維新と日本近代・1 「王政復古」というクーデター ―津田左右吉「明治憲法の成立まで」を読む
- 2018年 5月 3日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「いわゆる王政復古または維新が、その実少なくとも半ばは、皇室をも国民をも欺瞞する彼等(イワクラ・オオクボら)の辞柄であり、かかる欺瞞の態度を彼等が明治時代までもちつづけてきた証跡が見える。」
1「王政復古」という政変
「王政復古」とは、辞書的にいえば、薩長同盟を軸とした武力討幕派によって画策された政変、すなわち徳川幕府という将軍的権力体制を廃して、天皇親政による新しい権力体制の確立を企てた政変である。慶応3年(1867)10月、公議政体論の構想などにもとづいた大政奉還が行われたが、薩摩・長州藩の討幕派藩士西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らは、朝廷革新派公家の岩倉具視らとともに天皇親政をめざす武力討幕を構想し、討幕の密勅を出させた。12月9日、薩摩・尾張・福井・土佐・広島5藩の兵によって宮門を固めさせ、天皇が学問所でいわゆる「王政復古の大号令」を発した。それは徳川慶喜の政権返上と将軍職辞退を認め、摂関制と幕府制とを廃し、総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を設置して新政府を構成し、神武創業への復古、開化政策の採用などを宣言するものであった。だが政権を返上した慶喜を議定にした新政権を主張する公議政体派がなお新政府の多数を占めていた。西郷らは謀略的工作をもって幕府側を戦争に導いた。鳥羽伏見の戦いといわれる幕府軍との交戦はわずか四日間の戦いで薩長軍の勝利に帰した。それ以後薩長討幕派が日本の新権力体制と政治変革の方向を決定づけていくことになる[2]。
「王政復古」とは「明治維新」という近代世界に向けての日本の変革を方向づけ、性格づけていった重要な政変である。その政変自体は、上に見てきたように、薩長両藩の討幕派という武力的政治集団による政権奪取の政変であった。それゆえこの政変を歴史家は「王政復古クーデター」ともいうのである[3]。「王政復古」が武力討幕派によるクーデターであるならば、「王政復古」とはその政権奪取の政変を正当化し、慶喜ら公武政体派を政治的にも屈服させる政治理念的な標語だということになる。たしかに神武創業という神話的古代への回帰をいう「王政復古」とは、この政権奪取者たちにとって理念的にも、また現実的にも最も望ましい政治標語であったであろう。なぜなら「王政復古」という神話的理念の政治的現実化は、すべて政権奪取者の恣意に任せられることになるからである。
「王政復古」が武力討幕派の企てた政変であり、クーデターであったことを戦後の維新史はわれわれに教えている。だがこの「王政復古」が政権奪取者の手に握られたとき、それはきわめて危険な政治理念となることを歴史家は説くことはなかった。「玉」のもつ意味というものは、「玉」を掌握するものの恣意性にあることを私に教えたのは津田左右吉であった。明治維新とその前後をめぐって晩年の津田が書いた論文「明治憲法の成立まで」であった。私がいまここに書こうとしているのは津田が私に与えたこの教えをめぐってである。だが津田のこの教えをめぐって書く前に、「王政復古」と「明治維新」とを等置して維新史を、さらに昭和にいたる日本近代史を塗りつぶしていった「王政復古」史観について見ておきたい。
2 聖徳記念館の「王政復古」
私はこの三月に思い立って神宮外苑の聖徳記念絵画館を訪ねてみた。昨年来私がしてきた「明治維新」の読み直し作業がはじめてそのことを私に思い立たせたのである。この記念館には明治維新に始まる近代国家日本の形成過程が明治天皇の聖なる事蹟として絵画化され、「壁画」[4]として展示されているのである。その壁画はほとんど明治天皇の臨在する場面として描かれている。それはまさしく「王政復古」すなわち「天皇親政」による明治近代国家形成の大業の絵画的展示だといいうるものである。
記念館はここに掲げられている絵画を壁画といっているが、そのもっとも古いものは大正15年(1916)に描かれたものであり、ほとんどは昭和の11年(1936)にいたる時期までに描かれたものである。だからこの記念館とは昭和による明治天皇と明治国家の顕彰であるのだ。そのことは「王政復古」すなわち「天皇親政」による近代日本国家の形成という日本近代史を、その史観とともに完成させたのはアジア・太平洋戦争を遂行した昭和だということを意味するだろう。これもまた例によって結論を先取りしていう私のくせである。だが私がここで記念館の壁画をめぐっていい始めたのは、そのことをいいたいためではない。
