シオニズムの本質 イスラエルの支配者たち
- 2024年 11月 10日
- 評論・紹介・意見
- 「原発通信」ユダヤ人問題鳥羽幹雄
2024年11月1日
はじめに
1. ロシア帝国のユダヤ人
2. 西ヨーロッパのユダヤ人
3. 修正シオニズムとアラブ社会
おわりに
はじめに
昨年10月7日に発生したハマスによるイスラエルに対する奇襲攻撃と大量の人質奪取作戦は、ネタ二エフ政権を激怒させガザを廃墟にしてしまいました。ハマスの作戦成功が見事に悪用され、多くのパレスチナ民間人が犠牲者となり、とりわけ子どもたちが受けた多大な犠牲は筆舌に尽くしがたく世界的な同情を集めました。しかも、イスラエル軍は、攻撃だけではなく兵糧攻めのようにガザを包囲し国際的な援助をすべて妨害しています。さらに軍用ブルドーザーで住宅街を更地にして、住民が帰還できないようにしています。
現在は、その惨劇をレバノンにまで拡大して、空爆から地上戦に突入しています。その光景はナチの「ゲットー包囲」やウクライナで行われた武装SS(ナチ親衛隊)が行ったユダヤ人村落の焼き払い放逐と二重写しに見えてしまいます。
イスラエルの極右政権は、ホロコーストやポグロムのような彼らの受難の歴史を繰り返し述べていますが、もし、アンネ・フランクがガザの惨状を目撃したら何と言うでしょうか。ユダヤ人孤児たちと一緒にトレブリンカ絶滅収容所へ向かったポーランドの孤児院園長で医師でもあった、「コルチャック先生」が、もしガザの子どもたちを見たら何と言うでしょうか。
この間の惨劇は、正当防衛の域を超えた戦争犯罪であると世界的に言われ始めていますが、そうした批判も一切無視して公然とパレスチナ人に戦争犯罪を繰り返している、ネタ二エフ政権のリクード党および極右宗教政党は、どのような歴史的な出自を持ったユダヤ人たちなのかを知ることが本拙稿の動機でした。
ユダヤ人と言えば日本では、シェイクスピアの『ベニスの商人』やナチのユダヤ人迫害などで西ヨーロッパのユダヤ人のことがよく知られていますが、今回の無慈悲な蛮行を行うユダヤ人とはどうも異質であると直感的に感じていたのですが、鶴見太郎東大准教授の研究によれば「ロシア・シオニズム」の中にその凶暴性が秘められていると指摘しています。そこで、彼の研究を参考にロシアのユダヤ人と西ヨーロッパのユダヤ人の違いを検討し「シオニズム」とは何かを考えてみようと思います。
1. ロシア帝国のユダヤ人
ベンヤミン・ネタニエフ首相の属するリクード党の前身である「修正シオニズム」と呼ばれる強硬派であった「修正主義同盟」は、ソ連時代以降にもパレスチナへ向かわずにポーランド以西に存在していました。この創設者は、ウラジミール・エフゲニーヴィッチ・ジャポテンスキーであり、彼は、オデッサで青年時代を過ごしたのですが、同地には1歳違いのユダヤ人でボルシェビキの指導者レオン・トロツキーもいたのでした。つまり、両者は同じ社会的環境下で青年時代を過ごしたことになります。
もし、「ユダヤ人の行動原理を見定める際に、それをユダヤ人の特質によるものではなく、ロシア帝国が持っていた規範と磁場がそうした行動を促進したと見るのが社会学的視角である」1とすれば、ジャポテンスキーを祖とするリクード党のガザでの蛮行は、ボリシェヴィキ軍事人民委員であったトロツキーによる、クロンシュタットの反乱鎮圧時の人質ともども殺害したことや、タンボフ県の農民反乱に毒ガス攻撃を行って制圧したことなど、その残忍性に類似性が見いだせます。つまり、現在のリクード党を中心としたシオニズムを考える時には、帝政ロシアから広まったシオニズムとは如何なるものであるかを知る必要があります。
19世紀から20世紀にかけての時代において、世界のユダヤ人のおよそ半数の519万人がロシア帝国に暮らしていました2。しかも、ロシア帝国の場合多くのユダヤ人は生涯ユダヤ社会で生活しユダヤ人に対する否定的な態度からは隔絶されていました3。それに反して西ヨーロッパのユダヤ人は同化が進んでいたのですが、そのことが、ロシアにおいてシオニズムが生まれた理由の一つでした。
シオニズムとは、1890年にウィーンのジャーナリスト、N・ビルンバウムが自身の編集する新聞『自己解放』に初めて出てきた言葉ですが、ユダヤ人のアイデンティティを確認する運動の呼称であって宗教的なものではなくかつ、「ポグロム」のような迫害を避ける目的のものでもなかったのです。強いて当時の状況で表現するとユダヤ人の「ナショナリズム」運動のひとつとして考えられるものでした。
「糾弾したのは、ユダヤ人がホームレスであることであり、そこに我々は世界中のユダヤ人の悲劇的状況の主因を見ていたのである」4との発言をロシアの第一ドーマ(国会)議員シュマルヤフ・レヴィ議員がしていたのですが、其の解決の方策のためには、「たとえ非常に小さいものでも単にユダヤ人国家が存在しているという事実、があれば、世界のなかで他のネーションと同等の価値を持つネーションとしての尊敬を得るには十分なのである」5と。
つまり、この発言から読み解くと、当初のシオニズムは、「国民国家」を目指した運動ではなく、国家のアリバイをパレスチナでつくって、ロシア帝国の中でユダヤ人の立場を敬意あるものにすることが目的であったのです。そして、それは、今日言われているような単純に反ユダヤ主義に対抗するものでもありませんでした6。
このように「シオンの丘」にちなんで「シオニズム」と呼ばれたこの運動は、当初世俗的なものでした。伝統的なユダヤ教によればパレスチナの外に四散した状態(ディアポラ)は神の意志による追放であって、それはいつの日にかメシア(救世主)が降臨して解かれるとされ、人間が勝手に追放に「終止符」を打つことはそもそも禁じられています7。そのために、当初パレスチナへの入植活動を行っていたのは、「労働シオニズム」と言われた社会主義系の団体が先導していました。
1882年ごろから開始された入植は、「アリヤー」(上昇)と呼ばれ、建国までに6回あったとされています。その第二次アリヤーの移民は多くが社会主義系の「労働シオニズム」であったために、共産主義的な共同体「キブツ」をつくり、後のイスラエル建国の基礎を形成しました。この「労働シオニズム」の流れがイスラエル労働党となり、1977年にリクード党に政権を明け渡すまでイスラエルの政治を支配していました。
このようにシオニズムの最大のライバルは、「労働シオニズム」と言われていた社会主義グループであり、とりわけ「ブント」と言われた「全リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟」でした。
