マ・ティーダの獄中記「良心の囚人*―インセイン刑務所を通じての私の歩み」を読んで (5)
- 2017年 3月 30日
- カルチャー
- 書評野上俊明
<試論的考察―マ・ティーダの生き方が示す四つの可能性>
Ⅰ上座部仏教の可能性を拡げる
マ・ティーダは、ミャンマー人の道徳的な基礎となっている戒律遵守※の首尾一貫した生き方を発展させる複数の方向性を示唆しています。※最も基礎的な戒律は、モーセの十戒に非常に似ています―嘘をつかない、人を殺さない、不倫をしない、酒を飲まない、盗まないという五戒です。
①グローバリゼ―ション世界が促進する過度な競争、効率化、営利追求に対するブレーキとしての仏教の役割。仏教はもともと脱現世を志向し、マ・ティーダが表明したように現世の栄達には無関心です。限界なき利潤欲、支配欲の拡大に対して、自我の滅却や知足(足るを知る)を教義の中心としている仏教に倫理的抑制効果を期待するのは、あながちアナクロニズムとはいえません。ただし科学技術文明の抑制と均衡という文明論的役割を果たすためには、仏教の側に尊大な自己中心主義や現世への無関心を克服して、他宗教、科学技術者、一般市民との対話の土俵にまず上らなければなりません。
②マ・ティーダの獄中闘争が示したように個人の精神的自由の自覚を促すこと。キリスト教文明がもたらした内面的精神的自由は人類の文化遺産であり、仏教徒もそこを学ぶべきでしょう。個人の精神的自立のない戒律遵守は、人のより善き生き方のために戒律があるのではなく、戒律のために人があるという顚倒した事態を招来する。人はイエスが批判したパリサイびとのように戒律の奴隷になってはなりません。植民地支配や軍部独裁という過去を克服するためにも、マ・ティーダが範を示した「自由と自尊」にこそ重点価値をおくべきです。
③解脱をめざす瞑想法につきまとう個人主義(利己主義)を克服して、戒律に根ざす道徳心を公共的精神まで高めること。慈悲の精神(仏教ヒューマニズム)を強化するとともに、西ヨーロッパにおいてのみ発達した「市民社会」から学ぶこと。西洋文明と東洋文明を比較研究した碩学たち※が、西欧文明の中核であり、東洋に決定的に欠けているものとした市民社会は、高度な機械化文明をもたらすとともに、基本的な人権という偉大な観念を生み出す母胎となったものです。
※記念碑的労作「中国における科学と文明」(1956年)の著者J・ニーダムは生涯の研究を回顧して、西洋と東洋を分ける決定的なモメントとして、市民的エートス、市民社会の有無を挙げました。たしかに中国の目覚ましい経済発展は、それと裏腹に市民社会なき近代化、人権軽視や環境破壊を条件としているという点で、ニーダムの予言が的中しているとみることができます。
④マ・ティーダにはこの点での明言はありませんが、仏教に限らず道教、ヒンズー教などの東洋の宗教、哲学は、共通して自然を道具化し搾取する観点はなく、もともと有機体論的でエコロジカルな発想をするが故に、過度な機械文明化を抑制中和する役割を果たしうるでしょう。
Ⅱ西洋医学と仏教的倫理観の宥和
マ・ティーダは西洋医学により育てられた外科医です。西洋型の医療技術者であるとともに、信仰心の篤い仏教徒です。つまりマ・ティーダという一個の人格において、歴史的由来の異なる二つの信念体系が併存していますが、この二つを自覚的に対質させ宥和させて、統一した倫理体系をつくるというのがこれからの課題になります。西洋医学の主たる方法は分析―総合の方法です。生体という有機的全体をを部分的要素の集合とみなしてその機能分析をしてその障碍に対処する方法は、巨大な成功を収め人間の寿命延長に大きく貢献しています。しかしその一方で新自由主義的市場経済の圧力の下、生命科学の名において身体を部品化して商品化しようとする動きも強まっています。また遺伝子治療分野では遺伝子操作の可能性と限界が議論になっています。
対して東洋医学の方法は直観的、全体的でありますが、現状の西と東二つの方法の併存という域を超えて、統一した生命倫理の確立をめざすべきだと思います。
Ⅲ 科学技術と芸術(文学)との宥和を通じた全体的人間の再生
科学技術がもたらした巨大システム社会において効率と利潤を追求するだけの生活は、多く働き手たちに生きる意味や価値をもたらしてはおりません。解雇や非正規労働者への転落の目に合わない場合でも、巨大システム社会における分業とIT化の中で、人間存在は代替えのきく一歯車として断片化し、いわゆる人間疎外の状態におかれています。インターネットによりコミュニケーションの手段は洗練され高速化しても、生身の人間同士の共感や連帯感はますます後退しています。職場外の社会もますます大衆社会化し、人々は群衆のなかにあって原子化し孤立化し、若者ですら多くが、蟻地獄のような孤独とそれに由来する精神的荒廃から抜け出られないでいるのです。
こうした人間の全体性喪失と孤独は時代の社会的病理ですが、宗教と同様に芸術もまた伝統的には人間性回復のための有効な一手段でした。2500年以上前の古代ギリシアでは、
全的人間の実現という理想が、若者たちの教育にも貫かれていました。古代ギリシアは西洋文明の際立った特徴である理性とロゴス(論理)を重視したことが知られていますが、実はその一方でポリス(都市国家)の担い手である市民に欠かせないのが豊かで柔らかな感受性や情緒であり、健全な肉体であると考えたのでした。そのために若者の教育は、哲学(論理学)のほか音楽と体操を必須科目としていました。人類史に燦然と輝く古代ギリシアのイオニアの自然哲学やソクラテス、プラトン、アリストテレスたちの倫理学、論理学、形而上学のほか、ギリシア悲劇や喜劇、ギリシア彫刻等の芸術は、人類の永遠の文化遺産として今日なお我々を魅了してやまないのです。
グロバリゼーションの画一化作用に対しては、利己的ではない個性の復活を、文学はじめ芸術は個性的質的原理なしには成立しえないが故に、機械化文明のもたらす一面的な作用(質の無視と数量への還元と計算合理性の優勢)の中和のためには不可欠であります。世界史上同じころ釈迦やアリストテレス、孔子が同じように唱えたのも「中道倫理」でした。我々の再生のためには、中道倫理の再興が必要でしょう。その意味で望蜀の感がありますが、マ・ティーダへの特別の期待と依頼として、88世代の体験を昇華し、現代人の生き方に一石を投じる文学作品をつくり上げてほしいのです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0453:170330〕
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