明治天皇の「御降誕」から始まって「大葬」に終わる80点の壁画の中に「王政復古」と題された壁画がある。これは第5番の「大政奉還」に続く第6番目の壁画で、島田墨仙の描いたものである。私にとって意外であったのは、これが政変としての「王政復古」の場面を描いていることである。「王政復古」とは、この理念の実現史として明治天皇史=明治国家史を絵画化する記念絵画館の中心的テーマであるはずである。その「王政復古」の絵画化としては、政変場面を描くこの壁画は私には意外に思われたのである。もっと高貴荘重な「王政復古」大号令の場面が描かれていることを私は予想した。
だが壁画はその大号令が発せられた慶応3年(1867)12月9日の夜、宮中小御所(こごしょ)で開かれた会議の模様を写すものであった。この絵は、「王政復古」の大号令が発せられたものの、なお新政府内部に公武政体派と武力討幕派との間に徳川慶喜の処遇をめぐる対立が存在することを示すものである。公武政体派の議定山内豊信(容堂)を討幕派公家の参与岩倉具視が激しく論難する場面が描かれている。御簾の内には元服前の若い明治天皇が描かれ、手前の一段低い座には上座の公家・藩主たちと異なる藩士層のものが控える形でいる。背中を見せているのが参与大久保利通だとされている。このあたかも革命評議会風の「王政復古」図は『明治天皇紀』などを基にして描かれたもので歴史的実証性をもったものだとされている。そうであるならばいっそう、「王政復古」がこの宮廷評議会を占拠する武力討幕派によって遂行されたクーデターであったことをこの図は明らかにしているのである。
明治日本の帝国的国家形成を「王政復古」=「天皇親政」という歴史的理念の実現史として描き出す聖徳記念館の壁画群は、「王政復古」と題されたスキャンダラスなクーデター的事件の始まりというべき場面の図をもっているのである。この「王政復古」というスキャンダラスな事件性を島田墨仙は岩倉具視の野卑な権謀家的風貌の上に表しているように私には思われる。その岩倉に正面して坐する山内容堂の端然たる姿に画家はむしろこの歴史的事態における正しさを写し出しているようだ。「王政復古」=「天皇親政」とは近代日本が創り出したスキャンダラスな時代錯誤の製作物かもしれないのだ。
またまた私はここでいうべきことではないことをいってしまっている。だが島田の描く「王政復古」図を見てこんな感想を私が抱いたりするのは、晩年の津田による明治維新をめぐる文章を読んだからであって、それなくしてはこの図の異様に気付くことさえなかったであろう。津田の明治維新をめぐる諸論によってはじめて、「王政復古」が武力討幕派の策謀によるクーデターであったことを、そしてこの事件が日本近代国家史の上に重大な刻印を強力に捺していったことを知ったのである。津田にこのことを教えられるまで、私は「王政復古」を「明治維新」と等置して疑うことはなかった。もし津田にそれを教えられる以前に聖徳記念絵画館を訪れたならば、私は島田の「王政復古」図の異様に気づくこともなく、ただ80点の壁画に「王政復古」=「天皇親政」の実現過程としての明治天皇史=明治国家史を確認するだけであったであろう。
津田によって島田の描く「王政復古」図の異様さを知ることとは、この記念館の壁画の総体についての見方、あるいはこの記念館が提示する「王政復古」=「天皇親政」的近代日本国家史という見方そのものの根底的な見直しの必要を知ることでもあるのだ。
3 国史教科書の「王政復古」
「天皇は、その年(慶応三年)の十二月、神武天皇の御創業の昔にたちかへり、御みづから、いっさいの政治をお統べになる旨を、仰せ出されました。まづ、摂政・関白・征夷大将軍などの官職をおやめになり、新たに総裁・議定・参与の三職をお定めになって、有栖川熾仁(たるひと)親王に総裁を、皇族の方々、維新の功臣に、議定あるひは参与をお命じになり、政治をおたすけさせになりました。これを王政復古と申しあげてゐます。やがて各国の使節をお召しになり、王政復古の旨をつげ、開国和親の方針をお示しになりました。