シオニズムとブントは互いに「ユダヤ人のナショナリズム運動」という共通性を持っていましたが、最大の違いは領土でした。ブントは不要であり、シオニズムは必須でした。しかしこの場合の領土も当初のロシア・シオニズムでは、国民国家の建設ではなく、パレスチナに小さくとも国があれば、ホームレスではなく国民となり、ロシアで、「民族」としてではなく「他国民」として尊重され認知されることをめざす、あくまで「ナショナル・アイデンティティーの運動」がその主流であったのです8。
ところが、1917年のロシア革命そして続く内戦を経て、シオニストの多くが、ロシア共産党ユダヤ部局、通称「イェフセクィア」と「チェーカー」から「反革命分子」として弾圧され、他方、白軍からもボルシェビキの協力者としてユダヤ人が彼らの占領地区で虐殺されたのでした。同時にウクライナを中心に地域住民による「ポグロム」が再発し、ロシア全土で、暴力の嵐の中を「シオニスト」たちは突き進むことになります。しかし、内戦期を通じてユダヤ人に対して組織的テロを行わなかった唯一の武装集団は「赤軍」でした。そこに彼らを「味方」と考える余地があったようです9。
そうした政治的状況下で、その主流派であったシオニズムに異を唱えたのが、トロツキーと同じオデッサ出身のジャボチンスキーでした。彼は、領土の最大化をめざし、ヨルダン川の両岸にユダヤ人が多数派となるユダヤ人国家の建設を第一の政治目標にしました。そのためにはあらゆる政治的軍事的能力を発揮して実力で勝ち取ることを宣言し、1925年に世界シオニスト会議で、修正主義シオニスト同盟を結成しました。これが現在のイスラエル政府の与党リクード党の源流となります。彼は、後に強硬姿勢ゆえに初代イスラエル首相ベングリオン(労働党)から「ウラジミール・ヒトラー」と呼ばれたことがあったそうです10。
ソ連時代にはシオニズムが禁止されユダヤ人の多いポーランドへと拠点を移していくのです。同時期に高まっていたポーランドの暴力の文化やナショナリズムの影響をうけてジャボチンスキーらの修正シオニズムもより先鋭化していくのです11。
2. 西ヨーロッパのユダヤ人
西ヨーロッパのユダヤ人で最も有名なのは、シェイクスピアの『ベニスの商人』に出てくるシャイロックでしょう。シェイクスピアの大家、中野好夫によるとこの小説には原作があり、それは「マルタ島のユダヤ人」と題する悲劇だそうです12。この戯曲はイタリアでユダヤ人がすでに「あくどい商売」をしていたことをしめすものですが、当時の英国では、1290年にエドワード1世によってユダヤ人は国外追放の身となっていたので、1500年頃の英国にはユダヤ人が居ないことになっています。したがって、極悪人で嘲笑の対象のように描かれていますが、しかしこの作品の上演におけるシャイロックの演技は、時代と共に変化がみられているとも中野は指摘します。
つまり、1657年に清教徒革命の指導者クロムウェルの息子オリバーが追放令を解除して376年ぶりにユダヤ人が戻って来て、ロンドンの金融を支配するとシャイロックも極悪人から感傷的なシャイロック解釈に変化して登場するのです。このように西ヨーロッパのユダヤ人は、常に金権的であり強欲でありと言われるように、富を一手に牛耳る力を持った民族として見られていました。ベネチアでは、金融業と貿易で栄えとりわけ最初の銀行家と言われるメディチ家はユダヤ人でした。他にもドイツのフッカー家などヨーロッパの社会はもとより文化芸術に至るまで多大な貢献をなしルネサンスも彼らの財力によるとされています。
同じユダヤ人でも西ヨーロッパのユダヤ人はロシアのユダヤ人と違って、その財力で「同化」することに成功していていたのです。例えば、ローマ法王の後継者選びを「コンクラーベ」と言いますが、集まった枢機卿が缶詰になって新法王を選出するのですが、そこには多くのユダヤ金融家の資金が投入されていたようです。その結果、「免罪符」という資金調達方法まで考案させたユダヤ金融は、金の力でカトリック教会を堕落させ、マルチン・ルターの登場と共に宗教改革に直面しそこから宗教戦争へと進んでいくのです。
ルネッサンス期以降、ヨーロッパではユダヤ人の金融経済を抜きには社会が回っていかなくなります。近代にはいると、その中心にいたのが、フランクフルトのロスチャイルド家でした。初代のアムシェルの息子たちがそれぞれ、ロンドンやパリなど世界の主要都市にわたり金融の世界的ネットワーク網をつくり上げたとさています。近代資本主義経済とは、ユダヤ人がつくり上げたと言っても過言ではないでしょう。
それは、カール・マルクスが『ユダヤ人問題』のなかで執拗に「ユダヤ人のあくどい商売」13との表現で述べていることでもあります。それに対してマックスウェーバーは、『プロテスタンティズムの精神』の中で、宗教的精神が資本主義になければならないと「皮肉」ともとれる評論をしています。
ナショナリズムの勃興とともにドイツ語圏であるオーストリー・ハンガリー帝国でテオドール・ヘルツルが、1896年に「ユダヤ人国家」を出版し、彼はこの出版で「シオニズムの父」と呼ばれています。これは、1893年に反ユダヤ主義で有名なカール・ルエーガーがウィーン市長になったことに衝撃を受けて出されたものでした。しかし、多くの西ヨーロッパのユダヤ人は、同化が進んでいたので反応は鈍かったようですが、この当時の問題は、ウクライナで起きていたポグロムから避難して来るユダヤ人移民の流入が社会問題となっていたのです。
そうした中で、西ヨーロッパでユダヤ人が生き延びてきた知恵は、ハンナ・アーレントが指摘しているように「政治に関与しない」ことでした14。しかし、この表現は、逆に言えば経済的な下部構造を支配していることの証でもあり、英国女王(国王)が「君臨すれど統治せず」と言った上からの言葉とは逆に下からのバージョンとしての「経済に君臨すれど統治せず」と言うことでしょう。しかも、19世紀以降になるとアメリカへの移住が圧倒的となり第一次世界大戦までの時期にアメリカに渡ったユダヤ人は206万人にも上り15、アメリカの経済をウォール街を拠点に支配していくのです。まさに世界経済をその支配下に置く勢いであったのです。
そこに登場したのがドイツのヒトラー政権でした。ナチ(国民社会主義)の反ユダヤ主義は、巷間言われているような「弱い者いじめ」として出発したのではなく、経済の不公正や自由競争の暴力性、そして富の偏在に対する庶民の怒りから生じたものであり、それが彼らの党名にもなっている、ナショナリズム(Nationalismus )と社会主義(Sozialismus)
の合体としてのナチ(Nazi・国民社会主義)なのです。彼らの蛮行は決して許されないのですが、西ヨーロッパにおいてユダヤ人がどのような位置にあり、社会的影響を及ぼしてきたのかを正確に認識しておかなければ、現在ドイツで躍進しているAfdのような「ネオナチ・ネオファシズム」に足をすくわれることになります。
3. 修正シオニズムとアラブ社会
