小説 「明日の朝」 (その3)
- 2015年 9月 25日
- カルチャー
- 小説川元祥一
3
窓の外で突然ワッと歓声が沸き、続いて笛や太鼓の音が人のどよめきと共にふくれあがる。人の姿はどこにも見当たらないというのにー。
ローラスケート場の北側の窓から、野球場の巨大で無機質なコンクートの壁と、例の鉄柱の一部が見えるのだった。しかし平崎は、歓声が起こるまでそこでプロ野球が行なわれているのを忘れていた。
「王が三本目のホームラン打った」
営業が終わって、人影がなくなったスケートリンクの向うで誰かが叫んだ。そういえば、貸靴コーナーの奥から野球のラジオ実況が流れていた。その実況と、目の前の巨大な建造物の中で行われるプロ野球の試合が繋がっているとはうかつにも想像しないことだった。
「延長線だよ。これで巨人の勝ちだな。今日もいただきよ」
誰かが嬉々と叫ぶのを聞きながら平崎はリンク場内の窓のカーテンを閉め、長い鈎棒で天窓を閉じて歩く。夜警員としてやるべき最初の仕事だった。
最寄りの鉄道駅からこの遊園地に来る途中見上げた鉄塔が、このスケートリンクのそばにそそり立っている。今頃鉄塔はその存在感を発揮し、暗闇の中に強力な光の束を投げかけているだろう。そんな鉄塔が四基あって、その下は昼間より明るい。
平崎はこれまで二度ほど丸尾の後についてそんな光の中に入ったことがある。この施設で古株中の古株と言われる丸尾について行けば、施設の遊園地はどこでも顔パスだった。その時も偶然王のホームランを見た。あふれるような光の束の中に描かれる白いボールの放物線。鉄塔の光の束はその下の人のためだけでなく、あの放物線のボールを白く光らせるためだろう。その下で、意外にも小さく見える四つのベースを回る王の姿は美しかった。沸き立つ歓声に手を振るその姿はまさに英雄であろう。とはいえそれはそれとして、その美しさを包む何かがありそうに思う。王自身がその何かに包まれているわけではないだろう。彼は独りで可能性を追求している。しかしそれをなお外から包むもの。その輝く空間を演出するものがあるだろう。四万人もの人が同時に入れるこの巨大な建造物もそうだろう。夜になると太陽に代わってこれを輝かせるもの。それらを意図したもの。かって諸国の王が天を支配しようとしたように、夜を支配して自らの孤独な目的を達成しようとするものー。
その時、リンクの東側にある場内係室のドアがあいてパンツ一枚の男が出て来た。沖田だった。タオルを持ってリンクの西側にあるシャワー室に向う様子だった。が、平崎の姿見て近付いた。
「ねえ、平崎さん今日医務室を開けといてくんない?」
「あそこ開けるなって、山際が言ったじやない。回覧も回っただろう。厳禁だって…」
「知ってる、知ってる。だからそこをお願い」
沖田が擦り手の真似をする。従業員たちは、貸靴係や場内係など、自分たちの持ち場にある控室を使って、夜遅くまでマージャンやオイッチョカブをして遊んでいる。会社は賭け事はもちろん控室の宿泊も禁止しているのだったが、それを守ろうとする従業員はいなかった。たいてい朝までやっていて、多くはその場でゴロ寝して朝十時から始まる仕事にはいる。
しかし医務室は少し勝手が違った。以前は医務室は神聖な場というイメージがあったと言う。だからたとえ人がいない夜とはいえマージャンなど遊びに使うことはなかった。しかしもうだいぶ前から客が増えるようになり、従業員も増えて風紀が乱れたと丸尾が言うのだった。そして、場内にある三つの従業員控室が全部使われている時、医務室を使う者がでるようになった。が、医務室はある意味本当に神聖な場であり、翌日看護婦が来ると無断で使った事が必ずばれてしまう。タバコの煙がこもっていたり、室内の様子が変わっていたりするからだ。するとすぐに本社に知らされ、本社から配置されている支配人・山際恭平がうるさく詮索して回る。そして医務室だけでなく従業員控室の鍵も、営業終了後取り上げて行くと言うのである。
もっとも、鍵を取り上げた場合、その山際は翌日八時前に必ず出社しなくてはならない。十時の営業開始に向けて早番の従業員が午前八時に出社するからだ。山際の通常の出勤時間は九時だった。ほんの一時間の違いだったが、それを毎日続ける男ではないようだ。だから結局のところ従業員と支配人のイタチゴッコとなる。