天皇は、諸政を一新し国力を充実して、皇威を世界にかがやかす思し召しから、まづ政治の根本方針をお立てになりました、明治元年三月、文武百官を率ゐて紫宸殿に出御、天地の神々を祭って、この御方針をお誓ひになり、更に、これを国民にお示しになりました。すなはち、
一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ。
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ。
(中略)
一、 智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ。
の五箇条がそれで、世にこれを五箇条の御誓文と申し上げてゐます。文武百官は、しみじみ任務の重大なことを感じ、決死の覚悟で職務にはげむことを、お誓ひ申しあげました。ここに、新政の基はいよいよ定まり、国民は、聖恩に感泣して、新しい日本のかどでを、心から喜び合ひました。」
これは昭和戦争時の国史教科書「初等科国史下」(昭和18年3月発行)の「明治の維新」章の「王政復古」についての記述である。この教書は昭和一桁生まれの私たちが小学校(国民学校)の高学年で習うはずのものであった。習うはずというのは、昭和19年に6年級にいた私には国史をこの教科書で習った記憶はないからである。戦争末期のその時期には教科書による授業などはもうなされていなかった。そのことはともかくとしてわれわれがここに、すなわち昭和戦前最終期の国史教科書に見るべきなのは、「王政復古」史観による明治維新と「天皇親政」的国家日本の形成の記述であり、さらにいくつもの戦争を通じて世界に雄飛する帝国日本の記述である。
「さうして、今やその大業を完成するために、あらゆる困難をしのいで、大東亜戦争を行つてゐるのです。皇国の興隆、東亜の安定は、この一戦とともに開けてゆくのであります。」現下の大東亜戦争をこのように記す国史教科書はその末尾で、「私たちは、一生けんめいに勉強して、正行(まさつら)のやうな、りっぱな臣民となり、天皇陛下の御ために、おつくし申しあげねばなりません」と少国民に皇国への必死の忠誠をうながしているのである。
この「国史」教科書は「王政復古」=「天皇親政」的史観が聖徳記念絵画館とともに昭和日本の制作物であることを告げている。だが明治維新による日本の近代国家形成を「王政復古」と「天皇親政」的理念の実現と見るような史観は、1945年の皇国日本の敗北とともにはたして消滅したのだろうか。
4 明治維新関係書の賑わい
戦後の日本人にとって「明治維新」とは何であったのか。「王政復古」=「天皇親政」としての「明治維新」は、神宮外苑の聖徳記念館とともに人びとに忘れられていっただろうか。聖徳記念館が人びとに見捨てられながらも今に残っているのは、それが明治神宮に所属する施設であるからかもしれない。ところで戦後日本について第二の開国がいわれ、政治革命・社会革命・思想革命としての近代化的改革をGHQの指導下に体験していった日本人は、明治維新に不完全な近代革命をしか見出さなかった。戦後、明治維新にわれわれが見ていったのは、この不完全な近代的革命性であった。
昭和43年(1968)は明治維新100年にあたっていた。雑誌が「明治維新100年」の特集を組んだりしたが、それも全国的な大学紛争の中でかき消されていった。あの大学紛争とは、近代の政治・社会制度的な遺物としてある大学の学問的制度的体系を解体的批判するものであった。その当時まで東京大学文学部の研究室には明治以来の主任教授たちのご真影が飾られていたのである。普遍的真理の府としての大学は、日本近代の天皇制的権威主義をそのままに残していた。学生たちの解体的批判はこの日本近代そのものの制度的構成物としての大学という学問的装置に向けられていった。それは日本では希れな原理主義的性格をもった闘争であった。だがその闘争が内部抗争化し、暴力化し、そして自滅するかごとく制圧されていった後に、われわれは大学に何を見出すことになったのか。合理的経営体であることを要求する大学改革という上から吹きつける嵐に、大学はもうそれに抵抗する力を内部に全くもっていなかった。
それから50年を経て、いま「明治維新150年」を迎えている。50年前の「明治維新100年」はジャーナリズムによっても、大学人によっても積極的に迎えられることはなかった。明治維新に始まる「この近代」そのものが問われねばならなかったからである。だが「明治維新150年」をいわれるいま、書店の店頭を賑わす明治維新関係書の多さに私は驚いている。日本近代史や日本政治史、日本政治思想史の専門家たちが競うように書き、その売れ行きを誇るかのようである。この50年で大学も大学人の発する言説の質もまったく変容した。いま書店を賑わわす明治維新関係書も、この変容を物語るものであるだろう。