修正シオニズムは、ヨーロッパで台頭してきたファシズム運動を当初歓迎していたのです。特に「国民的メシアン主義」と言われる、宗教シオニズムのアバ・アヒメールは、驚くべきことに、ムッソリーニに魅了されていたのです。
彼に言わせると「社会主義と共産主義は『過剰文明化』されたイデオロギーとして描かれ、一方、ファシズムは、シオニズムのように国民文化と歴史的過去のルーツへの回帰」とみていました。1932年にその過激な発言をヘブライ大学で行ったことで、裁判にかけられるのですが、そのときの彼の弁護士は、ドイツのナチについて、「ヒトラーの反ユダヤ主義がなければ彼のイデオロギーに反対しなかった。ヒトラーはドイツを救った」と述べています。そして、彼らの機関紙では、1933年ヒトラーが政権に就いたとき、ナチはドイツの民族解放運動と称賛し、ヒトラーがドイツをボルシェビキから救ったと、したのですが、さすがにジャボチンスキーは、そのようなことを繰り返した場合には追放されると脅迫したのでした。
ここで、修正シオニズムの理論的指導者であったジャボチンスキーの主張を知りたいのですが、数ある日本の書籍ではズバリ彼の主張が出ているとされる『鉄の壁について』(1924年)をまったく取り上げていませんので、ロシア語のウィキペディア(Викитека)原文16から翻訳したものを以下に部分的ですが、紹介します17。
「アラブ人に対する私の感情的態度は、他のすべての国と同じである。政治的態度は、2つの原則によって定義される。第一に、いかなる形であれ、パレスチナのアラブ人を追い出すことは絶対に不可能だと考えている。第二に、私はヘルシンキ・プログラムを策定したグループに属していることを誇りに思っている」との文章から始まり、ヘルシンキ・プログラムとは、イスラエル建国のプログラムのことです。そして、「読者なら誰でも、他国の植民地化の歴史について一般的な知識を持っているだろう。そして、そのリストに目を通した後、原住民の同意を得て植民地化が行われた事例を、少なくとも1つ見つけてみてほしい。そのような例はない。文化人であろうと無文化人であろうと、原住民は常に植民者と頑強に戦ってきた。植民者の手口は、原住民の彼に対する態度に何の影響も及ぼさなかった」として、「文明人であろうと野蛮人であろうと、すべての原住民は自分たちの国を自分たちの国家的な故郷とみなしており、そこでは自分たちが完全な主人であり、永遠に主人であり続けたいと願っている。これはアラブ人にも当てはまる。われわれの中にいる融和主義者たちは、アラブ人はわれわれの真の目的を『和らげた』表現にだまされる愚か者か、文化的・経済的利益のためにパレスチナにおける優位性をわれわれに譲り渡す堕落した部族のどちらかだと、われわれを説得しようとする。私は、パレスチナ・アラブ人に対するこのような見方を真っ向から拒否する。文化的には我々より500年遅れており、精神的には我々のような体力も意志力もない。」と続き、そして、「アラブ人がわれわれを排除したいという希望の火種を少しでも持っている限り、彼らは甘い言葉や栄養価の高いサンドイッチでその希望を売ることはないだろう。」と結論する。
それでは如何すればいいのかと言うと、「まさに彼らは暴徒ではなく、後進的ではあるが生きている民衆だからだ。生きている民衆が、このような巨大で致命的な問題で譲歩するのは、希望がなくなったとき、鉄の壁にもう抜け道が見えなくなったときだけである。そのとき初めて、『まさか』をスローガンとする極端なグループは魅力を失い、影響力は穏健派に移る。そのとき初めて、穏健派は相互譲歩の提案を持ってわれわれのもとにやってくる。」
つまりアラブ人を絶望させるしか方法はないといって言っています。ここに今のリクード党の中に連綿と続く無慈悲な蛮行を行う「凶暴性」が、このようにはるか以前から用意されていたのです。そうして、「そのとき初めて、彼らは、強制移住に対する保証、平等、民族のアイデンティティといった実際的な問題について、われわれと正直に交渉するようになる」とし、そして結論として、「そのような合意への唯一の道は、鉄の壁である。すなわち、アラブの影響力の及ばない力をパレスチナに強化することであり、まさにアラブが反対していることである。」と結ぶのです。
まさに現在のガザ地区の鉄壁を既に1924年の段階で主張していたことに驚きます。
修正シオニズムが見ていたアラブは、第一次世界大戦の終結とともにその地域の支配者であった「オスマン・トルコ帝国」の崩壊によって、事実上、国境のない空間になっていたため、あたかも新大陸アメリカのような未開の地として考えていたようです。そこで、彼らは、そこの先住民としてのパレスチナ人を一括してアラブ人と見立てて、ほかにいくらでもアラブの地はあるだろうと言うことで力によって追放し、パレスチナの地を開拓することが使命であると主張したのです。
しかし、この考えは、ユダヤ人自身が、ホームレスの状態であったがゆえにロシアで差別され抑圧され、「ポグロム」にあったことの裏返しであり、つまり、アラブ人は、とりわけ、パレスチナ人は、国を持たない「ホームレス」なのだから「絶望させて」排除しても構わないという理屈は、彼らが受けた理不尽な理屈とまったく同じものなのです。
しかし、この理屈がアラブ人に対する教育効果になるとの主張には、あ然とするほかありません18。苦難の歴史を負った民が、そのことが糧になって今があるのだからお前ら(パレスチナ人)もどこかほかの土地でやりなさい。と言う主張は仲間内では通じる議論ですが、政治問題や国際関係で考えるとあまりにも常軌を逸した考えと言わざるを得ません。
確かに、アラブではナショナリズムが台頭してはいたのですが、積極的に国民国家樹立へとは向かわずに、アフリカ同様、国境線が定規で引かれたような欧米の意思が働いた建国の歴史があります。
そして、21世紀になっても、アラブ世界は、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプト、サウジアラビア等などは国家の体裁は整えていますが、部族意識の高い集団が封建的な社会を維持しており、欧米的な国民(ナショナル)意識がないことに付け入って、アラブ人とか、先住民とかの括りで、パレスチナ人を見て、そして、その人たちも「ハマス」のテロ集団と同罪として暴力的に排除するやり方は、当然に許されない犯罪行為ですが、こうして彼らの思想的源泉を見ていくと、この暴論は、あまりにも古い考え方であり、彼らの根底にはすべての人に平等に人権はあると言う基本的なことが理解できていなことに気づかされます。恐ろしいことです。そして、その恐ろしさは、同じロシアのプーチンにも言えることなのです。
おわりに
