晩年、アイデンティティ、家族――『つがいをいきる』を読む
- 2024年 11月 16日
- 評論・紹介・意見
- つがいをいきる松井久子髭郁彦
小説『つがいをいきる』の中で、著者の松井久子氏は様々なテーマを語っている。恋愛、家族、晩年、アイデンティティ、ジェンダー、時代精神、民主主義、生命、死…。もちろん、こうした問題すべてをこのテクストの中で語ることはできない。ここでは『つがいをいきる』の主人公である多華子とマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の登場人物の一人であるスワンとの比較を通して、他者、アルテル・エゴ、対話という分析装置を中心に置きながら、前述したテーマの中で、晩年、アイデンティティ、家族という問題について語っていきたいと考えている。
しかしながら、この問題を考察していく前に、何故多華子とスワンとを比較するのかという点に関して述べる必要がある。それぞれの小説で大きな役割を担っている二人ではあるが、この二人はあまりにも異なる人生を送っている。時代背景も、生活している場所も、性別も性格も嗜好性もまったく異なっている。そうした二人を何故比較しようと思ったのか。
『つがいをいきる』を読みながら私はスワンの「Dire que j’ai gâché des années de ma vie, que j’ai voulu mourir, que j’ai eu mon plus grand amour, pour une femme qui ne me plaisait pas, qui n’était pas mon genre (私の人生の何年もの月日を無駄にしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一生の中で一番大きな恋愛をしてしまったなんて。私を喜ばせもせず、私の趣味にも合わない女のために)」という言葉が思い起こされ、その言葉を何度も心の中で呟いた。家庭を持ち、妻と娘と一緒にパリの高級住宅街に住む初老の典型的なブルジョワ紳士スワン。だが、彼が愛したオデットは高級娼婦であり、自分の高い知性にも、高尚な趣味にもまったく合わないことを知りながら彼女と結婚した彼。社交界の冷たい視線と嘲笑に耐えながらも一人娘のジルベルトと三人の幸福なブルジョワ家族を生涯演じ続けた彼。その彼が人生の終わりに思う言葉には滅びの美学があるように私には思われた。
それに対して、『つがいをいきる』の主人公の多華子は76歳、89歳の影山逸平と再婚したばかり。晩年に、長年続いた一人の生活を終わらせ、最愛の人に出会うことができた多華子。初老のカップルは逸平の一人娘和美とその夫と多摩川縁にある二世帯住宅に住むこととなる。だが、当初は父との結婚を勧めていた和美が多華子との同居を拒否し、父と娘はそれぞれの家庭を維持するために別居することとなる。この出来事を家族の崩壊と見做すことは容易であるが、そこには二人で生きることの幸福を見せかけの家族という形態よりも重視したという多華子と逸平の意志があったことを忘れてはならない。「我慢はしない。自らの頑固さも、自己満足も、否定せずに守り通す」という、さらには、「そして、お互いの胸のうちに、ベースとしてあるのは、相手の個性を重んじながら抱く、感謝の念だ」という多華子の言葉は、相互尊重によって二人の生活を第一として生きようとする多華子の生きるエネルギーが感じられる。
スワンと多華子という人生の晩年に差し掛かったということ以外に共通点のない二人は、先程述べたように、家族状況も、人生も、時代性も、国籍も、性格も異なる。二人の存在性は対極にあると断言することもできる。だが対極にあるからこそ、逆に私は、『つがいをいきる』を読みながら、スワンの言葉を思い浮かべたのではないだろうか。差異が大きければ大きい程、明らかにできるものが存在する。それゆえ、二人の生き方を比較することで上記した三つの問題が明確化できると私は考えたのである。
晩年とは何か
人間は誕生し、成長し、成熟し、老いて、死ぬ。人間は自らの人生に最初と最後があることを知っている。哲学者のヴラジミール・ジャンケレヴィッチはインタビュー集である『死とはなにか』の中で、「私は死を意識し、自分が死ぬことを知っているが、しかし、私はそれを信じないだけなのです。誰もが、人間が死すべき存在であることを知っていながら、自分が死ぬとは思わないのです」(原章二訳) と発言している。われわれは死が未来に待っていることを知りながらも、その死が自分にとってどんなものであるかを理解できず、目の前にある生を連続させている。
ジャンケレビッチは『死』において、「わたしはつねに、実際に、そして定義そのものによって、わたし自身の死より前にいる。“の間„ ましてや ‟のあと„ はわたしには頑として拒否されている。死は、われわれの全生涯の間未来形であろうということは、誕生が全生涯の間、始めから終わりまで過去のもの、そして既成のものでありおおすことになろうというのと同じことだ」(仲沢紀雄訳) と書いているが、人間はしばしば自らにとって未来形としかならない死を設定して、そこから人生の航路を見つめてしまう。