5 「王政復古」の評価
私はもう一度ここであの「王政復古」クーデターを高く評価する日本近代史家三谷博の『維新史再考』[5]の言を見ておかねばならない。
慶応3年の薩摩の政治的転換、すなわち薩長同盟による武力的政権奪取をめざす反幕運動への転換を三谷もまたクーデターとしている。だが津田左右吉に明治維新をも薩長による政権の非正当的奪取行為とみなさしめたこのクーデターを、三谷は新国家の創設を可能にした歴史的な意味をもった討幕運動として積極的に評価するのである。鳥羽・伏見の戦いにおける薩長連合の勝利をめぐって三谷はこういっている。
「この鳥羽伏見の戦いは小規模な戦闘であったが、政権と日本の行方を左右する分岐点となった。勝利者の薩・長は新政府における主導権を獲得し、日和見を決め込んでいた諸大名は次々と雷同、その結果、秩序の抜本改革への道が開かれることになった。徳川慶喜が新政府の首班となっていたならば、新国家は王政下の連邦の域に留まったことであろう。王政復古を機として公議と集権と脱身分を狙う点で、二つの王政復古案は同じ方向を目ざしていたが、薩・長による徳川権力への挑戦と破壊は、より急進的かつ徹底的な変革を可能にしたのである。」[6]
三谷がここで「薩・長による徳川権力への挑戦と破壊は、より急進的かつ徹底的な変革を可能にした」というように、慶応3年の「王政復古」クーデターによる討幕と政権奪取に大きな歴史的な意味を見ているのである。三谷はこの歴史的な意味を「公議」と「集権」と「脱身分」という三つのキーワードをもって読み出している。「公議」について、「公議輿論」という意だけではなく、「人材の登用や政権への直接参加を求める主張をも」この語に含めて考えると三谷はいう。「集権」あるいは「集権化」について三谷は、「近世の日本は二人の君主と二百数十の小国家群からなる双頭・連邦の政治体制を持っていたが、これを天皇のもとに単一の国家に変える。これが集権化である」といっている。また「脱身分」については、「政府の構成員は生まれを問わずに採用し、皇族・大名・公家四百家あまり以外は、被差別民も含め、平等な権利を持つ身分に変える。これが脱身分化である」[7]と三谷はいっている。
だが明治維新とそこから成立する国家的、政治的体制の歴史的な意味を読み出すために構成された「公議」「集権」「脱身分化」という〈鍵〉概念のあり方を見ていくと、これらはただ後進アジアの地で、政治的犠牲者の極めて少ない変革を経て、短期間に、成功裡に成し遂げた近代日本国家の創出を称えるがごとく、この歴史家によって後追い的に構成された概念だといわざるをえない。彼は「天皇親政」的近代国家日本を導いた「王政復古」の理念とその運動に、近代的統一国家日本における君主的主権の確立をしか見ようとはしない。
「近世の日本は二人の君主」をもっていたとする三谷は、「そもそも世界一般に君主はただ一人なのが普遍的な姿なのであって、六〇〇年そこから逸脱していた日本は、西洋による侵略に深刻な危機を感じた時、政権の一元化を緊急課題とした。君主の一身に国内にある大小様々の領主を超越する権力を集中するという運動が生まれ、それが結果的に十七世紀の西洋が生み出した「主権」の原理に適合する政治体制を創りだしたのである」[8]という。
しかしこれは明治維新による日本の近代化革命を十九世紀世界史、すなわち西洋的「近代」として政治的、経済的、文明論的にアジアの再構成的包摂が進められる世界史におけるすぐれた対応事例として読むことではないか。まさしく三谷は明治維新と日本近代をそのように読んだのである。だからその書の末尾で、「人類の「近代」には、西洋でいくつかの重要な秩序原理や知的枠組みが生成した。十九世紀の第3四半期に日本で生じた明治維新は、このような環境で発生した事件の一つであった。・・・新政府を創ってからは意識的にこれらを応用し始め、「公論」を「民主」に発展させて、現在に至っている」というのである。三谷は西洋的「近代」の日本における達成に、その「近代」概念とともに疑うことをしない。この「近代」を疑うことのない歴史家たちによって、いま「明治維新」は蝶蝶と語り出されているのである。「「近代」の西洋が創り出したモデルを上回り、人類に普遍的に歓迎されるような秩序規範ははたしてどこに生まれるのであろうか。」これはこの歴史家がその著書の最後に記す言葉である。
