「安全」抜きで原発再稼働?「『それでも原発は危険だ』と言い続けること」(森瀧市郎)
- 2012年 6月 5日
- 時代をみる
- 加藤哲郎原子力反原発
2012.6.1 政府は、どうやら関西電力大飯原発再稼働を強行する決意を固めたようです。先週、「全ての原発の終焉をめざして」の集会で、長く反原発運動を続けてこられた、たんぽぽ舎の皆さんや、経産省前で抗議のテント村を開き全国の反原発運動のネットワークを組織している皆さんにお会いしました。その「持続する意志(こころざし)」に、頭が下がります。日本の反原発運動は、何度も何度も、裏切られてきました。立地を狙われた地域で反対運動が盛り上がっても、政府や電力会社の「札束」の切り崩しにあい、弁護士や良心的科学者の支援を得て訴訟を起こしても、裁判所は「御用学者」の説を容れて「国策」を擁護し、チェルノブイリ事故後「広瀬隆現象」とよばれるまでに「安全神話」に肉薄しても、「左」の学者や政党から「反科学」と診断されて勢いをそらされ、その間に幾度も幾度も事故があったのに、原子力村はエネルギー不足や料金値上げや地球温暖化まで口実にして、情報隠蔽・ウソ・札束作戦を繰り返し、学校教育やタレントを使って「安全神話」を補強し、いつのまにやら世界でも第3位の原発大国になっていました。「安全神話」は、なぜかくも厚化粧して、2011年3月11日「フクシマ」を迎えたのでしょうか。再稼働で脱原発をあきらめ、日常に戻るのでは、また元の木阿弥です。「核と人類は共存できない」と生涯を反核に捧げたヒバクシャ森瀧市郎は、四国電力伊方原発訴訟で理を尽くして原告側が論証した「危険」が、松山地裁の「安全判決」で退けられ、米国スリーマイル島事故でおそれていた「危険」が現実のものとなった時、「伊方の人たちは『それでも原発は危険だ』と言い続けるだろう」と日記に記しました。そしてまた、ガンジーから学んだ「座り込み」という抗議行動を続けました。
日本の原発導入史と平行して、反原爆・反原発運動史を見直している過程で、素朴に疑問を持ったことがあります。日本の「原子力の平和利用」は、もともと武谷三男らが言い出し、日本学術会議で長時間討議され、中曽根康弘の提案した原子力予算の暴走に、科学者たちの専門知識で歯止めをかけるための3条件「自主・民主・公開」を付して始められました。それにもとづき1955年末に原子力基本法が作られ、原子力委員会が組織され、実際に原発が動き出しました。事故がおこるたびに「3原則に戻れ」と言われてきました。吉岡斉さんの言葉を借りれば、「3原則蹂躙史観」からの原発批判です。確かに「自主・民主・公開」は、「軍事利用」=核兵器を許さず「平和利用」=原発を導入するさいの一つの基準にはなりえたでしょうが、中曽根予算と同時に、ビキニ水爆による第5福竜丸被曝事件がおこり、原水禁の国民運動が生まれる時期でした。なぜ当時の科学者たちは、「安全」を「原則」に入れなかったのでしょうか。「3原則」ではなく「4原則」であっても、よかったはずなのに。当時のことを調べると、どうやら原子力研究を始めたい科学者たちは、濃縮ウランを使い原子炉をつくる「研究・実験」開始の条件として「自主・民主・公開」を考えていたようです。もともと「安全Safety」など念頭になく、「実用化」「商業化」による経済成長のエネルギー源と位置づけ、心中いつかは核兵器をもちたい中曽根康弘や正力松太郎が、「学者たちのほっぺたを札束でひっぱたいて」、一部の学者の反対も見越して、動かしてしまえば政治家と財界の思うまま、ということで出発したようです。原子力基本法に「安全」が入るのは、1978年、原子力船「むつ」の放射能漏れ事故の後の、法律一部改正のさいです。「安全神話」は、それから広がります。なぜ「安全」は「原則」にならなかったのでしょうか。問い直す必要がありそうです。あまつさえ、「安全Safety」ではなく「安全保障Security」という軍事的ニュアンスを、今回のフクシマを契機に原子力基本法改正に盛り込もうという、火事場泥棒的案も出てきています。
原子力基本法の「安全」軽視は「札束=研究費」の誘惑に負けた自然科学者の責任が大きいでしょうが、社会科学・人文科学には、原発の「危険・リスク」の問題を学問の課題にせず、放置してきた責任があります。すでに占領期の労働基準法には「安全・衛生」原則が入っていたのですから。社会運動史研究でも、同じです。ビキニ水爆第五福龍丸被爆から原水禁運動の開始・展開については、政党系列の分裂を含む「反原爆」の歴史、「平和運動史」として、それなりの研究があります。しかし「反原発」運動の方は、「平和運動」としてさえ、認知されなかったようです。この間、法政大学大原社会問題研究所の『日本労働年鑑』を読んできました。毎年の社会運動や「革新」政党の動きが、大分類「労働運動」の中の「その他」の欄などで、資料も含め、詳しく紹介されているからです。するとどうも、「反原発」は、居座りが悪かったようです。