(書籍紹介)Gary J. Bass「Judgment at Tokyo」(Picador, 2024) 東アジア世界の今後を考える
- 2024年 10月 1日
- 評論・紹介・意見
- 「リベラル21」小川 洋書籍紹介東アジア世界
自衛隊市ヶ谷基地
中学校時代、新宿市ヶ谷の自衛隊基地を見学する機会があった。1960年代半ばのことである。案内された施設のなかで一番印象深かったのは、一号館と呼ばれる建物のなかの大講堂だった。案内してくれた方が「これが極東軍事裁判の会場ですが、意外と狭いでしょう?」と言い、実際、写真で見ていた印象からは想像できないほど狭い空間であり、歴史的舞台としては意外なほど質素なものだった。現在は移築されて記念館として見学することができるようだ。
いま極東軍事裁判を考える意味
1946年4月末より、この講堂で2年半にわたって行われた極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)をめぐっては、現在も評価は二分されたままである。保守(右翼)派は、勝者による一方的で不当な裁きであったと主張し、リベラル派は、裁判自体に問題はあったが文明による裁きであり、戦後民主主義の出発点として必要で妥当なものだったとする。
80年代以降、新しい資料が公開されたり発見されたりするなど、研究は深化してきた。しかし、冷戦終結後も日本政府のアメリカ一辺倒の外交姿勢、国会議員らによる大挙しての靖国神社参拝、一部の国民の間に見られる近隣諸国に対するヘイト的言動など、日本は東アジア社会で責任ある役割を果たせていない。本書は東京裁判を振り返ることによって、東アジアと日本の今後を考えるうえでも多くの示唆に富むものとなっている。
本書の著者であるバース氏はプリンストン大学の国際関係論の教授である。本書は研究書というより、東京裁判を東アジア国際情勢のなかに位置付けながら、登場人物たちの活動を生き生きと描く一大叙事詩となっている。公的文献資料はもちろん、登場人物たちの私的な通信文書なども多数取り上げ、東京裁判を主題にしながら、アジア・太平洋戦争の内実と戦後の日本の流れを描いている。本文700ページに及び、文末註200ページの大著であるが、日本語翻訳本も準備されているであろう。著者は本書の目的を以下のように述べる。
正義を求めたはずの、しかし未完に終わった東京裁判が試みたことを考えることは、以前にも増して重要なものになっている。かつて欧米諸国の傲慢な政策決定者たちからは、世界の周縁部としてほとんど無視されてきた東アジア世界は、今や国際社会における政治や軍事問題の核心部となっている。また東京裁判に判事を出した11カ国は、今では相対立しており、それらの国々が第二次世界大戦に対して集団的な判決を下すことなど、今では想像もできないほど、国際秩序は複雑になっている。
東京裁判は東アジア世界の将来を、より希望のある軌道に乗せる決定的に重要な機会だったのだが、裁判は方向性を失ってその機会を失ってしまった。裁判は日本とその周辺諸国とがより正常な関係を築き、日本人たちにより深い内省を促し、かつ犠牲者たちにより深い救済を与える機会となるべきだったのである。
大部の本書を詳細に紹介するのは不可能でもあり、以下では、東京裁判に関するよくある俗説を否定する説得力のある話題の一部だけを取り上げたい。
アメリカによる一方的な断罪だったか?