現在のイスラエルの蛮行を推進しているシオニズムとは如何なるものかと言うのが、本拙稿のテーマでしたが、マルクスやローザやアインシュタインやハンナ・アーレントなど様々な優秀な人材を輩出してきたユダヤ人ですが、パレスチナ問題とりわけシオニズムとなると、どうしてこうも粗野で「凶暴な思想性」しか彼らは持ち合わせていないのかと愕然とさせられます。
それは、鶴見太郎東大准教授は言うように、ユダヤ人の特質とみるのではなく、ロシア帝国の規範や磁場が影響していた、と見るのが正しいようです。そこはむしろ、ロシア文学や帝政ロシアの歴史や社会文化から考察べきことなのかもしれません。
レーニンとボルシェビキが世界で最初に「社会主義革命」を成功させたことも、ロシア的な磁場の影響があったのでしょうし、彼らボルシェビキの無慈悲な赤色テロルは、プーチンにもモサドにも共通しています。レーニンが特異なマルクス主義者であることは、有名ですが、とりわけ他のヨーロッパのマルクス主義者と比べて、ほとんどと言っていいほどに人権感覚がないのが特徴です。これは、イデオロギーの問題というよりも、「生きた人間」と言うものが見えなくなり、「恐怖が唯一の解決策」であるという思考回路、に陥る何かがロシア社会には伝統的にあるとしか思えませんが、それが、ロシアの磁場なのかもしれません。
もしユダヤ人に言えるとしたら、西ヨーロッパのユダヤ人が政治に積極的ではなかったからアウシュビッツの悲劇に遭ったと非難する「修正シオニスト」と称する一部のユダヤ人に、「報復の連鎖」で犠牲者の魂は救われるのですかと問うべきではないでしょうか。憎しみの恩讐を超えたところに希望を見出すことが人間としての義務ではないでしょうか。
自らの使命をユダヤ教にもないものを設定し、それを新興宗教的に振りかざすのは、ユダヤ教にも違反することになるはずです。そして、民間人であるパレスチナ人に対して徹底した残酷な軍事的暴力を加えても、それをアラブ人への「教育」だと強弁したり、「文明人と野蛮人のテロリスト」との戦いと言ってのけて相手を自分と同じ人間であることを忘れさせるような洗脳教育を一部の狂信的リクード党員だけでなく国民的に行っているとしたら、それは、戦術的にいくら大勝利を収めても、イスラエルは最終的に政治的孤立を招くでしょう。
翻って、このロシア帝国そしてポーランドで生まれた「修正シオニズムの思想」は「遠い世界」の思想ではなく、日本の軍国主義が行った「満州国」の建国の思想(八紘一宇や五族協和)とも親和性があり、1960年代には、他党派をテロ殺害しても、それは「教育」だと強弁していた革命的共産主義者同盟革マル派などは、「修正シオニスト」と同様「生きた人間」を理解できない典型例でした。さらに最近の外国人排斥を叫ぶ極右集団まで、まさに、イスラエル軍の戦争犯罪を支えている思想は、我々の中にもあるのです。
【注】
1鶴見太郎 『ロシア・シオニズムの想像力』東京大学出版会 30頁
2 鶴見太郎 前掲書 58頁
3 鶴見太郎 前掲書 59頁
4鶴見太郎 前掲著 83頁
5鶴見太郎 前掲著 82頁
6 鶴見太郎 前掲書 16頁
7 鶴見太郎 前掲書 9頁
8 鶴見太郎 前掲書 286頁
9 鶴見太郎 前掲書 360頁
10鶴見太郎 前掲書 364頁
11 鶴見太郎『イスラエルの起源』講談社選書メチエ 261頁
12中野好夫『ヴェニスの商人』岩波文庫 205頁
13カール・マルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫 57、58頁
14ハンナ・アーレント『新版 全体主義の起源』1反ユダヤ主義 みすず書房 50頁以下
15鶴見太郎『ロシア・シオニズムの想像力』東京大学出版会 78頁
16 О железной стене автор Владимир Евгеньевич Жаботинский (1880—1940)
17 鶴見太郎 前掲書 36頁 本の紹介にとどまっています。
18 アヴィ・シャライムの2000年の著作『鉄の壁:イスラエルとアラブ世界』によれば、ジャボチンスキーの主張は、パレスチナ人のアラブ民族的アイデンティティーを認めていることを強調し、軍事介入がユダヤ人国家を実現する唯一の方法であった。と述べています。
2024年11月1日
【訂正差替え版】
「鉄の壁について」の紹介
鳥羽幹雄
2024年11月6日
蛮行の凶暴性を生み出した思想的に非常に重要な決定的文献
「シオニズムの本質」(本通信第2528号)の続編として、かつて修正シオニズムの指導者であった、ウラジミール・エフゲニーヴィッチ・ジャポティンスキー(1)(1880~1940)が1923年に出した「鉄の壁について」を全訳し紹介します。これは、現在のイスラエル政府与党リクード党の指導理論となっています。その意味で、現在ガザで連日イスラエル軍によって引き起こされている蛮行の凶暴性を生み出した思想的に非常に重要な決定的文献なのですが、残念ながら日本では部分的にしか紹介されていません。そこで、原書のロシア語から翻訳なので若干問題があると思いますが研究用の素材として提供します。ぜひご一読ください(2)。
「鉄の壁について」の紹介の前に若干この凶暴なシオニズムが生まれた背景を簡単におさらいすると、シオニズムの登場は「ロシア帝国」を中心とした「東欧」で生まれたユダヤ人のナショナリズム思想でしたが、それが、ウィーンのジャーナリスト、N・ビルンバウムのドイツ語新聞「自己解放」で、1890年に初めて世に出た用語でした。そして、ブタペスト出身のテオドール・ヘルツルが1896年に「ユダヤ人国家」を出版したことで、彼は、シオニズムの先駆者となりました。
シオニズムは、東欧、とりわけロシア帝国のユダヤ人が西欧のユダヤ人と違って生涯ユダヤ社会の中でのみ生活していたといった集住性(ゲットー)が背景にありました(3)。そこで生まれた初期のシオニズムは、パレスチナに小さくとも国家をつくって、自分たちが「国民」になること、ロシア帝国の中で「ホームレス」と言われないことをめざしたものでした。そして、重要なのは経済です。
ロシア帝国の経済は農業大国であって貴族と農奴の社会でした。そのためにユダヤ人の得意とする金融が未発達なために、周旋業や仲介業、商業、手工業に就くのですが、それが「農民の搾取者」といわれ「ポグロム」の引き金となり、さらに急速な上からの工業化が、彼らを不要にさせたこと、そして、負い打ちをかけたのが酒類販売の規制でした。これによって彼らの飲食店の営業も打撃を受けたのでした。つまり西欧に比べてロシア帝国では「経済の自由度が低かった」(封建的体制)ことが、ユダヤ人を貧困に追いやり、ポグロムをも引き起こしたのです。
こうしたなかで生まれたシオニズムは、大きく社会主義系と自由主義系へと別れることになります。社会主義系は「労働シオニズム」と言われ、早い段階でパレスチナに移住し共産主義的な「キブツ」(集団生活体)をつくり上げていきますが、自由主義系のシオニストは、ロシア帝国そしてポーランドに残り、ヨーロッパで「シオニズム運動=パレスチナでの建国」を強化することに尽力するのです。