丸尾に言わせると、そんなイタチゴッコを止めるためにアルバイト夜警員を作った、と言うのだった。なんとも絞まらないケチな話に聞こえて、本当だろうかと思うのだったが、本社から現場に派遣された山際からすれば、責任逃れにはなりそうだ。そしてもしそうなら、アルバイト夜警員は、本社と現場従業員の間に挟まれた、結構重要なポイントにあるのかも知れない。
そんな風に思うのだったが、平崎の心には、どちらかというと現場従業員に同情的な所があった。従業員の自由奔放なやり方に好感を持つ自分がいるように思えてならない。そのうえ、自分に被害が回ってこない限り、彼らがこの施設に寝泊まりすることで、実害を被る者は見当たらないのだ。むしろ彼らはこの施設の現実的な支配者だ。どこかに居るだろう経営者が、彼らがここに寝泊まりすることで被害を被るなんて、とんでもない幻想に違いない。
「タバコはだめだよ。わかったら怒られるのは俺だからな。首になるかも知れないんだぜ」
「わかってる。散らかさないし何もさわらない」それだけ行って沖田が走り去る。
何に使うの、と問いかけて平崎はやめた。最初はやはり医務室をマージャンやオイッチョカブに使う者はいなかった。どうしてもタバコの匂いが残るからだ。他に医務室を使うとしたらただ寝るだけか、あるいは、あれ、だ。
平崎は北側の窓の作業を終えて南の窓へ回った。その間のリンクサイドに、遊びに来た客にローラスケートの滑り方を教えたり、リンク内の、例のまだら模様の人の渦の中で、客の安全を図る場内係の二つの控室と、医務室が並んでいる。南北の窓とカーテンを閉めた後、午後十時になるとこれら控室を含めて全ての部屋を見回るのが夜警員の大切な仕事だった。見回りは午前〇時に二回目、午前二時に三回目がある。その頃は、二階の事務所と医務室を除いてほとんどの部屋でタバコの煙と若い男の熱気がむせかえっている。マージャンなどだけでなく、アパートを持たずにここを寝ぐらにしている者もいる。そしてたまに女を連れ込む者もいる。
平崎がアルバイトを始めて間のない頃だった。医務室の神聖感がいくらか残っていた頃、巡回用の鍵の束から医務室の札がついた鍵が無いのに気づいた。昼間は放送室の壁にあるキーボックスに掛けられているが、夜は全室の鍵の束を夜警員が管理し、朝まで宿直室の金庫に入れておく。鍵が無くなるわけはないと思いながらノブに手にかけた。ドアはびくりともしなかった。彼はそのままにして巡回をつづけ、一通り終わった後、二階の事務所に上がって予備の鍵を持ち出し、再び医務室に戻った。仕事に対する義務感があった。それに、この職場の人間の動きをまだよくつかんでいなかった。予備の鍵でドアを開け、懐中電燈の明かりを投げ込んだ。そしてでアッと声をあげた。光りの中に素裸の男が立っていた。男は従業員用の草色の制服を片手で持って股間を隠し、もう一方の手で懐中電燈の明かりを遮ろうとした。同時に男の足元で、女のものとしかいえない白く艶めかしい太股が、軟体動物のようにうねっていた。
それ以来平崎は、巡回の時キーボックスに鍵のない部屋は開けないことにしている。遊びにきた女の子と仲良くなり、その気がありそうだと一日中只で遊ばせてやって口説く。だけどせっかく口説いても、金が無ければどうしようもない。そこで思い付くのが夜は完全に空いている医務室だろう。他に適当なところはない。しかし、最初から開けてくれと言う沖田の場合、それは単に寝るだけに違いないだろう。
南側の天窓を下しカーテンを全部閉め終わると外の騒音が入って来ない。耳慣れない静寂感の中に、プロ野球を実況するラジオの声だけが低く聞こえた。どうやら、延長線に入ってすぐ巨人が負けたようだ。さっきまで巨人の勝ちを予想していただろう従業員は結果を知ってラジオを放置しているのだろうか。と、その時、事務室のドアが開いてパンツ一枚の丸尾が声をかけた。
「電話だよ」
山田芳美が取ったと言う伯母の電話だろうと思った。しかし受話器を耳に当てると、弾んだ若い女の声が飛び込んだ。
「もしもし、私」
渡辺聖子だった。
「ごめんなさい仕事中だった?」
「大丈夫だよ。終わったところだ」
「私今寮に帰ったところなの。さっきね、アイスの事務所出る時ローラに寄ろうかなって思ったんだけど、入口に従業員がたくさんいて、なんか恥しくって帰って来ちゃった」
「そうだったの。そっちからここに来たらヤイヤイからかわれそうだね」