まず裁判は、勝者アメリカの復讐心による一方的で不当なものであったとする議論である。たしかに総司令官のD.マッカーサーは当初、裁判を真珠湾攻撃に始まる日本の戦争責任者の処罰の場とすることを考えていた。46年1月に山下奉文、同年4月に本間正晴を、マニラの軍事裁判で死刑に処したように、東条英機など日米開戦時の政治・軍事的責任者の処罰を急ぎたかった。しかし国際政治はそれを許さなかった。
何よりも15年間にわたる日本軍の侵攻によって甚大な被害を受けた中国にはアメリカ以上に日本を厳しく裁く権利があった。また日本軍はイギリス領マレーやシンガポールの英軍に攻撃を加え、翌月にはオランダ領インドネシアにも侵攻したから、イギリスとオランダも裁判に参加することになった。さらにインドシナに軍事侵攻されたフランス、またカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの大英連邦諸国(自治領)も日本軍と交戦し、その捕虜が虐待されるなどの被害を受けていたから裁判に加わった。
さらにポツダム宣言受諾表明後に満州や樺太などの日本軍と交戦したソ連、さらには47年にイギリスから独立したインド、46年にアメリカから独立したフィリピンからも判事が任命され、11カ国11名からなる判事団となり、取り上げられる日本の戦争犯罪は多岐にわたることになった。マッカーサーは不満を抱えながらも、トルーマン大統領の指示に従わざるをえなかったのである。
しかも中国国内では国民党政府軍が共産党軍によって追い詰められていたから、国民党から派遣された裁判官と検事らは、日本軍による戦争中の残虐行為の証人や証拠の手配さえ難しくなっていた。また裁判官席に着いたヨーロッパ諸国は同時期、植民地支配の回復を目指して軍隊を派遣し、独立運動を弾圧する行動に出ていた。オランダは独立政府が発足していたインドネシアに軍隊を送り込み独立派との戦闘で10万人以上を殺害していた。フランスもベトナムに軍を派遣して、すでに独立宣言をしていたベトナム共和国軍と激しい戦闘を繰り広げていた。
被告となる日本軍・政府指導者たちの、日本はアジア地域を植民地支配から解放し「大東亜共栄圏」建設を目指していたとする主張の正当性を証明しかねない状況さえ作り出されていたのである。東京裁判が途中で方向性を失い、不完全な形で終わった大きな理由のひとつである。
処刑日に何らかの意味があったのか
日本の一部の論者たちは11月12日に判決を受けた7名のA級戦犯たちの刑の執行が12月23日であったことを指して、当時の明仁皇太子(現・上皇)の誕生日にあえてぶつけたのであり、それは皇室や日本国民への警告を意味していたと主張する向きがある。猪瀬直樹氏の議論が典型である。氏によれば、実質的に戦争責任がある天皇の身代わりに東条らを処罰するというメッセージであり、将来の日本への警告の意味が込められていたという。
しかし本書を読めば事情は明らかである。判決の言い渡し後、被告側のアメリカ人弁護団によってアメリカ連邦最高裁に助命・減刑歎願が提出された。それらが検討されるべきか、また最高裁にその権限があるかなどをめぐって議論がなされていた。GHQはその結論が出るのを待たざるをえなかった。その結果、判決から処刑までに一ヶ月以上が経過したのである。マッカーサーにしてみれば、クリスマス休暇を迎える前に重要な仕事を片付けて、将兵らをゆっくり休ませたかったはずだ。マッカーサーの悪意ある設定だとする議論は一種の陰謀論でしかない。
それよりジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』に、A級戦犯処刑の際、彼らがアメリカ軍の海難救助隊の服を着せられていたという記述があり、本書にも同様の指摘がある。これは真珠湾攻撃の責任者の処分を最優先しようとしたマッカーサーの悪趣味な意図からだったのかという疑問が湧くのである。よく知られているように、真珠湾では現在も沈没した戦艦アリゾナは海底に約1000体の兵員たちの遺骸とともに沈んでいるからだ。
終わりに
東京裁判否定派は、日本は一方的かつ不当に断罪されたという被害者意識が強いが、だからといって日本軍による中国や東南アジア諸国での残虐行為が免責されるわけではないことを忘れているようだ。周辺諸国からの非難を浴びながら靖国神社に参拝する政治家たちの大人気ない姿ひとつとっても、日本が国際社会から信頼されるには程遠いと言わざるをえない。
一方の肯定派も、東西冷戦、中ソ対立、冷戦終結後の国際社会の不安定化など、目まぐるしい国際情勢の変化についていけず、国際政治に対して十分な判断力をもつだけの成熟の機会を失ってきたように思われる。米中の軍事的緊張に対して日本には緊張緩和のための外交活動があってしかるべきであるが、そのような能力をもった政治勢力の登場は望むべくもない。
国際社会で信用される国になるためには、もう一度、東京裁判まで遡って戦後日本の来た道を振り返ることが求められているのだろう。
初出:「リベラル21」2024.10.01より許可を得て転載
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