そのなかでジャポティンスキーなどは、社会主義はユダヤ人を階級によって分裂させるとの理由から英国に積極的な支援を求めていきます。そこで、彼らに目を付けられたのが世界の金融王であったシティー(英国・ロンドン)の「ロスチャイルド」でした。その結果、1917年ロシア革命のときに出されたのが「バルファオ宣言」でした。この交渉をユダヤ人側の裏で主導したのはロシア帝国出身で英国海軍研究所の科学者ハイム・ワイツマンでした(4)。彼はイギリス・シオニスト連盟を代表として活躍し、英国の悲惨な財政状況に付け入った、ユダヤ人の資金提供が圧倒的に影響しました。その結果、「パレスチナにおけるユダヤ民族の民族自決国家樹立を好意的に見ている」とした「宣言」に対して、英国政府は、英国ユダヤ人の非公式な指導者であったウォルター・ロスチャイルド卿に「この目的の達成を促進するために最善を尽くす」ことを特別に約束したのです。
ロンドンで発表されたこの「バルファオ宣言」は、20世紀の重要文書のひとつであり、その余波は今日に至るまで続いています(5)。その内容が重要なのは、ロシア帝国とりわけ東欧の貧しいユダヤ人を欧米の豊かなユダヤ人がパレスチナでの建国を支援するといったことで、救済していこうとするものであり、それは同時に、アラブ人との抗争においてユダヤ人側を一方的に支援するものだったからです。そして、この英国との連帯関係は、より強固となって今日ではアメリカに引き継がれています。
しかも、この宣言は、「ポグロム」はあったものの「アウシュビッツ」のはるか以前でした。つまり、英国の支援は、イスラエル建国の出発点においては、後年言われているようなホロコーストに対する欧米の贖罪などではなく、「英国への財政支援」が目的であったのです。そして、第一次世界大戦で中央同盟(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、トルコ帝国)が敗北し、トルコ帝国の支配が崩壊した後、予定通りに1920年にパレスチナは英国の委任統治領となりました。そして1923年に、今回紹介する「鉄の壁について」が公表されたのです。
そこで、「鉄の壁について」の内容紹介をしてみましょう。
前回、本通信(第2528号)で述べた段階では、日本では、ジャポティンスキーの「鉄の壁について」があまり取り上げていないと述べたのですが、その後、森まり子跡見大学准教授が東京大学大学院修士論文として提出した学位論文「シオニズム修正主義における民族と国家 ウラジミール・ジャポティンスキーの思想的軌跡を中心に」が、講談社選書メチエから別の表題で2008年に出版されていましたが、現在入手が困難なのが残念です。この本の冒頭には、以下のように「鉄の壁について」が紹介されています。
「イスラエルの右派政党リクードのアリエル・シャロン首相(当時)が、ヨルダン川西岸にパレスチナ人自爆テロリストの侵入を防ぐ分離壁を建設したことは記憶に新しい。全長約67キロメートルに及ぶことが計画されているこの分離壁は、西岸深くくい込んでパレスチナ人の日常生活を麻痺させ、国際的な非難を浴びてきた。
この分離壁はシャロン個人の政策と言う側面を超えて、イスラエルの右派のアラブ問題に対するイデオロギー的立場を象徴的に示していた。約80年前、シオニズム右派の修正主義シオニズム運動の創始者ウラジミール・ゼエヴ・ジャポティンスキー(イディッシュ語・ヘブライ語)は「鉄の壁について」と題する論文の中で、パレスチナのアラブ人のシオニズムへの反対を粉砕するには彼らが破壊出来ないような「鉄の壁」、つまりユダヤ人軍事力を打ち立てねばならないと説いてきたからです」(6)。
しかし、疑問なのは、ジャボティンスキーの修正シオニズムは、彼が存命中には少数派であり、主流派はあくまで社会主義系シオニズムの労働シオニズムであり、イスラエル労働党だったのですが、何故、今日において復活して多数派となったのかと言うことです。
この点について、森准教授によれば次のようになります。
アラブ連合国を電撃的に敗北させた、「1967年戦争(7)はソ連(当時)のユダヤ人にとって大きな好機であった。大イスラエル主義(ヨルダン川の両岸)の勃興をもたらしたイスラエルの勝利は、ソ連のユダヤ人の間にも民族意識を覚醒させてイスラエルへの移住の波を引き起こす。移住先でリクードを支持した彼らは、実は移住前からジャボティンスキーと修正シオニズムに深いかかわりを持っていた。かつて修正主義の牙城であったラトビアのリガでは、1960年代初頭に地下出版でジャボティンスキーの著作の幾つかが出回り、ここから彼の著作がソ連各地の多数のユダヤ人活動家の手に渡ったのである。〈中略〉イスラエル占領地区への入植者として後のインティファーダ(8)とも無縁ではないソ連系移民の背後には、急進的なユダヤ人ナショナリズムとしてソ連で再生したジャボティンスキーの思想の生命力があったのである」(9)としています。
そして、森まり子准教授は日本人にわかりやすいように吉田松陰に合わせて論じます。
「明治維新を見ることなく刑死した幕末の吉田松陰のように、ジャボティンスキーその人も悲願であったユダヤ人国家樹立を見ることはなかった。しかし松陰の思想が、死してなお維新の元勲の精神に生き続けたように、ジャボティンスキーが生前に蒔いた「種」は建国後のイスラエルで紆余曲折を経て右派政党リクードという形で結実する。極右の中心的部分は、中略、多岐にわたる彼の思想の中での急進的な部分を宗教シオニズムと融合させながら暗殺やテロリズムを正当化するに至った集団として彼らを位置づけることができよう。」(10)
「相手の抵抗」など気にせずに「絶望させること」
現在のイスラエル政府は、「ハマス」も「ヒズボラ」もその指導者を殺害しておいて話し合いの場など自ら断っておきながら、ひたすらに「テロリスト」を殲滅すると息巻いているのは、もはや尋常な政治的判断とは言えず、イスラエルの目指す占領地区からパレスチナ人を一掃していることに他なりません。それは、紛争とか対テロ戦などではなく、ジェノサイドであり、民間人に対する明確な戦争犯罪といえます。
それに対して、マスコミを含めて、識者たちは、ガザでの蛮行をその現象面だけ報道し論評していますが、本質的なことは、現在のイスラエル・シオニストが繰り返し薫陶を受けているパレスチナ人の人権を無視した「野蛮な思想の内容」を知ることであり、この内容は、我々にも、対岸の火事として見るのではなく、この蛮行をもって我々自身が反省し決意すべき指針が提供されていることを知るべきなのです。
その意味で我々が学ぶべきこととして、「野蛮な戦争犯罪」が正当化される理由に関して非常に明確にジャボティンスキーは「鉄の壁について」のなかで述べています。