『つがいをいきる』の主人公である多華子の声を聞こう。「この人がこの世を去るときは、他の誰でもない、私の手で看取りたい」や「もし、逸平が仕事もできなくなって、寝たきりになるときがきたとしても、介護は家で、私自身の手でしたい。最期も、住み慣れた我が家で、迎えさせてあげたい」という言葉には新婚後間もない若い新婦ならば思うことが決してない老年の新婦の思いが如実に表されている。遠からぬ将来に訪れる伴侶の死、多華子はその未来に起こる衝撃的な出来事を覚悟しながら今を考えている。遠からぬ未来に訪れる愛する人との別離があることを知っているからこそ、彼女は現在の生を引き受け、二人であることの幸福を感じることができるのである。晩年が孤独であり、不幸なものであるという一般概念に捉われることのない多華子と逸平。彼らは二人であるからこそ晩年が悲劇ではないことを証明しようとしているように私には感じられる。
精神病理学者・心理学者のブノワ・ヴェルドンは『こころの成熟――老いの精神分析』において、「老いとは、まずもって穏やかならぬ特徴をもち、各人のなかで、外的現実や心的現実が強力にぶつかり合い問題化するきわめて主観的な経験なのだ」(堀川聡司、小倉拓也、阿部又一郎訳) と述べているが、われわれは自らの死というものが何かを知っていなくとも、それが一生の中の最後の重要なステージであり、そのステージを完全に演じ切らなければならないことを知っている。それが悲劇であろうと、喜劇であろうと。ハピーエンドへの道であろうと、崩壊への道であろうと。
スワンの一生はオデットに対する恋愛によって、取り返しのきかない悲劇となった。人生の終わり近くの回想場面で、スワンが心の中で呟く前述した言葉は、晩年であるからこそ重く、悲哀に彩られたものとなっている。家族が別れ別れになることもなく、スワンの社会的地位が失われた訳でもないが、スワンは自らの人生が不幸であったことを強く思う言葉。晩年に自らの人生が失敗であったことを悟ることは絶望的なものだ。それに対して、多華子には今ある幸福がたとえあと僅かの時間しか続かないものであったとしても、幸福を晩年に掴み取ったという事実がある。その意味は彼女にとって極めて大きなものなのである。
アイデンティティについて
アイデンティティは自己同一性と訳され、変わらない我 (エゴ) の形態を示す概念として語られることが多い。しかしながら、『カルチュラル・アイデンティティの諸問題』において、カルチュラル・スタディーズの研究者たちはアイデンティティとは不変的な概念ではなく、動態的な概念であることを強調している。スチュワート・ホールは今述べた論文集に掲載されている「誰がアイデンティティを必要とするか?」で、「(…) アイデンティティは、言説的実践がわれわれのために構築する主体の位置への暫定的接合点である (…)」(宇波彰訳) という指摘を行っている。アイデンティティは我がそうであるべきと願う主体の像であり、実体ではなく、変化し得るイマージュであるとホールは述べているのである。
スワンはオデットがココット (高級娼婦) であることを知った時に、何故彼女と別れなかったのか。それはスワンが幻想、あるいは、イマージュ空間を完全に捨て去り、現実を正しく見つめようとしなかったからではないだろうか。私が私であるためのイマージュ、それに固着し、自分のアイデンティティを不変と思い込み、そのアイデンティティと共に滅んでいく美学を優先した人生を彼が選んだからではないだろうか。スワンのアイデンティティに対する意識は多華子の意識とは根本的に異なっている。
多華子のアイデンティティに対する意識も逸平に会う前は、スワンの考えと近いものであった。「ほんとうにほしいもの、手にしたいものを、渇望しなくて済むように、大事なことには無意識のうちに、蓋をしているのかもしれない」という多華子の言葉には、自分が望むアイデンティティを壊すことを望まないエゴの自己防衛本能とでも呼び得る心理が語られているように思われる。そうした頑な心の核を守ることによって自己を維持し続けようと、スワンのように思ったならば、多華子は逸平に恋もせず、彼と結婚し、生活しようとも考えなかったであろう。彼女はアイデンティティが不変ではない側面を持つことを理解し、逸平と生きていくことを決意し、その実践を通して、自らのアイデンティティを確認しているのである。