6 「王政復古」は討幕の具
津田左右吉はいわゆる「明治維新」を封建反動的な性格をもった政権奪取のクーデターとしている。津田が討幕派を「反動勢力」とするのは、むしろ幕府の側に「現実の情勢に対応して日本の国家の進んでゆくべき針路を見定め、それがために幕府の従来の政治を根本的に改め」ようとする国策が成立していたのに対して、討幕派は「現実を無視した空疎な臆断と一種の狂信とによって、この国策を破壊せんとするもの」であったからである。そこから「明治維新」に向けての運動も、その達成も反動的な性格をもって規定される。恐らくこれは「明治維新」をめぐる日本人によるもっとも否定的な規定であるだろう。
「それは封建の制度の上に立ち、そうしてそれを悪用し、戦国割拠の状態を再現することによって日本の国家を分裂に導き、また武士の制度の変態的現象ともいうべき暴徒化した志士や浪人の徒が日本の政治を攪乱し日本の社会を無秩序にすることによって、究極にはトクガハ氏の幕府の倒壊を誘致し、もしくは二、三の藩侯の力によってそれを急速に実現しようとしたことである。」[9]
明治維新に向けての討幕派の運動を封建反動とする津田の維新観は、昭和三三年(1957)に『心』誌上に公表されたものである。この論文を含めて津田の明治の維新とその後をめぐる諸論文は、昭和三六年の死にいたる津田の最晩年ともいうべき時期に発表されていったものである。明治維新を日本近代の正統的始まりとする維新観に支配されてきた二〇世紀日本にあって、津田は己れの維新観、すなわちこれを封建反動的なクーデターとする見方を公けにするには晩年のこの時期まで待たねばならなかったのであろうか。
だが津田が己れの維新観を公けにしていったこの時期、やがて「明治維新一〇〇年」を迎えようとしていたその時期に津田の明治維新論にだれが注目しただろうか。その注目者を寡聞にして私は知らない。これを書く私もまた「明治維新一五〇年」がいわれる二一世紀の今にいたるまで、津田のそれらの文章を読むことさえしなかったのである。だが津田「国民思想」論の最終章として彼の「明治維新論」を書くにあたって、はじめて私は津田最晩年の維新とその後をめぐる諸文章を読んだのである。私はこれらの津田の文章を読むことによってはじめて維新からこの日本近代は自明な展開としてあるものではないことを知ったのである。
維新を薩長両藩による封建反動というべき政権奪取のクーデターとする津田は、「王政復古」に討幕の私的性格を隠す偽りの名義を見ることになる。いわゆる「討幕の密勅」について津田は、「浪人輩志士輩の心術態度を継承した薩長の策士が一部の宮廷人と結託してかかることをしたのは、怪しむに足りないであろう。反幕府的行動をとるものによってそれに類することのしばしば行われたのが、当時の状態であった。ただ詔勅としてはあるべからざるかかる誣罔の言を詔勅の名によって示すことが、王政を復古するに必要であったとするならば、かかる方法による王政復古には、初めから濃き暗影が伴っていたに違いない、或は不純な分子が含まれていたとしなければならぬ」というのである。慶応3年12月の「王政復古」政変を討幕派のクーデターとするならば、「王政復古」そのものに濃い暗影が伴われるとするのは当然であるだろう。津田はさらにいうのである。「もう一歩進んでいうと、王政復古はかえって幕府討伐の名義とせられたようにさえ見えるのである。」[10]
「王政復古」とは討幕派の私党的政権奪取が借りた名義であり、討幕派の掲げる偽りの旗幟だということになるのか。津田がいうように一歩先に進んでいい切ってしまえばそうだ。だがそういい切ることによって何が変わるのか。「王政復古」=「天皇親政」的日本近代国家の形成のあり方が変わるわけではない。だが「王政復古」を討幕派の名義とする見方は、津田の次のような「天皇親政」的国家とその政府についての根底的批判を可能にするのである。
津田は「王政復古」以前の徳川幕府時代の皇室と政府との関係は近年のイギリス王室と政府・国民との関係に類似したものであったという。
「近年のイギリスの国王はみずから政治の衝に当らず、ただ近代になって養われてきた道徳的情味の饒かな国民的信望をとおして、国政におのずからなる暗示を与えるのみであるが、法制の運用も究竟には道徳的なはたらきにまつものがあるのである。そうしてイギリスの王室のこの態度は、遠い昔から政治に対して直接に関与せられなかったために、かえって精神的に民衆と接触し民衆と一つになっていられた我が皇室のとの、類似のあることが考えられる。宮廷と政府とが全く区別せられていたトクガハ氏の幕府時代の状態は、それを示すものである。」[11]
