ハルビン学院記念碑祭のこと
- 2017年 4月 19日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
4月15日(土)は有意義な1日であった。
午前11時から午後1時過ぎまで、高尾山近くの高尾霊園で行われた「第18回ハルビン学院記念碑祭」に参列した。ハルビン学院第21期故内村剛介先生との縁で出席するようになった。高尾霊園は花盛りであった。
大日本帝国の植民地経営の知的拠点として、満鉄調査部の外に上海の東亜同文書院大学と満州国立ハルビン学院大学が活躍していた。昭和20年8月 敗戦と共に両者は消え去った。しかしながら、前者は早くも翌年に愛知大学となって再建されている。後者は関係者やその周辺の人々の記憶に強く刻印されながらも、組織的伝統は消え去った。私は内村剛介に生前何回かその訳を問うてみたが、明瞭な答えはなかった。今日、愛知大学は現代中国調査研究等で私学の雄となっている。ハルビン学院が敗戦後再建されていれば、ロシア・ユーラシア研究教育の一大拠点となっていたはずである。何故に両者の運命に差が出たのであろうか。両者の知性・知力・教育力に差があったわけではない。
ここに歴史の狡智、運命のいたずらが働いていたようだ。
ハルビン学院最後の院長渋谷三郎は、昭和11年(1936年)2・26事件の際に決起した近衛師団の連隊長だった。反乱部隊も渋谷三郎も前後して満州へ移動となった。そして、満州国治安部の次長となり、やがてハルビン学院の院長となった。内村剛介によれば、渋谷院長の下で日本本国では消えてしまった学園内リベラリズムが生き残っていたと言う。敗戦時に自決を遂げた。それに対して、東亜同文書院大学の最後の学長本間喜一は、東京帝大法科卒で、東京商科大学(現一橋大学)の教授であったが、昭和10・11年(1935・36年)の有名な東京商科大学騒動事件で抗議辞職、やがて上海の東亜同文書院に迎えられ、そして最後の学長となる。渋谷は自決し、教職員はバラバラに行動せざるを得なかった。本間は生きて教職員と一緒に帰国し、ただちに学園の再開をはかった。国家に殉ずるを運命付けられた院長と学問に殉ずるを運命付けられた学長の差であろう。
ハルビン学院記念碑祭には富士高女の卒業生や遺族もまた参加されている。どうもハルビン学院と富士高女は、一橋大学と津田塾女子大のような関係だったらしい。両校の校歌が唱われた。歌詞だけを読むと、高女の方が大日本帝国の志向を強く反映している。例えば、「嗚呼往く年の伊藤公 勲は高し忠霊塔 野辺に並立つ志士の碑に 若き血潮は燃ゆるなり」。両校歌に共通するのは、ハルビン市を流れる松花江である。ハルビン学院は「松花の流れ手に汲みて 東亜の渕にいざつらむ」と始まり、富士高女は「沃野はるけき北満の 中を貫く松花江」と唱い出す。歌唱に唱和しようとしながら、私の心はざわつく。何故か。1週間前の4月9日(日)、中野区の某所で加藤哲郎による公開講演を聴いていたからだ。テーマは関東軍細菌戦731部隊であった。そこで配布された資料に8月10日 朝枝繁春による731部隊の「徹底的爆破焼却、徹底防諜」大本営命令があった。その第3項に「建物内のマルタ[捕虜]は、之また電動機で処理した上、貴部隊のボイラーで焼いた上、その灰はすべて松花江[スンガリ]に流しすてること」(強調は岩田)とあった。校歌における松花江は「欧亜の文化」興隆への日本人青年血気のシンボルであるとすれば、朝枝命令の松花江は日本人が犯してしまった超人悪のシンボルになってしまっていた。
私は満開の桜が散りそむる心地良き風の中でこんな心のぞわつきを味合った。学院の、高女のハルビン。731部隊のハルビン。その間に在るものは何か。
谷あひの桜ふぶきにスンガリの校歌ひびきて亡きし師思ほゆ
ウラルまで大やまとなりと夢見てしわく児敗れし高尾に眠る
平成29年4月17日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion6622:170419〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。