「憲法改正」をどう伝えるか
- 2013年 3月 1日
- 時代をみる
- 藤田博司
先の選挙で安倍自民党が大勝したことで、「憲法改正」の可能性がこれまでになく現実的になりつつある。安倍首相は、夏の参院選に勝つまでは表立った「憲法改正」の議論は避ける方針のようだが、在任中に実現にこぎつけたい意欲は十分と見受けられる。
しかしメディアの報道を見る限りでは、「憲法改正」がそれほど差し迫った問題と受け止められている様子はない。簡単には実現しないとメディアが高をくくっているのか、それとも問題の深刻さを読み取っていないのか、どちらにしてもあまり安心していられる状況ではない。
改正で国民縛る憲法へ
「憲法改正」を目指す安倍首相の目論見は、まず手続き的に改正を容易にして、中身の議論はそのあとに先送りすることのようだ。首相が国会答弁でも明らかにしたように、当面は96条の改正発議の要件を衆参両院それぞれの3分の2以上の賛成から過半数に引き下げることを目指している。そのうえで国民投票に持ち込もうというわけだ。
「憲法改正」は半世紀以上前、自民党の結党当初から党綱領に目標として掲げてきたもので、安倍政権のもとで急に降ってわいた新しい政策課題というわけではない。しかし今回の安倍政権のもとで注目される(べき)「憲法改正」の中身は、それ以前に遠い将来の問題として議論されてきた「憲法改正」とはまったく性格を異にしていることを押さえておかねばならない。
従来議論されてきた「憲法改正」の中身は、主として憲法9条(戦争の放棄)を改めて、自衛隊を他国並みの軍隊とし、自衛権を認めるとともに自衛隊の海外派遣を可能にする集団的自衛権の行使も認めようというものであった。要するに、現行憲法の平和主義的性格を薄めることに改正の主眼が置かれていた。国民の権利や義務をめぐって議論もあったが、「改正」の中心的課題にはならなかった。
ところが、自民党が昨年4月にまとめた「憲法改正草案」によると、その中身は、過去に議論されたものとは本質的に性格の異なるものになっている。第一は、現行憲法が多くの他国のそれと同じように、国や権力を縛り、国民の権利を保護する機能を持っているのに対し、自民党の目指す「改正」は逆に権力ではなく、国民の側を縛ろうとしている点である。
現行憲法は憲法を「国の最高法規」とし(98条)、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(99条)と定めている。一方自民党の「改正案」では「憲法尊重擁護義務」として「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」(102条)とし、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員はこの憲法を擁護する義務を負う」(同条の2)となっている。自民党案は、新たに国民に「憲法尊重」の義務を押し付け、他方で「天皇又は摂政」を擁護義務の対象から外して、権力側の責任を軽くしているのである。
公益と公の秩序を優先
つまるところ、安倍政権が目指す改正憲法は、権力の逸脱から国民の権利を守るための最高法規ではなく、国民に尊重義務を負わせて権力に従わせることを意図する道具ということになる。
改正憲法が国民を縛る道具になりかねない危うさは、自民党案の他の条項にも読み取れる。たとえば憲法の保障する国民の自由及び権利について、自民党案は「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」(12条)とくぎを刺している。
「表現の自由」については現行の条項に加えて「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」(21条の2)と、明確に自由に制限が付されている。「公益」や「公の秩序」が何を指すのかはあいまいにされている。これでは、時の政権や権力の恣意的な判断で、言論、報道の自由も市民運動も禁止されたり制限されたりすることになりかねない。
自民党案はむろん、現行憲法9条の変更も視野においている。「自衛権の発動を妨げない」とし、自衛隊に代わって「国防軍」をおき、「国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持」するための活動を行うことができる(9条3)、と海外派兵への道も開こうとしている。改正案の条文にはないが、当然、徴兵制が導入される可能性も十分考えられる。「公益及び公の秩序」維持を盾にすれば、政府はたいていのことを国民に押し付けられるし、国民は抵抗が難しくなる。若者たちを強制的に兵役につかせることも、不可能ではない。
ここまでくると、自民党の狙いは現行憲法の「改正」などではなく、現行の憲法を廃棄して独自の新しい憲法を作ることに等しい。自称「暴走老人」の石原慎太郎・日本維新の会代表の過激な年来の主張と変わらない。選挙に大勝した自民党が「憲法改正」に名を借りて戦後日本社会の秩序を根底からぶち壊し、新たな秩序を作る企ての準備が着々と進められていると見るべきだろう。
問題点報道しない鈍さ
日本の戦後民主主義に曲がりなりにも価値を見出す立場からすれば、相当深刻な危機が進行中と言えるだろう。しかし奇妙なことに、この問題に最も敏感に反応していいはずのメディアの動きがいかにも鈍い。テレビはもとより、新聞もおしなべて自民党の憲法改正案の問題点を、この10か月近く正面から取り上げて報道していない。
『朝日新聞』は草案が公表された昨年4月に100行ばかりの記事でその概要を紹介した。しかし表面的な事実をなぞっただけで、「改正憲法」が権力を縛るものではなく、国民に義務を押し付けるものになるという、憲法の基本的性格が変わることなどには触れてもいない。その後、11月の国会解散から総選挙までの期間を通じて、自民党の公約を紹介する形で憲法草案に触れた記事もあったが、改正草案の問題点をきちんと指摘した記事は見当たらなかった。
『朝日』のデータベースで「憲法改正草案」を検索すると、昨年4月から今年2月初めまでに22件がヒット、このうち半数は地方版、雑誌、投稿欄などの記事で、全国版に掲載されたのは11件しかない。他の新聞も『朝日』以上に「憲法改正」問題に強い関心を払っていた様子はなく、メディア全体として「憲法改正」問題を選挙の中心的争点に取り上げて報道した気配もなかった。
報道記事が乏しい中で、かろうじて自民党改正案の「報道の自由」「表現の自由」をめぐる問題点を指摘したのは識者による評論だった(『毎日』13年1月26日メディア欄、『朝日』2月4日オピニオン欄など)。ともに「公益及び公の秩序」が国民の基本的権利を制限する口実に使われる危険を指摘したものだが、メディアとしては自分たちの仕事に直接関わる問題として、もっと真正面から自民党の改憲案がはらむ危険性を国民に伝えるべきではないか。
外堀埋められるかも
しかし「公益及び公の秩序」を根拠に国民の基本的権利を制限するのは、自民党改憲草案の持つ暗黒の部分の一部でしかない。将来、改憲が実現した場合、全体として国民の生命や生活を脅かし、自由や権利を抑圧する社会の到来を招く恐れがあることを、メディアは国民に警鐘乱打して知らせる責任があるのではないか。
少なくとも今のところ、テレビも新聞もその責任を十分に果たしているようには見えない。憲法改正がそれほど容易に実現することはない、とメディアは思い込んでいるようにも見受けられる。政治取材の現場を知る人たちの間にはそうした見方が根強いようだ。しかし油断は禁物だ。福島原発事故のあと、あれほど高まった脱原発の世論が選挙では原発再稼働を主張する自民党を圧勝させた現実は、取材現場の常識が常に状況を正確に読み取っているとは限らないことを裏付けた。メディアがぼんやりしている間に、気が付けば、改憲への外堀がしっかり埋められていたということにならないとも限らない。
(「メディア談話室」2013年3月号 許可を得て掲載)
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