それは、「相手の抵抗」など気にせずに「絶望させること」に尽きると、それでこそ我々の目的が達成できると述べています。そして、ジャボティンスキーは、最後に「将来の合意の唯一の道は、現在の合意の試みをすべて拒否することである」と、まさに「屈服した相手」としか合意の道はないと「正直」に述べています。
この相手を一人残さず「恐怖させ、絶望させ、諦めさせる」「屈服させる」(11)とは、核兵器の「抑止力思想」にもつながります。ノーベル平和賞を受賞した日本の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が批判した石破首相の「核共有」も結局は、こうした「野蛮な思想(12)」に与するものであり、平和憲法を持つ国民としては許されない態度であります。そうした思いをもって、この「鉄の壁について」を読んでみてください。
【注】
(1)名前の表記が日本では、ジャポティンスキーとジャポチンスキーと2つあり、しかも、イディッシュ語・ヘブライ語だとゼエヴ(ゼーヴ)、ロシア語だとウラジミールとなっていますので、とりあえず鶴見太郎氏の用いているジャポティンスキーにしています。ご了承ください。
(2)鉄の壁について (Jabotinsky) – Wikisource
(3)鶴見太郎 「イスラエルの起源」講談社選書メチエ 68頁 「『ゲットー』とは、狭義の意味ではユダヤ人差別の象徴として知られている。ただし、広義では、ユダヤ人集住地域と言う程度の意味で用いられていることも多く」としています。
(4)ジャポティンスキーは、シオニズムの目的と並行する利益を持つのはイギリス政府との結論からイギリス在郷軍人会の設立のために働くようになり、1915年ワイツマンと共にロンドンに定住し、ロイド・ジョージハット首相とも会っています。そして彼の軍事主義から同年にイギリス軍に入隊しています。ゼーブ・ジャボチンスキー – Wikipediaより。
(5)Jonathan Schneer 「The Balfour Declaration」Random House に詳しい。ジョナサン・シュニアーは、米国の近代イギリス研究学者、彼によれば、当時パレスチナはシオニストとアラブ人が争っていましたが、両者の戦いに、戦争はそれ自体が変数として作用しました。彼によれば、英国人にとって「シオニズムへの単なる同情と積極的な支援の違いを生み出したのは、オスマン帝国が第一次世界大戦に参戦したことだったのです。」(131頁)他方、リベラリストであったルシアン・ウォルフ(英国ユダヤ人合同外交委員会委員長)は「パレスチナのユダヤ人に、その国の他の住民には与えられない特権を与えると言う提案」には強く反対したこと、(307頁)そして、そうした延長の結果、「パレスチナでは、市民権や宗教上の障害に基づく最も中世的な種類のユダヤ人国家が生まれるでしょう。その結果、その国家は存続できず、ユダヤ教に永続的な汚名をもたらすでしょう」(150頁)との発言をも紹介しています。
(6)森まり子 「シオニズムとアラブ ジャボティンスキーとイスラエル右派 1980~2005」講談社選書メチエ電子書籍版 13頁
(7)高橋和夫「パレスチナ問題の展開」放送大学叢書64頁 1967年の俗にいう「6日間戦争」のことですが、これには裏があり、「ネットフリック」でも紹介されているモサド(イスラエル政府情報機関)のスパイ、エリー・コーエンがシリア政府の高官と賄賂で繋がり、もたらされた詳細な情報によって戦争以前に勝負があった戦争でした。コーエン自身は、その後、公開処刑されています。
(8)高橋和夫 前掲書 160頁 「このアラビア語が国際政治の基本用語になったのは1987年以降のことである。」「この抵抗運動が非武装であったためにイスラエルはその鎮圧に手を焼いた。」「最初の一年でだけでパレスチナ人2万人が逮捕され、300人が死亡し、低く見積もっても3.500人以上が負傷した。」ソ連系ユダヤ人入植者が引き起こしたとされています。
(9)森まり子 前掲書 619頁
(10)森まり子 前掲書 628頁
(11)ポーランド出身のユダヤ人ボリシェヴィキのジェルジンスキーは、初代チェーカー長官として「我々が敵を殺すとき、彼が悪人だからではまったくなく、他の人々に恐怖を与えるため、我々はテロルと言う武器を行使する」と述べていたのです。現在のイスラエル軍と全く共通しています。S・Pメリグーノフ著 「ソビエト=ロシアにおける赤色テロル 1918~23」社会評論社
(12)結局は、核兵器を含めた武器や兵器の抑止論は、強い者が弱い者に対する関係でしか成り立たないものであり、その逆の関係は悲惨な戦争や経済封鎖でしかないのですから、問題は、紛争原因の政治的解決の道を探すことが重要なのです。
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鉄の壁について
Ожелезной стене
1923年
ウラジーミル・エフゲニーヴィッチ・ジャポティンスキー(1880-1940)著
автор Владимир Евгеньевич Жаботинский
翻訳責任 鳥羽幹雄
記事の冒頭で本題に入るというよいルールに反して、私はこの記事を序文、それも個人的なものから始めなければならない。この行の筆者はアラブの敵であり、移籍の支持者などとみなされている。そんなことはない。アラブ人に対する私の感情的態度は、他のすべての国と同じである。政治的態度は、2つの原則によって定義される。第一に、いかなる形であれ、パレスチナのアラブ人を追い出すことは絶対に不可能だと考えている。第二に、私はヘルシンキ・プログラムを策定したグループに属していることを誇りに思っている。私たちはこのプログラムをユダヤ人だけのために策定したのではなく、すべての民族のために策定した。その根底にあるのは民族の平等である。他のすべての人々と同様、私は我々と我々の子孫のために、この平等を決して侵さないこと、この平等を奪おうとしたり抑圧しようとしたりしないことを誓う用意がある。クレド(信条・信念)は、読者にもわかるように、極めて平和的である。しかし、まったく別の次元では、平和的なデザインが平和的な手段によって達成できるかどうかという問題がある。それは、われわれのアラブ人に対する態度によるのではなく、もっぱらアラブ人のシオニズムに対する態度によるのである。前置きしが長くなったが、本題に入ろう。
I