「そうなの。みんな言いたいこと言うんだから。でも平崎さんに知らせたいことがあって、寮に帰って電話したの」
「何?」
「わたしね、明日急に田舎に帰ることになったの」
「へえ」
「お父さんが怪我しちゃったの。」
話の内容をよそに聖子の声には甘ったるいものがあった。
「お父さんどうかしたの?」
「たいしたこと無いみたいなんだけど、バイクでね、溝におっこちたんだって。酔っぱらってて。それで足の骨が折れたみたいなんだけど、他に傷も無いしね、命にかかわるようなことは無いの。でも入院してて、妹が付き添ってるみたいなの。お母さんが体弱いでしょう。だから今日会社に言ってお休みいただいたの。明日と明後日」
「そりゃあ大変だね。でもたまには親孝行もいんじゃない」
「そうなの。今年のお正月事務所忙しくて帰れなかったでしょう。だからいい機会かなって思って。田舎の空気いっぱい吸えるし」
「いいね。骨休みしてくればいいよ。人が休んでる時忙しい職場だから」
「うん。それで明日の朝ね、九時か十時の列車で帰ろうかなって思ってるの」
そう言って聖子がちょっと間を置いた。その間の中に尋ねているものがあるのに気づいた。
「新宿から帰るの?」
「うん」
「九時ごろだったら俺見送りに行こうか」
「うれしい」
聖子は最初からこれを期待していたに違いない。だから出発を朝の九時か十時にした。ローラスケート場の夜警員の仕事は朝八時に終る。その後学校に行くこともあるし、学校で授業がなければ新宿を通ってアパートに帰る。聖子はもうすっかりそのパターンを心得ている。
「列車はね、九時三十分の松本行きの急行と十時三十分の特急があるの。どっちがいいかしら?」
「どっちでもいいけど、九時三十分でいいんじゃない」
「十時の方だったら少しゆっくり出来るから、二人でお食事出来るかも」
「食事はいいよ。社員食堂の納豆定食食って行くから」
聖子が電話の中でクスッと笑った。聖子の期待をはぐらかしてしまったが、なぜか気がすすまなかった。
「九時前には新宿に着くからさ、それからだって時間あるじゃない。」
「そうね、それでいいわ」
「どこで会う?」
「私新宿よく分からないの」
「そんな時間に店が開いてるかどうかわかんないから、ともかく中央線の松本行き急行が出るプラットホームにしょう。ホームの真ん中にベンチがあるはずだからそこで待ち合わせしょう」
「いいわ」
聖子が答えて電話を切った。
「あら、いい電話してるじゃない」
後ろで声がした。振り返ると野田達子がキーボックスの前に立っていた。
「どうしたんですか。こんなに遅く」
平崎が問いかえした。
「野球が伸びててさっき終わったの。球場の若い子帰っちゃって手が足りないから手伝に行ってたの。私なんか誰あれも誘ってくれないもんね。ちょっと二階の鍵持って行くわよ。書類置くだけ」
野田が壁のキーボックスから一つの鍵を手にして事務室を出た。
この女がローラスケート場運営の影の重鎮といわれている。身分的には支配人が上だったが、これは本社にいる大学卒が現場研修にやってきて二三年で交代する身分だ。しかも今の支配人はこの春来たばかりだ。二年目を過ぎた平崎の方が先輩というところだ。そんな支配人を現場で指導するのが十年以上ここにいる野田達子だった。旦那が本社におり、子供のいる家庭をもつという。現場の番長といわれる丸尾も彼女には一目置いている様子だった。
聖子と平崎がつきあい始めるきっかけもこの女がからんでいた。平崎がアルバイトとしてここで働き始めた頃、警備員の小道具をそろえ、彼が階段を上がって行くのを毎回待っている大野聖子に感激したものだった。もう一人のアルバイト学生の藤田にも同じことをしているだろうと気づくのは少し後だった。そのことに気づき、のぼせていた自分に苦笑したものだったが、それでも聖子への好感はつづいた。長野県の高校を卒業してすぐここに入社し、二年目だったという。そんなある日のこと、支配人がいないのをよいことに聖子と野田二人が、聖子の高校時代の話で盛り上がっていたらしい。そこに平崎が入って行った。
「平崎さん高校生の時何か部活してた?」
いきなり野田が尋ねた。
「俺は水泳部だった」
「あら、でもあなたは体育系に見えないわねぇ」
「俺の噂してたの?」
場を盛り上げようとして軽口を言った。
