21世紀ノーベル文学賞作品を読む(1―下) 高行健の人となり ――祖国を捨て政治亡命者となった中国の作家の反骨の資質
- 2024年 8月 24日
- 評論・紹介・意見
- 「リベラル21」書評横田 喬高行健
以下は<注>以外は『ある男の聖書』(飯塚容:訳、集英社刊)巻末の「解説」による。
高行健は1940年、中国・江西省(中部の内陸省)に生まれた。父親は銀行員、母親は元女優。51年から六年間、中学・高校は南京第十中学に学ぶ。自由な校風の学校で、文学・芸術に親しんだという。57年、北京外国語学院フランス語科に入学。学生劇団を組織し、演劇活動、創作活動を開始した。
<注:1940年は1月に毛沢東が「新民主主義論」を発表。3月には汪兆銘が南京国民政府を樹立。8月、中共八路軍が日本軍に大反攻。45年11月、蒋介石の国府軍が台湾接収を開始。46年7月、国府軍と中共軍が内戦開始。48年11月、長春の国府軍、中共軍に降伏。49年1月、中共軍が北京占領。10月、中華人民共和国成立(主席・毛沢東、首府・北京)。52年9月、中国で高級知識人の思想改造運動が盛んになる>
62年に同校を卒業し、外文出版局の国際書店に配属され、フランス語の翻訳の仕事に従事する。66年、文化大革命が始まり、それまで書き溜めた原稿を焼却した。70年、安徽省(東北部の内陸省)の農村へ行き、幹部学校で労働改造教育を受ける。のち、農村の中学校の教員となった。
75年、北京に戻り、外文出版局に復帰。中国建設雑誌社のフランス語部門を担当する。77年、中国作家協会対外連絡委員会に転じ、翌年には老作家・巴金を団長とする作家代表団に通訳として随行し、フランスを訪れている。この旅のことを書いた散文が、初めて雑誌に掲載された。
これ以降は中・短編小説を始め、西洋文学や文芸理論に関する論文、評論、散文などを続々と発表するようになる。特に、『現代小説技巧初探』(81年)にまとめられた小説論は、モダニズムとリアリズムをめぐる論争を巻き起こした。高行健は理論においても実作においても、西洋モダニズムの実践者として認知されることになる。
81年に北京人民芸術劇院の所属となってからは、演劇の分野に進出する。『非常信号』(原題『絶対信号』、82年)は中国初の小劇場形式によって上演され、登場人物の意識の流れに従って時間や空間が自在に変化する手法の斬新さが、高く評価された。
続く『バス停』(83年)は、複数の俳優が同時に台詞を話す「多声部」の試みなど実験的手法をより徹底させた不条理劇だった。ところがこの作品は、「西洋のモダニズムを無批判に受け入れ、中国社会の暗部をことさらに描く不健全な劇だ」として批判され、上演を禁止されてしまう。当時の中国文芸界では、西側から流入した退廃的な文化による「精神汚染」を排除するキャンペーンが展開されていて、『バス停』はその格好の標的にされたのだ。
長江流域への旅はこの直後だった。健康上の不安と同時に、この『バス停』批判のショックも高行健の心に重くのしかかっていたものと思われる。全行程一万五千キロに及ぶ旅の成果は、『霊山』より先に劇作『野人』(85年)に結実した。この作品に彼は俗謡、舞踏などの土着文化を取り入れ、さらに影絵、人形、パントマイム、仮面などを加え、総合芸術としての演劇を創出したのだ。
さて、文学・演劇の分野で「ろくでもない」作家とレッテルを張られた高行健は、絵画に活路を見出す。彼は少年時代にデッサン、水彩画、油絵の手ほどきを受け、その後も時々絵筆を取って無聊を慰めていた。『バス停』批判の後に水彩画を始めて転機が訪れる。85年には北京で展覧会を開いたほか、翌年にかけてヨーロッパ各地で次々個展が実現する。
絵画の才能が認められるようになり、ドイツのモラート芸術研究所から招聘を受け、87年末に出国、翌年からパリに逗留することとなる。折しも翌々89年6月4日、「天安門事件」が勃発する。民主化を求める学生や市民約十万人が北京の天安門広場に集結。これを人民解放軍が戦車を出動させて武力鎮圧。推定三千人もの死者を生んだとされる大惨事である。
高行健はこの事件をパリで知り、「亡命作家」となることを決意する。ちなみに、彼は再三にわたり、自分は「主義を持たない主義」であることを表明している。読者が得られるかどうか判らない不安を抱えながら、彼は渡欧後もたゆまず執筆活動を続けた。
多くの「亡命作家」が出国後に創作のエネルギーを失ってしまう中で、その仕事の充実ぶりには目を瞠るものがある。自身がフランス語をよくすること、身体表現に比重を置いた実験演劇が外国で受け入れられたこと、水墨画の画家という別の顔を持っていたことによって、言語の壁を乗り越えていったようだ。
私はこの夏、高行健の主著『霊山』(90年刊)、『ある男の聖書』(99年刊)の二冊を最寄りの図書館から借り出し、堪え難い猛暑の中、ひたすら頁をめくった。前者は543頁、後者は476頁に上る、いずれも大冊。いずれを紹介するか迷ったが、「文革」とは一体何だったのか、という私の個人的関心が優越し、『ある男の聖書』の方を選んだ。
「文革」は毛沢東の甚だ傍迷惑なワンマン・ショー、「天安門事件(89年)」は鄧小平路線の独裁体制下での未曾有の大悲劇、と今の私は一口で総括する。だが、事態が生起していた当時は何が何やら、混沌としていて真相がよくつかめなかった。こうした殺伐とした事態と比べれば、日本の「衆愚政治」の方が<血を見ない>分だけ、まだしもましかな、とつい自嘲半分に思ってしまう。
もう一冊の『霊山』の方は、高行健が北京からパリへと七年の歳月をかけて完成したもの。ホメロスの叙事詩を引き合いに<東洋のオデュッセイア>とも称えられる長尺な内容だ。癌を宣告された男の放浪と魂の彷徨を描き、物語的な面白さもあり、なかなか読みでがあった。 (了)
初出;「リベラル21」2024.08.24より許可を得て転載
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