パレスチナ・アラブ人とわれわれとの自発的な和解は、現在も予見可能な将来も問題外である。私がこのような厳しい形でこの信念を表明するのは、善良な人々を動揺させるのが好きだからではなく、単に彼らが動揺しないからである。盲人を除くすべての善良な人々は、パレスチナをアラブの国からユダヤ人が多数を占める国に変えることに、パレスチナのアラブ人の自発的な同意を得ることがまったく不可能であることを、とっくに自分自身で悟っている。読者なら誰でも、他国の植民地化の歴史について一般的な知識を持っているだろう。そして、そのリストに目を通した後、原住民の同意を得て植民地化が行われた事例を、少なくとも1つ見つけてみてほしい。そのような例はない。文化人であろうと無文化人であろうと、原住民は常に植民者と頑強に闘ってきた。植民者の手口は、原住民の彼に対する態度に何の影響も及ぼさなかった。コルテスやピサロの仲間、あるいはヨシュア(ユダヤ人指導者)の時代の祖先は、山賊のように振舞ったが、北アメリカ最初の真の開拓者であるイギリス人やスコットランド人の「よそ者の父」たちは、高い道徳的憐憫の情を持った人々であり、赤毛(異人種)だけでなく蝿をも怒らせたくないと考え、大草原には白人にも赤毛にも十分な場所があると心から信じていた。
しかし先住民は、悪しき植民者にも善良な植民者にも等しく獰猛に立ち向かった。その国に自由な土地が多いかどうかという問題は、まったく関係なかった。1921年当時、アメリカには34万人の赤色人種(異人種)がいたが、最盛期でさえ、ラブラドルからリオ・グランデまでの広大な土地には4分の3以上の赤色人種はいなかった。当時、外国人による原住民の実質的な「移動」の危険を真剣に予見できるほど強い想像力を持った人間は、世界中にいなかった。原住民が戦ったのは、意識的に、そして確実に移住を恐れたからではない。文明人であろうと野蛮人であろうと、すべての原住民は自分たちの国を自分たちの国家的な故郷とみなしており、そこでは自分たちが完全な主人であり、永遠に主人であり続けたいと願っている。これはアラブ人にも当てはまる。われわれの中にいる融和主義者たちは、アラブ人はわれわれの真の目的を「和らげた」表現にだまされる愚か者か、文化的・経済的利益のためにパレスチナにおける優位性をわれわれに譲り渡す堕落した部族のどちらかだと、われわれを説得しようとする。私は、パレスチナ・アラブ人に対するこのような見方を真っ向から拒否する。
文化的には我々より500年遅れており、精神的には我々のような体力も意志力もない。彼らは我々と同じように繊細な心理学者であり、何世紀にもわたる狡猾なピルプルの教育を正確に受けている。我々が彼らに何を伝えようと、彼らは我々が彼らの魂の深さを理解するのと同じように、我々の魂の深さを理解している。そして彼らは少なくとも、アステカ人がメキシコを、スー族が大草原を見なすのと同じように、本能的な愛情と有機的な嫉妬をもってパレスチナを見なす。ユダヤ人入植者が彼らにもたらす文化的あるいは物質的な快適さと引き換えに、彼らがシオニズムの実施に自発的に同意するだろうという幻想は、アラブ人に対する偏見に満ちた侮蔑や、アラブ人という人種を、鉄道網のためなら祖国を譲り渡す用意のある、賄賂で買収可能な、ならず者だという無差別的な概念からくる、子供じみた幻想である。そのような考えは何の根拠もない。個々のアラブ人はしばしば賄賂で買収されやすいと言われているが、パレスチナのアラブ人全体が、パプア人でさえ売らなかった熱狂的な愛国心を売ることができるということにはならない。どの国民も、植民地化の危機を取り除く希望がある限り、植民地化者と戦う。これこそパレスチナ・アラブ人がやっていることであり、希望の火種がある限りやり続けるだろう。
II
私たちの多くは、アラブ人は私たちを理解していない、だから私たちに反対しているのだ、と誤解している。これはすでに何度も証明されている間違いだ。数ある事例の中のひとつを思い出してほしい。年ほど前、パレスチナに滞在していたソコロフ氏は、まさにこの誤解について大演説を行った。もしアラブ人が、われわれが彼らの財産を取り上げたり、立ち退かせたり、抑圧したりすることを望んでいると考えているのなら、それはとんでもない誤解であり、われわれはユダヤ人政府さえ望んでいない。この演説に対して、アラブの新聞『カルメル』は社説で反論した。シオニストは無駄な心配をしている。ソコロフ氏は真実を語っているが、アラブ人はソコロフ氏がいなくても完全に理解している。もちろん、シオニストたちは今、アラブ人を追放することも、アラブ人を抑圧することも、ユダヤ人政府を樹立することも夢見ていない。もちろん、彼らが目下望んでいることはただ一つ、アラブ人が自分たちの移住を妨げないことである。シオニストは、パレスチナの経済力が許す限り、彼らが移住するのはその量だけだと断言している。結局のところ、それは真理であり、そうでなければ移民することなど考えられない。アラブ人編集者は、パレスチナの潜在的な経済力が非常に大きいこと、つまり、アラブ人を一人も移住させることなく、望むだけのユダヤ人を移住させることが可能であることを、進んで認める用意さえある。「それだけがシオニストの望みであり、それこそがアラブ人の望まないことなのだ。なぜなら、そうすればユダヤ人が多数派になり、ユダヤ人政府が樹立され、少数派アラブ人の運命はユダヤ人の善意にかかってくるからだ。少数派になるのは不都合なことだと、ユダヤ人自身が非常に雄弁に語っているユダヤ人は最大限の移民を望んでいる。アラブ人が望んでいないのはユダヤ人の移民である。アラブ人編集者のこの推論は非常に単純明快であるため、暗記すべきであり、アラブ問題についての今後の考察の基礎となるものである。植民地化の努力を説明するのに、ヘルツェレ派とサミュエル派のどちらの言葉を使うかは、まったく問題ではない。植民地化そのものが、それ自身の説明、すなわち、すべての健全なユダヤ人にとっても、すべての健全なアラブ人にとっても、唯一不可分の、理解しやすい説明を持っているのである。パレスチナ・アラブ人にとって、このゴールは受け入れがたいものであり、すべては物事の本質であり、この本質を変えることはできない。
III
それは、シオニズムに対する同意を、パレスチナのアラブ人からではなく、シリア、メソポタミア、ゲジャ、そしてほとんどエジプトを含む、その他のアラブ世界から得ることである。もしそれが可能だとしても、基本的な状況は変わらない。パレスチナ自体では、アラブ人の我々に対するムードは変わらないだろう。イタリアの統一は、とりわけトレントとトリエステがオーストリアの支配下に置かれることを代償として一度は実現したが、トレントとトリエステのイタリア系住民は、これに和解しなかったばかりか、それどころか、オーストリアに対して三倍もの勢いで戦い続けた。仮に、バグダッドやメッカのアラブ人にとってパレスチナが取るに足らない小さな周辺部に過ぎないと説得することが可能であったとしても(それは疑わしいが)、その場合でも、パレスチナはパレスチナ・アラブ人にとって周辺部ではなく、唯一の祖国であり、彼らの民族的存在の中心であり、支えであることに変わりはない。したがって、その時でさえも、植民地化はパレスチナ・アラブ人の同意に反して、つまり現在と同じ条件の下で実行されなければならない。