すでに1955年版には「平和運動」欄があって、原水爆禁止運動は、基地闘争や青年・婦人運動などと共に、その中心に座り、毎年紹介されるのですが、「反原発」は、1970年代からです。1972年に「農民運動」の一部に三里塚など「土地取り上げ反対運動(反公害)」が入り、77年版に「農民運動」中の「軍事基地・公害反対その他のたたかい」に「東北電力女川原発反対運動」が入ります。80年にようやく「農民運動」ではなく、「公害反対闘争」の一部として「原発反対闘争」が独立します。85年版は「原発反対闘争その他の公害反対運動」ですから認知度は高まったんでしょうか、翌86年に「労働組合と平和・社会運動」のなかに「原水爆禁止運動」とならんで「反核・軍縮・平和運動」欄ができ、「反原発」は「反核」の一部となります。逆に言えば、「原水爆禁止」は「反核」から一時はずされたようです。87年から大分類が「労働組合と政治・社会運動」になり、その「社会運動」のなかに原水禁運動を含む「平和・社会運動」とならんで「反核・平和・反原発運動」が、「反基地・反戦運動」や「公害反対運動」と同等の位置につきます。88年には「原水禁・反核運動」と「反基地・反原発・平和運動」が並置され、89年にようやく「広瀬隆現象」が注目されて「反原発運動の活性化」が、「反核原水禁運動」や「反基地平和闘争」とも異なる、独自の運動と認められます。そして90年版で、「反核・原水禁運動」と「反原発運動」が同等の運動と認められ、「脱原発法」運動が紹介されます。 ただし21世紀に入っても、「反核」は「反核・原水禁運動」の方にあり、「反原発運動」は「反核」ではないかのような日本的扱いです。総じて「反原発」は「反原爆」とは異なる運動とされ、「土地取り上げ」や「公害反対」の住民運動ではあっても、「平和運動」の王道としての原水禁運動よりは軽く扱われ、一時的に「反核」の方に入りますが、「反核」が「原水禁運動」の方になると、「反核」とは別の「反原発運動」にされるという、ややこしい流れです。もちろん「原発労働の安全」は、視野の外でした。
これらすべての起源が、「危険」は「原爆」に振り向けられて原水禁運動になり、「夢の原発」は「安全」と思い込んで「原子力の平和利用」が始まり、同時に出発しながら別々に展開してきた、1954−56年の出発点でのボタンのかけちがいにありそうです。極言すれば、「原水爆禁止=唯一の被爆国」と「平和利用=原発推進」が、ちょうど「二大政党制」とさわがれた「55年体制」(実際は自民党一党支配に社会党ほか野党が抵抗する1か2分の1政党制)と高度経済成長(まだ石炭・水力で60年代石油へ)のスタート地点から、コインの裏表のような「国策」になってきたようです。「安全」ぬきの3原則の入った「原子力の平和利用」=原子力基本法が、「政権交代」をかかげる日本社会党左右統一と保守合同=自由民主党の成立の直後に、「中曽根康弘君ほか421名」つまり二大政党の全議員連名の議員立法として成立し、翌年には共産党まで相乗りする「挙国一致」の「国策」として、原発は稼働を始めたわけです。「政権交代可能な二大政党制、与野党一致の成長エネルギー=原発稼働、蚊帳の外の反核運動」ーーいやな予感がしてきました。昨年10月早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告は、『東京新聞』10月25日「メディア観望」、『毎日新聞』11月2日「ことばの周辺」でもとりあげられ好評でしたが、本サイトでは「占領下日本の『原子力』イメージーーヒロシマからフクシマへの助走」のデータベースにしてあります。それをもとに書いた論文が、『インテリジェンス』誌第12号の加藤「占領下日本の情報宇宙と『原爆』『原子力』ーープランゲ文庫のもうひとつの読み方」(文生書院)に、その要約版が歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』(青木書店)に「占領下日本の『原子力』イメージーー原爆と原発にあこがれた両義的心性」と題して、それぞれ発売になりました。本カレッジのもうひとつの原発データベース、12月同時代史学会年次大会報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」は、その応用編です。関心のある方は、ぜひどうぞ。来週からまた海外で、次回更新予定の15日はメキシコです。ラテンアメリカ・アジア研究学会の国際原発シンポジウム中で、ようやくホームページ更新用ソフトは使えるようになりましたが、学会はいつもの首都メキシコ・シティではなく、地方都市です。ハードとインフラの関係で、更新が遅れる可能性がありますので、その際はご了承ください。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1961:120605〕
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