E.H.エリクソン、J.M.エリクソン、H.G.キヴニックの共著である『老年期―生き生きしたかかわりあい』には、「ライフサイクルを振り返って、人は、アイデンティティとアイデンティティの混乱の間の緊張を、いくつかの連続する有利な地点から再吟味し、最善の場合、その結果として堅固な忠誠の感覚を得る。生涯に渡るアイデンティティの、このように発展し成熟しようとする特性もまた、時を経て、自分自身の中に起こった変化に注目するという結果をもたらす」という指摘がある。われわれは身体的な衰え、記憶力の低下、今迄送って来た人生への悔恨といった負の遺産をどのように抱え込み、それらを乗り越えて生きていき、最終到達点に向かうのか。生の道程の中で、われわれは変化を受け入れ、アイデンティティが動態的なものであることを受け入れるのである。そして、アイデンティティが自己完結するものなのではなく、他者との関係に基づき実現するものでもあることを了解するのである。『カルチュラル・アイデンティティの諸問題』に掲載された「トルコ / ヨーロッパ、干渉するアイデンティティ」において、ケヴィン・ロビンズは「自分が何者であるかを、あるいは自分が何を意味しているかを意識できるようになるのは、他者によってではないだろうか?」(松畑強訳) と述べ、さらに、「(…) アイデンティティとは関係を経験することで考えねばなるまい」と語っている。アイデンティティ形成にとっての他者の存在意義については、多華子の「歳をとって、誰かの邪魔になるのではなく、死ぬまで互いを必要とする、互いに必要とされる、二人でありたい」という発言を聞くべきである。自らの存在がある他者にとって掛け替えのないものとなり、その他者の存在も自らにとって掛け替えのないものとなる。この相互交換性が生きるエネルギーを失わせないアイデンティティを作るものなのではないだろうか。
家族を巡る問題
家族という最小のコミュニティーを最小基本単位として人間の社会が構成され、家族とは確固としたものであり、守り続けなければならないという臆見にわれわれは囚われているのではないか。スワンはまさにそうした幻想を持っていたと私には思われる。だが、多華子はそうした幻想よりも逸平と二人だけで築く生活の方が尊いものであることに気づく。二人の結婚を勧め、同居することになった逸平の娘の知美が多華子を怖いと言い、多華子が傍にいると過呼吸になると言ってきたのだ。何故そうなったのかははっきりとは判らない。しかしながらこのことが原因で、多華子と逸平は知美夫婦と別々に住むことを決める。
多華子には、お互いに自立し、自由でありながらも相互尊重している家族に見えた逸平の家族が実は様々な虚構に彩られた家族であったことが明らかになる。外部から見て仲の良い家族の実態は偽りのマスクをつけていたのだ。
スワンは生涯偽りのマスクをつけて過ごし、人生の最後の時期に自分自身の失敗した人生への悔恨の念を抱く。だが、多華子と逸平は欺瞞で固められた仲の良い家族の仮面を脱ぎ捨てる。「家族とは、やはり、それぞれの心の中にある、「虚構」なのではないか?」や「しかし、「家族仲良く」は、長年、人びとの心に根づいた、「思い込み」や「呪縛」に過ぎないのではないか (…)」という多華子の言葉は家族が絶対に守らなければならないものでも、確固とした共同体でもないことを的確に言い表している。今ある家族の形態を何があっても維持しなければならないものでないならば、よりよい形を求めて家族は変化し続けるべき、展開し続けるべき動態的な共同体である。多華子と逸平は因習的で、常識的な家族という形態を選ばずに、二人が望む新たな家族の形を選択する。
政治哲学者のスーザン・M・オーキンは『正義・ジェンダー・家族』で、「家族内での学習の特に重要な点は、他者の経験の共有や、自分たちとある部分では異なるが、ある部分では利益を共有している他者の視点に気づくことをとおして、正義の感覚を発達させることにある」(山根純佳、内藤準、久保田裕之訳) と書いているが、こうした家族内での各人の発展、あるいは、成長が見出されるのは、正義という点に関してだけではない。家族の形態が持続したり、変化したりすることによって、われわれは幸福も、責任も、共感も、規律性や合理性も創造性も、罪意識も愛情も発達させる。多華子は「私たちは「家族愛」という仮衣をまとって、たくさんの欺瞞に、見て見ぬフリをしてきた、と言えなくもない」と考える。そして、多華子と逸平は今まであった欺瞞の家族の形態を壊し、それを乗り越えることによって、二人だけで作る家族によって、幸福も、責任も、共感も、規律性や合理性も創造性も、罪意識も愛情も、その他様々な事柄を生ある限り発展させ続ける道を二人の意志としてはっきりと選んだのである。
二人であることの意味
ここまで、『つがいをいきる』で提示された晩年、アイデンティティ、家族という三つの問題に関する考察を行った。もちろん、この小説が提示している問題はこの三つだけではない。しかしながら、これ以上の考察を行うだけの能力も、余裕も今の私にはない。それゆえ、ここではこのテクストの最後に、多華子と逸平が選んだ二人で生きる事ことの意味について検討してみたい。
共同体の基本単位は一ではなく、二である。この当たり前のように思われる事柄をわれわれはしばしば忘れてしまう。哲学者のチャールズ・テイラーは近代的エゴの誕生の中心的要因として、デカルト以来続いている個人主義的合理主義に基づくアトミズムがある点を強調している。この思想は、自立し、理性に従い思考し、行動する個人が基礎単位となり、より大きな共同体を構築していくというものである。そこで問題となっているものは、個体としての主体のあり方だけであって、人間同士が繋がっていくという間主観的な関係 (relation intersubjective) は考慮されていない。テイラーはこの考え方の問題点を『〈ほんもの〉という倫理 ― 近代とその不安』の中で指摘し、「もし、わたしが何よりも価値をおくもののなかに、愛するひととの関わり合いのなかでしか経験できないものがあるとすれば、そのひとはわたしのアイデンティティにとって本質をなすことになるのです」(田中智彦訳) と述べている。他者との関係が我にとって大きな存在となる。アイデンティティがアトミズムに基づく我だけの構築物であるという神話をテイラーはこの本の中で完全に否定し、アイデンティとは他者と共に形成されるものであることを証明している。