「そうよ。聖子ちゃんテニス部だったんだって。彼女もそのように見えないわよねえ。色白だし」
「白くないの。高校生のころはもっと黒かったの」
聖子が謙遜して手を横に振る。色白とは言えそうにないものの、健康そうな丸顔と引き締まった唇が女っぽかった。ポニーテールの髪もよく似合う。平崎はさらに盛り上げようとして言ったものだ。彼が高校生の時実際にあった話だったが、少し面白く脚色した。
「俺高校の時テニス部の女の子好きでさぁ。ラブレター出したんだけど返事くれなかったな」
「あらかわいそうに。テニス部は嫌い?」達子が突っ込んでくる。
「いや、嫌いじゃないけど、その子はその後口もきいてくれなかったよ」
「私そんなことしなーい」
聖子が胸に手を置いて言う。
「いーや。わからないね。本当に出したらポイッと捨てたりして」
「そんな事なーい。平崎さんだったらすぐお願しまーすって、お返事出す…」
「何をお願いするって?」
軽口だったが聖子は変に真面目な目で彼を見ていた。
「あらまあ平崎君、このまま引っ込めないわよ。しっかりして。今度はうまくいくかもよ」
変なことになったと思った。しかしずっと女友達がいなかったので悪い気はなかった。このようにして、先逹野田達子に見透されながら聖子とのつきあいが始まったのだった。数日後、藤田と交代する空けの日に、夕方退社する聖子と待ち合わせを約束した。そして最初のデートを大学の周りの名曲喫茶にしたのはよかったが、その後どこえ行ってよいかわからず大学のキャンパスに聖子を連れて行った。
「俺の学校に行って話ししない?。俺アルバイトで学校に行ってるからお金の余裕がないんだ。だからつまんない男かも知れないけど、大学に行けば俺の世界だ。面白い話だって結構あるかもよ」
そう言った。すると聖子が喜んだ。本当に喜んだのかどう自信はなかったが、聖子にとって新鮮な世界だったかも知れない。というのは、それから何日か後、二階事務所に上がって行くと野田達子だけの時があり、彼女がいきなり「平崎君ていい人なのね。聖子ちゃん感激してたわよ」と言う。「どうして?」と尋ねると「大学でデートしたんだってねえ。そんなの私も初めて聞いた。たいしたもんよ貴方。聖子ちゃんますます好きになったみたいよ」
「そんなに褒められたもんじゃないよ。金がなかっただけ。働けど働けど我が暮らし楽にならざり…だよ」
「それでいいの。本当に必要だったら言って。前払いしてあげるから」。
なんとも心強く優しい姐御だった。平崎も内心感動した。前借の話が出たのはこの時が最初だ。しかし見栄をはったデートはしたくないと思った。有りのままでいい。それが俺なんだ、と。
次のデートも大学だった。聖子が喜んでいるならと思ったが、しかしその日は前回と少し違うことを考えていた。二回目のデートではあったが、もしかして成り行きで、二人でしけ込むことも無きにしもあらず、と。その日になるか次のデートになるかわからないものの、いずれそうなるだろうとも思われ給料の前借を考えた。温泉マークの一室が頭にあったのだ。しかしいざ前借をしようとして、二人のことを見透かしている野田達子の立ち位置が気になった。心強い姐御とはいえ、ここで前借をすると、それはもう見え透いているだろう。野田達子の性格からして、その目的を読み取らないわけがない。そしてそれは聖子に気の毒な気がした。だから前借をやめた。しかしそうした想像は、彼の中に熱いものを呼び覚ましていた。女への欲望が想像力とともに可能性を求めて動く。
最初の時とは違った名曲喫茶に入った。大学の周りにはこんな喫茶店がたくさんある。そこには深刻そうな顔をして音楽を聴いている者がいて雰囲気は申しぶんない。聖子もそんな雰囲気が気に入ったらしい。
「この後また学食に寄って晩御飯食べようと思うけどいい?」
「嬉しい。私とっても嬉しい。普通なら私なんか入れないでしょう。平崎さんのおかげで大学生になったみたいな気がする」
そんなことを話しながらキャンパスに入り、学食へ寄った。大学の夜間部が始まる時間帯なので、結構多くの学生が出入りしている。最初の日、二人はここで長々と話した。三年前この大学が学生運動で燃えたこと。彼もまたデモに行き警官の警棒で叩かれて頭に怪我をしたこと。傷跡に手を当て、聖子に撫ぜさせもした。一九六〇年の安保闘争のころ聖子は高校二年生だったという。しかし、全学連のことも日米安全保障条約のことも知らなかった。だから平崎は政治やイデオロギーのことを一切はぶいて、当時の学生運動の様子を話したのだった。そしてその日は、聖子を文学部の学生自治会室に案内することにした。学食ばかりでは能がないだろう。自治会室に入れば学生運動の名残がいくらでもある。
