革命の組織論 歴史と宗教に学ぶ ⑤ 中央集権、階層制組織の病理と限界
- 2010年 12月 29日
- 評論・紹介・意見
- 中央集権浅川修史組織論階層制組織
一つのカノン(教条)をつくりあげ、そのカノンを組織の指導者(名称は書記長でも委員長、議長でもなんでも良い)の解釈に従って、「異端」「偏向」などのラベルを貼って党内反対勢力を弾圧し、排除するのがこれまでの共産主義政党に見られた傾向である。右翼日和見主義、左翼冒険主義など便利なラベルは指導者によって、どんな構成員や党内反対派に貼ることができる。
ある新左翼「中堅管理職」経験者は、「上の方針をそのまま下に流すと、垂れ流し主義と批判され、それではいけないと、自分の頭で解釈して流すと、中央から間違っていると批判された」と体験談を語っている。「部下や仲間の行動や考えを絶えず監視して、問題点はないかと批判するくせがついた」とも語っている。
相手にラベルを貼って、恫喝して自己批判(屈服)を迫るのが共産主義者の組織運営方法のように思える。かつてのソ連や東ヨーロッパのように共産党が政権を持つ国では反対派を秘密警察が逮捕、拘留したり、銃殺することも珍しくなかった。珍しくないどころが、一般的ですらあった。アンジェイ・ワイダ監督の映画「カチン」を見た。ソ連軍の捕虜となったポーランド人将校をソ連のNKVD(内務人民委員部、KGBの前身の秘密警察)の兵士が1人1人頭に拳銃をつきつけて殺害する。その数ざっと2万人。ナチスがユダヤ人を1人1人銃で殺害することは兵士の精神状態に悪影響を及ぼすとして、殺人工場で神経ガスを投入して殺害する方式(大量生産、省力化方式)に切り替えたことに比べると、ソ連の共産主義者(スターリン主義者)が1人1人その手で至近で事務的に殺害できる精神力の強さはナチスを超えている。良く解釈すれば、それだけ鉄の規律で鍛えられたのだろう。あるいは、そのくらいできない人間だと党内、省内で抹殺されるからだろう。
共産主義は構成員がカノン(基準、ベンチマークといっても良いだろう)から逸脱していないか、いつも細かいにことを気にしている集団になりやすいと筆者は考える。
国際共産主義運動とカトリック教会の類似は、このシリーズの①で指摘した。なぜ共産主義政党(旧新を問わず)やカトリック教会が異端に敏感なのか。それは構成員(信者)の要職に専従がいて、階層制を採用しているからである。上意下達、中央集権、専従の階層制を組織の原理にしているからには、組織内の地位や出世がすべてになるので、この病理から逃げられない。組織から異端を排除して「純化」するのが、カトリック型組織の原則だ。この「純化」の過程は日本共産党や新左翼の歴史とも重なるように思える。
カトリック教会とは対照的にユダヤ教、イスラム教はカトリック教会のような専従者による中央集権的な階層組織制度を採用していない。とくにイスラム教は信者の組織=教会すらなく、イスラム法学者の前で信仰を表明して、生活規範を守り、毎週金曜日の礼拝に行けば、イスラム教の信徒と認められる柔軟な組織である。イスラム教にはウラマーと呼ばれる法学者がいる。しばしば聖職者と誤解されて呼ばれるが、その仕事はキリスト教の神父、牧師のような礼拝の指揮者ではなく、信者の生活相談にかかわる「問題解決者」(イスラム教徒でもある小杉泰京都大学教授)である。
筆者の経験では、ユダヤ教もイスラム教もカトリック教会ほど「異端」「偏向」を気にしないうえ、反対にそれらを包摂する組織風土があり、感心させられることが多い。要するに他者を病的に気にする(関心を持つ)風土がない。
例を挙げれば、18世紀にポーランド・リトアニアで生まれたユダヤ神秘主義(カバラ)から霊感を受けた民衆運動であるハシディズムを、当時のラビのユダヤ教が、最初は異端として排斥しながらも、最後は妥協してユダヤ教の枠内に包摂したことである。最初は「異端」だったハシディズムは今やユダヤ教超正統派と呼ばれ、イスラエルや米国でトーラ(ユダヤ教の戒律)の守護神になっている。ハシディズム=厳格なユダヤ教という表層イメージを形成している。
また、イスラム教が本来の教義から見れば異端の傾向の強いスーフィズム(イスラム神秘主義)を包摂して、布教の拡大に役立てたことも「度量」の広さを感じさせる。スーフィズムの起源にはいろいろ説があるが、筆者は仏教の修行に影響も受けていると思う。これがもし新左翼だったら、次のような口調で機関紙で批判するだろう。「スーフィズムはわれわれが絶対に許すことのできない多神教である仏教に影響を受けた偏向である。絶対的な1神教であるわれわれイスラム教徒は断固としてこうしたスーフィズムの偏向を批判し、これを排除しなければならない」。こんな感じだろうか。
現代ではスーフィズムはイスラム教、特にスンニ派に定着しており、イスラム教にとって不可欠の構成要素になっている。
革命のイエズス会=レーニン主義的な党は歴史の偶然(歴史の必然ではなく)でロシア革命で成功したことから過大評価されてきたと筆者は思う。1917年2月革命前のボルシェヴィキの構成員は2万人から3万人と推定されている小さな政党だった。当時のユダヤ人ブント(推定3―5万人)より少ないだろう。
このミニ政党が政権を取れたのは、レーニンの妥協を許さない意思と指導力があったからだが、第一次世界大戦でロシア帝国が極度に疲弊したうえ、ドイツ参謀本部次長としてドイツ帝国の実権を握っていたルーデンドルフ将軍が、ロシア帝国を倒し、西部戦線に兵力を集中するためにボルシェヴィキを使うという禁じ手を実行したからだろう。具体的には、スイスに亡命していたレーニンを首都ペテルスブルクに封印列車で送り込み、革命の資金を提供した。ルーデンドルフはボルシェヴィキが帝国主義に反対し、ドイツでも革命を起こすという考えを持っていることは知っていたが、それは気にせず、ロシア帝国打倒を優先した。
ロシア革命の成功により、レーニン型組織論は革命のための必要条件として神格化されたが、中国、ユーゴスラビアを除くと、意外に実績はさえない。中国共産党もボルシェヴィキというより中国の伝統的な秘密結社、あるいは軍閥の連合体という趣きがある。今では「太子党」がばっこし、「資本家」も包摂するする既得権政党になってしまった。
1930年代に欧州最大の党員を誇ったドイツ共産党(KPD)は、ナチスにまともな抵抗できず、短期間で壊滅した。当時のKPDはナチス突撃隊に対抗して、赤色戦線兵士同盟という準軍事組織を持っていたが、ある地域では赤色戦線兵士同盟がまるごとナチスに転向するという情けない事態まで起きている。
もう一つ例を挙げると、1965年9月30日事件後にインドネシア共産党(PKI)が、軍隊やイスラム教の民間団体などの反対勢力によって、あっけなく崩壊したことである。当時のインドネシア共産党はスカルノ大統領のナサコム体制の与党であり、党員200万人、世界最大の共産党(ソ連、中国を除く)といわれた。指導者に判断を一任する中央集権型組織では、指導者が指導を放棄したり、判断を間違えると、組織が独自の抵抗活動をできず、短期間で消滅することをKPD、PKIが証明しているように思える。
前置きが長くなりすぎた。次回からユダヤ教の分権的、自治的組織論に入りたい。
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「革命の組織論 歴史と宗教に学ぶ」の、これまでの掲載分は以下をご覧ください。
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