マ・ティーダの獄中記「良心の囚人*―インセイン刑務所を通じての私の歩み」を読んで (1)
- 2017年 3月 26日
- カルチャー
- 書評野上俊明
私たちが優れた政治的自伝に期待するものは、著者の功績がつまびらかになることはもちろんですが、それ以上に著者がどれだけ生きた時代の証言者になっているかということです。時代証言としての自伝の意義は、著者と同世代人に対しては、自分たちが際会した出来事の記憶をよみがえらせ、「あのとき」への共感を触発することによって、ある種共通の時代感情なり共通体験なりを自覚させることにあります。そして作家により掘り下げられ、昇華され再構築された世代体験は、もしそれがヒューマニティの新たな可能性(ポテンシャル)切り拓いて普遍的な意義を帯びるに至れば、経験を直接共有はしていない他の世代や外国人にも感銘をあたえることもできるのです。
一国民の歴史において、自分たちの未曾有の時代体験のエッセンスを文学作品として持つということは稀であるが故に、これほど誇らしいものはないでしょう。この稀な機会を与えてくれた人、作家兼外科医兼社会活動家であるマ・ティーダの著書「良心の囚人―インセイン刑務所を通じての私の歩み」(ビルマ語版2012年、英語版2015年 バンコク)を通読しての感想を、この国の民主化運動の発展という見地からやや詳しく述べてみたいと思います。
<88年国民的総決起から総選挙まで>
1988年のネウィン独裁体制打倒の国民的決起の先頭に立ち、以後の民主化闘争においても多くの犠牲を払って来た若者たちを、この国では敬意を込めて「88世代」と呼んでいます。1966年生まれのマ・ティーダは、文字通り88世代の一員として90年の総選挙前後の嵐のような時期に力を尽くして闘いました。スーチー女史や、結成間もないNLDの党務を実質的に切り盛りしていたジャーナリスト・ ウィンティン氏に最も近いところで秘書ないし書記的な役割を担って不眠不休で活動したのです。
そういうマ・ティーダですが、1988年までは医学部の学生として、また文学雑誌に精力的に小説を発表する学生作家として、忙しくも平穏で充実した生活を送っていました。ただ驚くのは、彼女は小説を文学雑誌に投稿してかなりの稿料を得て、それを生活費や旅行費用や学費に充てていたということです。ミャンマーでは若い娘が自由に国内旅行をすることなど、おそらく1980年代にはほとんどありえないことでした。せいぜいグループでの大学卒業旅行か、ごく限られた富裕層のみがリゾート地に家族旅行するくらいかで、一般家庭の娘が個人旅行するのは費用的にも、その保守的な習慣からも、あるいはセキュリティの問題からもまずないことでした。この点だけをとってみても、マ・ティーダは才能に恵まれ、探求心旺盛で独立心の強い女性だということが分かります。
ところで、88年以前の大学生活を振り返って、マ・ティーダは苛酷な「バス体験」を思い出しています。今日なおヤンゴンの交通事情の悪さは根本解決にはほど遠い状況ですが、彼女に交通問題の解決は自分の見果てぬ夢だとまで言わせるほど、当時も通学通勤は若い娘にとって苦痛以外のなにものでもなかったのです。延々と待った挙句、乗れば乗ったで蒸し風呂状態で、薄着のなか多くの男性に挟まれてもみくちゃになるのです―今日いうところのセクシャル・ハラスメントまがいの経験は珍しくなかったでしょう。行政の無能さの象徴ともいえるヤンゴン交通事情、現在試されているのはNLD政権です。
さて、88年3月12日にヤンゴン工科大学での若者同士の口論が発火点となり騒動が拡大して治安部隊が出動、翌日活動家のポーモウが治安部隊に射殺されたことから大騒擾に発展。同15日には「赤い橋事件」で41名の逮捕された学生が護送車内で窒息死させられたり、インヤー湖に突き落とされ多数が溺死させられたりした残忍な弾圧が国民の恨みと怒りに火をつけ世情騒然となりますが、この時点ではまだ一般市民は動きませんでした。
一人娘が騒動に巻き込まれるのを心配して両親が外出を禁じたこともあって、しばらくはマ・ティーダは息をひそめ情勢を見守っていました。しかし6月のダウンタウン・ミャニィゴーンの惨劇(一般市民への無差別発砲)※から一気に過熱する情勢に押されて、いてもたってもいられず国家試験を控えた医学部最終学年にしてマ・ティーダも運動に跳びこみます。その後1988年8月8日(8888)には、全土で学生(大学生、高校生、中学生)、仏教僧侶、公務員、一般市民が参加してのストライキやデモが行われ、国民的決起がネウィン独裁体制打倒の反政府運動へと飛躍する一大画期となりました。
※ミャンマー人と結婚して長くヤンゴンに暮らし、この場にたまたま居合わせたという日本人の老婦人数名の方々から、私は当時の様子を伺いました。軍はいきなり子供にでも容赦なく発砲し、最後は機関銃を乱射したといいます。ド、ド、ドゥと地響きのような音がするなか、みんな恐怖で腰を抜かしそうになり這うようにして逃げたそうです。
