1月22日に条約は発効した。批准した国は今年1月段階で68か国に。日本は未だ批准せず。
<注>日本の原水爆禁止運動の出発点となったのは1954年のビキニ事件。3月1日未明、アメリカの太平洋ビキニ環礁での水爆実験の「死の灰」は、マーシャル諸島島民や周辺海域で操業していた日本などのマグロ漁船に降り注ぎ、実験での被害への抗議の運動は全国に広がり、東京築地での「魚屋大会」や、被災船第五福竜丸の母港焼津をはじめ全国的な自治体決議、各地の平和集会や市民大会など多彩な形をとって発展して、東京・杉並区の魚屋をはじめとする女性たちや全国各地で自発的に沸き起こった署名運動が翌1955年8月6日、広島で開かれた「原水爆禁止世界大会」に結実した。
日本の原水爆禁止運動は「分裂」して永く、それぞれの政治的潮流で続けてきた。40数年前、「原水協」「原水禁」に婦人団体、青年団体、生協など市民団体が「統一」して運動を進めようという機運が高まったことがある。人類の存続にも関係する国民レベルの運動が分裂していることは、二つの「原水爆禁止世界大会」に参加する海外の人々からも当然の疑問や批判があった。恥ずかしい思いをしていたそれぞれの団体幹部は多かったが、その談話などはそのまま直接の記事には出来なかったことがあり、今さらながら忸怩たる思いはある。
「政治」が行動や組織の「統一」を困難にしていることは現実ではあるが、核兵器が使われるかもしれないという心配と「使わせるな」という声は急速に広がっており、時は急を要していることは誰でも分かる!
「若い世代ほど核の保有を容認する空気が、じわじわと広がっているとも感じられる」「戦争の記憶の風化や防衛力強化の流れと無縁ではない」と8月6日の中国新聞社説が書かなければならない現実を前にして、何が一番大切であるかは自明であり、それぞれの個人・団体の具体的な行動が問われていると、私も自覚しなくてはと痛感する。
今回の広島詣では、公式な行事関係の取材段取りは一切していないから、まったくの気まぐれに自由に歩き回れる。「名店」の広島お好み焼き、つけ麺も数度食べられた。
<やまだ・みきお>1949年愛知県名古屋市生まれ。労働運動や市民運動をカバーする連合通信社で調査・取材など。退職後はボランティアとして東北などの被災地の支援行動。地方自治体の自治会長や管理組合理事長。
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