最近は学校に来るのがめっきり減っているものの、昨年まで学友がたくさんいた。彼らは無難な四年間を過ごして卒業して行った。平崎は四単位が足りなくて留年することにした。アルバイトで学費を稼ぎながら学生運動もそこそこやって行く、そうした態度では、大学側もそんなに甘くはないというところか。一方で大学を卒業するだけが人生ではないと思った。しかしせっかくやり始めたことだ、最後までやってみようと思って溜年した。週に二時限、古文書と心理学の授業に来るだけだったが、学校にきた時は、かっての習慣もあって学生自治会室に寄ることがよくある。しかし今はいつもほとんど人がいない。
その日の午後も、聖子と逢う前に彼は心理学の授業に出ていた。そしてやはり、校門前の道路を挟んで建つ文学部校舎の地下にある自治会室を覗いた。人気がなかった。一九六〇年、その六月十五日前後の盛り上りが嘘のようだった。しかし人が出入りしないだけに当時のポスターやビラなどがそのまま残っている。そんな雰囲気の中で学生運動の様子を聖子に話してやろう。それもまた彼女にとって新鮮かも知れないと思った。と同時に、体の中で動く熱いものを知っていた。この部屋で彼女に迫ることが出来るかも知れない。校舎の管理人室に部屋の鍵がある。それを受け取ると、その後管理人はその部屋を干渉しない。学生運動の頃からそれがわかっていた。
爽やかな風が流れる夜の道路を渡り、校舎の地下に下りて行くと、階段のところでもう人気がなかった。彼はこれまで何回も開け閉めしたドアを開け、照明をともした。以前はタバコの煙と学生の熱気があふれていた。が、今は乾いた埃っぽい空気が溜まっている。以前活動家が取り巻いていたテーブルの端に聖子を座らせた。
「初めてだから君にはうす気味悪い部屋かも知れないね。だけど俺には思い出が一杯なんだ。前に話した学生運動の作戦会議などを全部ここでやったんだよ」
言ってみたが、しかし思った以上に言葉が虚しいのを感じた。何の実感もないのだ。聖子の方も何を頼りに聞いてよいかわからない顔だった。聖子には多分、ここでは大学の雰囲気すらないだろう。そう思った。
「書棚にはさ、当時のビラなんかも残ってるんだけど、なんか全然実感わかないねぇ。当時の空気がまったくないからなー」
「……」
聖子は黙りこんでいた。
「学生がうろうろしてる方が大学らしいね」
平崎は言訳した。それはそれで本当の気持ちだった。しかし次の可能性は彼の体の中で、より豊かなものを求めて動いた。彼は聖子の傍に行って腕を掴んだ。聖子が黙って立ち上がった。二人は体を寄せあい、何か悲しいことでもあるかのように唇を寄せ抱きあった。
やがて彼は一人動いて内側からドアの鍵を閉めた。聖子が何か言うかと思ったが無言だった。彼はあらためて彼女を引き寄せ抱きしめる。そのしなやかな肉体感。唇を寄せ合い、彼の手は聖子の体をさまよった。臀部の弾力から滑るように縮まる腰。腕の中でしなるその柔らかい感触。頬擦りし、再び唇を…。上着のボタンを一つずつ外した。乳房を開き。豊かな膨らみに滑り込む指。掌一杯に伝わる愉悦。すべてが新鮮だった。部屋の奥の棚にかって小道具を入れて運んだダンボール箱が潰され、積まれているのを彼は知っていた。聖子の手を引いて奥に行き、ダンボールの箱を数枚床に敷く。そして壁の隅の電気のスイッチを切った。一瞬で暗闇…。聖子は何も言わなかった。そして真っ暗なのにすべてがわかる感じだった。再び抱き合い、抱き締めて倒した。女の弾力の上で、ブラウスを取り、乳房を包むブラジャーを…。聖子が手を添え、いきなり豊かな弾力が自分のものになった。抱きしめてもつれた。歓びとともにすべてを取り込もうと、手も心ももどがしく動くのだった。さらに引き寄せ、スカートのホックを探っていると彼女の手が彼を導く。そのすべて。はじけるように開き、自分の意思を離れた手が聖域を包む薄いベールへ忍びさまよう…。
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