だが幕末にいたって「誤った勤王論が一世を風靡し、その結果、いわゆる王政復古が行われて、皇室を政治の世界にひき下ろし、天皇親政というが如き実現不可能な状態を外観上成立させ、従ってそれがために天皇と政府とを混同させ、そうしてかえって皇室と民衆とを隔離させるに至った」と津田はいうのである。われわれはここに津田の反討幕派的維新観が党派的な非難をこえた根底的な批判を「王政復古」的明治専制政府と国政に向けてなされていることを知るのである。「王政復古」「天皇親政」の名によってする皇室と政府との混同がもたらす明治政府の失政を激しく非難する津田の言葉を引いておこう。
「トクガハ氏の家臣などが武力によって薩長政府に反抗したことにはそれだけの理由があったが、薩長政府はこういう(彼等を逆賊とする)態度をとったのである。天皇と政府との混淆は、時の政府に拠っている権力者が名を天皇にかりてその権力を用いるに恰好の事情である。」
「ただ彼(イワクラ)について特にいっておきたいこと、キドやオホクボについていったよりも一層強くいわねばならぬことは、天皇が政治の実権をもたれ、みずから政治の衝に当られることになると、政治上の責任はすべて天皇に帰することになるが、それでよいのか、また天皇の政治といっても、それは天皇御一人でできるはずはなく、政府の補佐が必要であり、また政府によって執行せられねばならぬから、それは天皇と政府とを混同することになるが、その政府には何人が当りそうしてどういう責任をもつのか、畢竟天皇と政府との関係をどう規定するのか。」
「オホクボが君権の強大を標榜し、イワクラが確然不動の国体の厳守を主張しているにかかわらず、その実、彼等が維新以来ほしいままに占有してきた政権の保持を画策するに外ならなかったことを示すものである。彼等の思想は、皇室と政府とを混同し、政治の責を皇室に帰することによって、みずから免れ、結果から見れば畢竟皇室を傷つけるものだからである。そうしてそこに、いわゆる王政復古または維新が、その実少なくとも半ばは、皇室をも国民をも欺瞞する彼等の辞柄であり、かかる欺瞞の態度を彼等が明治時代までもちつづけてきた証迹が見える。」
これらの言葉は、「王政復古」維新を近代日本国家の正統的な始まりとする日本の歴史家・政治史家に聞くことのまったくない言葉である。だが津田はいうのである。「王政復古」クーデターが「天皇親政」を騙った明治政府による専制的国政を可能にしたのだと。昭和の天皇制ファシズムによる軍事的国家の成立を「王政復古」維新と無縁ではないと考える私は、津田の維新をめぐる論考を大きな助けとして「明治維新150年」を読み直したいと思っている。
[1]津田「明治憲法の成立まで」『文学に現れたる我が国民思想の研究五ー平民文学の時代下』所収、津田左右吉全集・第八巻。
[2]「王政復古」政変をめぐるここの記述は、主として角川『日本史辞典』(1996)によりながらしている。
[3]たとえば井上勝生『幕末・維新』(シリーズ日本近現代史①)岩波新書。
[4]聖徳記念絵画館は掲げられた絵画を「壁画」と呼んでいる。
[5] 三谷博『維新史再考—公議・王政から集権・脱身分化へ』NHK出版、2029。
[6] 三谷・「第十二章 明治:政体変革の三年半」引用文中の傍点は子安。
[8] 三谷「終章 明治維新と人類の「近代」」『維新史再考』。
[9] 津田「第四 幕末における政府とそれに対する反動勢力」『文学に現れたる我が国民思想の研究五ー平民文学の時代下』所収、津田左右吉全集・第八巻。
[10] 津田「第八 トクガワ将軍の「政権奉還」」『文学に現れたる我が国民思想の研究五ー平民文学の時代下』所収、津田左右吉全集・第八巻。
[11] 津田「明治憲法の成立まで」『文学に現れたる我が国民思想の研究五ー平民文学の時代下』所収、津田左右吉全集・第八巻。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.05.01より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study968:180503〕
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