しかし、如何なる他者が私のアイデンティティの形成に係るのか。ジャーナリストのクリスチャン・シャバニスの対話集である『死をめぐる対話』に掲載されている「伴侶の死」で、ジャバに巣の対話者である哲学者のフリアン・アマニスは、「(…) 愛とは存在であり、しかも最も強烈な存在であると思います。しかし、「それ以上の」何かです。欲求というものから愛を理解すべきでしょうね。人間は多くのものを必要とする存在ですが、とりわけ人間を必要とします」(足立和浩、吉田葉菜訳) と語っている。私のアイデンティティ形成にとって重要な他者は交換可能な他者Aや他者Bといった不特定多数の他者ではない。それは私が愛する他者である。小説の中で多華子は、「この人が、「死ぬとき」を迎えるまで、こういうことをしてあげたい、ああいうことを一緒にしたい……そんなことばかり考えては、「おひとりさまを卒業して、よかった」と思うのである」という言葉を述べている。特定の他者に尽くすこと、その人間と共に生きること、愛すること、愛されること。特別な他者がいることによって私という存在の存在理由も決定していく。そこにアイデンティティを問う意味があるのではないだろうか。
新たな我の構築、それは自らが自らであることを通して自らを超えていくことではないか。私は『つがいをいきる』を読み終えた時にこう感じた。こうした我の展開を考えるためには、アイデンティティという概念だけでは捉えきれない問題が存在している。私はここでメタモリフォーゼ (Metamorphose) という概念を提示したい。哲学者のエマヌエーレ・コッチャは『メタモルフォーゼの哲学』において、「メタモルフォーゼとは、あらゆる生きものが複数の形態へと同時的・継起的に広がってゆくことを可能にする力であるとともに、形態が相互に結びつき、ある形態から別の形態へと移行していくことを可能にする息吹でもある」(松葉類、宇佐美達朗訳) と語っている。メタモルフォーゼは一般的には「変身」、「変態」、「転生」といった意味に用いられ、ある存在が現にある形態から完全に異なる形態に変化することを示す語であるが、この語の意味カテゴリーにはアイデンティティの問題が含意されている。何故なら、私が形を変えても私でないならば、それはメタモルフォーゼではないからである。この視点を導入すれば、『つがいをいきる』という小説を他者との特別な関係を通したメタモルフォーゼの物語として捉えることができるのではないだろうか。よりよいものを求めること、他者との特別な関係を求めること。それによって変わっていくこと。それがメタモルフォーゼの一つの形ではないだろか。
この問題と共に『つがいをいきる』は幸福を求めるとは何かということを示した物語であると述べることもできる。上記した「伴侶の死」の中で、マリアスは「もし人間の人格を写し出すレントゲンみたいなものができたとすれば、本当に恋をしている男性もしくは女性の内部には、当人とは別の人間が発見されることでしょうね。相手が自分の一部になるのです」と語っている。多華子の一部に逸平が、逸平の一部に多華子がなっている。幸福なアルテル・エゴ構築。他者の分身となる我と我の分身となる他者。間主観性のレベルは多様である。だが、最も心地よいアルテル・エゴ構築によって形作られる間主観性は、愛する二人によって作り出されるものである。その幸運に恵まれた二人。「面倒なことを、面倒と思わず、前向きに楽しめる人、いくつになっても、「生き直し」のできる人は、健康で、生命力がある証しではないか」と多華子は思うが、その生命力の根源は二人が幸福なアルテル・エゴ構築を行うことができたからではないだろうか。たとえそれが晩年であっても、もうひとりの私を掴んだ二人には生きる力が溢れている。『つがいをいきる』は生きる力が幸福の条件であることを私に教えてくれた小説であるだけではなく、愛の力が年齢を超えることも教えてくれた。『つがいをいきる』を読み終わった時、この小説は生きることへの新たな可能性を明確に示してくれた愛の物語であると私は思ったのである。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 晩年、アイデンティティ、家族――『つがいをいきる』を読む
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13964:241116〕
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