8月24日、26日にはアウンサン将軍の遺児だったスーチー女史が演説を行ない、一躍国民運動のトップに躍り出ます。9月には暫定政府樹立宣言一歩手前まで行きましたが、同18日に国軍はクーデタを決行して全土を制圧、運動は粉砕されて最大の集団勢力だった公務員も職場復帰を余儀なくされました。この間推定数千人の死者を出したとされます。この後すぐ9月下旬にティンウー氏(元国防大臣)やスーチー女史、ウィンティン氏らは、NLD(国民民主連盟)を結成します。これから1990年5月の総選挙にいたるまでの時期、マ・ティーダは党実務を取り仕切るウィンティン氏の指揮の下、党書記として急膨張するNLDの党員証発行事務などに寝食を忘れて働き続けます。
88年秋以降、NLDはスーチー女史(書記長)を先頭にキャラバン隊を組んで全国行脚を二回実施します。クーデタ以後もスーチー女史とNLDの健在ぶりを示すとともに、国民を励まして民主化運動を継続するためでした。スーチー女史と民衆を接触させまいとする軍政当局の様々な妨害に抗して、スーチー女史らは身体を張ってキャンペーンを敢行します。二回目のイラワジデルタのパテイン市ではスーチー女史は銃口を突き付けられても怯まず阻止線を突破し、NLDの隊列があとに続くと、遠巻きにこれを見ていた群衆から激励の呼びかけが上がったということもありました。
ウィンティン氏の発案になるこの運動スタイルは、90年の総選挙のときも選挙キャンペーンとして継続されます。マ・ティーダはこれらのキャラバン隊に党の情報担当として随行し、まだ携帯電話やインターネットもない時代にその様子を毎日記事原稿にして、リレー方式でヤンゴンに送達します。一口に全国キャンペーンといっても、日本のように全国的な道路網や通信施設が整備された国のそれとは訳がちがいます。ガタガタ道や道なき道を、国産のマツダ・ジープ(いわくつきの日本のODAプロジェクトの産物)やピックアップ・トラックを改造してバスに仕立てたキャラバンカーでいくのです。ガソリンスタンドがある訳でもなく、故障しても自分たちで修理しなければなりません。乾季といっても昼間は熱帯の陽ざしは肌を焼き、逆に朝夕は冷え込みます。しかも軍や警察は食料や水などの補給を妨害し、おそらくキャラバン隊を泊めないよう宿泊先を恫喝もしたことでしょう。(私も農業や漁業視察で地方の僻村を回っていますので分かりますが、1週間の旅程でヤンゴンに帰ってくると、必ず数日疲労困憊で寝込むのが常でした。一度などイラワジデルタのキャッサバ畑の視察では、改造トラックに揺られて内臓がバラバラになりそうな思いをして、帰宅してシャワーを浴びるとき下着に血がついているのに気づきました。お尻の皮がひどくむけていたのです)。そういう訳でスーチー女史があの細身の身体でよく持つものだといつも感心していました。やはりもともと身体の弱かったマ・ティーダは、キャンペーンの後半身体を壊してリタイアーせざるを得ませんでした。
最大に運動が盛り上がったこの時期、マ・ティーダの叙述を通じて分かったことが一つあります。それはNLDの運動がキャンペーン(宣伝活動)に偏っており、それをフォローアップする組織化の作業が追い付かなかったということです。ひとつの村、ひとつの町ごとに組織の種をまき、それらを育て上げて、その上で縦横のネットワークをつくるという地道な作業がほとんどなされなかったのです。NLDはいわば頭だけが突出していて、根や幹が育って行ってないので、頭をはねられると簡単に壊滅状態になってしまうのです。おそらくこれはNLDに限らず、ミャンマーの民主化運動全体に当てはまる構造的欠陥なのです。組織実務(綱領・党則、行動計画等の策定、組織建設(中央・地方)・機関誌発行、日常運営、党員教育等)に通じているウィンティン氏の世代―この世代はマルクス主義の影響を大なり小なり受けています―の生き残りがほとんどいなかったせいかもしれません。党組織とは違いますが、88年には地域に「地域行政委員会」立ち上げの動きがあったそうです。おそらくこれは住民らが軍政機構に代わる自主管理型の行政機構をつくり上げようとしたものではないかと推察されます。民主主義を支えるこうした自主的な試みが若芽のうちにクーデタによって摘み取られてしまったことは、返すがえすも残念なことでした。
いずれにせよ、2011年にNLDが合法化されてからも、近代的な党運営にある程度理解があり、しかもスーチー氏に対等にものの言えるウィンティン氏のようなオーガナイザーが欠けたままだったことは致命的でした。マ・ティーダもこの種の草の根の組織活動を体験しないまま入獄することになりましたので、自伝でもその点につき問題意識をもって総括する視点に欠けております。今までミャンマー内外の識者のだれもこのことを指摘した人はいませんでしたので、今後国軍に対抗しうる組織勢力をつくるためにも敢えて強調しておきたいと思います。
頭がいいのでしょう、マ・ティーダは90年前後の疾風怒濤の日々、NLDの活動や雑誌編集の仕事に忙殺されながらもトップクラスの成績で医師試験に合格します。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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