しかし、非パレスチナ・アラブ人との合意もまた、不可能な空想である。バグダッド、メッカ、ダマスカスのアラブ民族主義者たちが、パレスチナのアラブ的性格、すなわち「連邦」のまさに中心に位置し、それを二分する国を放棄するような重い代償を私たちに支払うことに同意するためには、私たちは彼らに極めて大きな等価物を提供しなければならない。明らかに、そのような等価物には、考えられる形が2つしかない。金銭か、政治的援助か、あるいはその両方である。しかし、そのどちらも提供することはできない。金銭に関しては、パレスチナに十分な資金がないのに、メソポタミアやゲジャスに資金を提供できると考えること自体が馬鹿げている。安価な労働力を持つこれらの国々は、我々がパレスチナのために資本を見つけるよりもずっと簡単に、市場で資本を見つけることができる。このような物質的支援に関する話はすべて、子供じみた自己欺瞞か、不謹慎な軽薄さである。そして、アラブ民族主義への政治的支援について真剣に語るのは、まったくもって不謹慎である。
アラブのナショナリズムは、1870年以前にイタリアのナショナリズムが目指したのと同じものを目指している。わかりやすく言えば、メソポタミアとエジプトからイギリスを追放し、シリアからフランスを追放し、おそらくチュニジア、アルジェリア、モロッコからも追放するということだ。われわれとしては、これに少しでも手を貸すことは、自殺行為であり反逆行為である。サンレモでのバルフォア宣言はフランスが署名したものだ。スエズ運河とペルシャ湾からイギリスを追い出し、植民地大国としてのフランスを完全に破壊しようとする政治的陰謀に加担することはできない。そのような二重の駆け引きは不可能であるばかりか、考えることさえできない。そのような方向に進む前に、我々は潰されるだろう――そして当然の恥辱とともに――。
結論は、パレスチナ人にも他のアラブ人にも、パレスチナに対する補償は提供できないということだ。したがって、自発的な合意は考えられない。従って、このような合意をシオニズムの必須条件とみなす人々は、今こそ「ノー」と言い、シオニズムを放棄することができる。われわれの植民地化は、中止するか、原住民の意思に反して継続しなければならない。したがって、先住民から独立した力、つまり先住民が破ることのできない鉄壁の保護のもとでしか、植民地化を継続・発展させることはできないのである。
これこそが、我々のアラブ政策のすべてである。「結論づけるべき」だけでなく、どんなに偽善的な言葉を並べようとも、実際に結論づけるのである。何のためのバルフォア宣言なのか。何のための委任統治なのか。私たちにとってこれらの宣言が意味するのは、外部の権力が、現地住民がどんなに望もうとも、私たちの植民地化を行政的にも物理的にも妨害できないような統治と保護の条件を、その国につくり出すことを引き受けたということである。そしてわれわれは皆、例外なく、この外部勢力がこの役割をしっかりと、甘えることなく果たすよう、日々奨励している。この点では、われわれの「軍国主義者」(1)と「菜食主義者」(2)の間に大きな違いはない。ユダヤ銃剣の壁を好む者もいれば、アイルランド銃剣の壁を好む者もいる。バグダッドとの協定を支持する者でも、バグダッド銃剣で満足する者もいる(味は奇妙で危険だ)。しかし同時に、われわれ自身は、なぜか合意宣言によってわれわれの大義を台無しにし、委任統治国に対して、鉄壁の問題ではなく、もっともっと話し合いが必要なのだと示唆している。この宣言はわれわれの大義を台無しにしている。したがって、この宣言の信用を失墜させ、その空想と不誠実さの両方を示すことは、喜びであると同時に義務でもある。
【訳注】
(1)はジャポティンスキーら修正シオニストのこと
(2)は正統ユダヤ教信者のこと
IV
この問題はまだ終わっていない。次回、この問題のいくつかの側面に立ち戻ることにしよう。しかし、ここでもう2つ簡単に述べておく必要があると思う。第一に、上記の視点は非倫理的であるという陳腐な非難に対して、私はこう答える。シオニズムが道徳的であるか、そうでないかである。これは、最初のシェケル(通貨)を手にする前に、私たち自身が決めるべき問題であり、私たちは前向きに決断した。そして、シオニズムが道徳的、すなわち正義的であるならば、誰が賛成しようが反対しようが、正義は遂行されなければならない。そして、A、B、Cが、自分たちに不利だからといって、正義の実現を力ずくで阻止しようとするならば、やはり力ずくで阻止しなければならない。これが倫理であり、それ以外の倫理は存在しない。
第二に、いずれもパレスチナ・アラブとの合意が不可能であることを意味しない。不可能なのは自発的な合意だけだ。アラブ人がわれわれを排除したいという希望の火種を少しでも持っている限り、彼らは甘い言葉や栄養価の高いサンドイッチでその希望を売ることはないだろう。まさに彼らは暴徒ではなく、後進的ではあるが生きている民衆だからだ。生きている民衆が、このような巨大で致命的な問題で譲歩するのは、希望がなくなったとき、鉄の壁にもう抜け道が見えなくなったときだけである。そのとき初めて、「まさか」をスローガンとする極端なグループは魅力を失い、影響力は穏健派に移る。そのとき初めて、穏健派は相互譲歩の提案を持ってわれわれのもとにやってくる。そのとき初めて、彼らは、強制移住に対する保証、平等、民族のアイデンティティといった実際的な問題について、われわれと正直に交渉するようになる。そしてそのとき、われわれは彼らをなだめるような保証を与えることができ、両民族は平和的に、まともに並んで暮らすことができるようになると、私は信じているし、そうなることを望んでいる。しかし、そのような合意への唯一の道は、鉄の壁である。すなわち、アラブの影響力の及ばない力をパレスチナに強化することであり、まさにアラブが反対していることである。言い換えれば、われわれにとって、将来の合意への唯一の道は、現在の合意の試みをすべて拒否することである。
*なお、本文中、ゴチックのところは訳者が付けました。
【訳注】
(1)『夜明け』第42/43号(79/80年)、1924年より転載
(2)ロシア語のサイトは以下です。
鉄の壁について (Jabotinsky) – Wikisource
初出:「原発通信」2528号、2024.11.01より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13951:241110〕
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