わが雑学・三浦梅園のこと
- 2019年 7月 2日
- スタディルーム
- 野上俊明
はじめに
一時はやりかけたものの、すぐ消えた感のある「グローカル」という言葉。グローバルとローカルの合成語で、地球的視野と国際連帯ならびに地域性重視の両面を統一したものとして、好感が持てた。普遍性と特殊性をひとつに畳み込んだ21世紀的な在り方、生き方を示唆するように思われたからだ。しかし現実には、グローバル的側面は資本の論理によって紆余曲折がありつつも―保護主義の抬頭もあるー強力に進められる一方、ローカル的側面はナショナリズムのチャンネルへ引き込まれて、健全な発展が阻まれている。コミュニティ(地域社会)の構成要素たる家族愛、路地裏的ぬくもり、マイタウン意識、郷土愛などには警戒心が先に立って、「故郷喪失」、「存在喪失」のままに放置され、人間のきずなはボロ切れのようにズタズタになっている。傑出した文明批評家でもあったL・マンフォードは、世界のグローバル化を予見した中で、人間の基礎的集団(コミュニティ)の教育的人間的機能の重要性・不可欠性を強調した(「人間の変容」1956年)。それがいかに優れた洞察と時代的見通しであったかは、今日のグローバル化のなかでのすざましい人間危機を見ればわかるであろう。
伸びやかなローカリズムに必要なのは、はやり生産の論理、まち・むらおこしの論理―生産と生活の論理―の裏付けである。それらは、retrospective(懐旧的)―もちろんこの要素も不可欠であるーにとどまらず、prospective(未来展望できる)要素を生みだせるからだ。気取っていえば、過去―現在―未来という生の時間構造を充足させられるからである。その意味で我が生を授けてくれた大分県の「一村一品運動」は、グローカルな21世紀的論理の先取りだったように思う。
以下の拙文は、10年ほど前はるかミャンマーの地にて大分県人会発足―邦人組織第一号―の記念として認めたため、いくらか郷党色が出ているかもしれないが、趣旨はグローカリズムの唱道にある。私と出身地を同じくし、現在ドイツの地に滞在するちきゅう座の主宰者の一人合澤氏に本拙文を捧げ、グローカルな思いを共有できたら本望の至りである。
三浦梅園(みうら・ばいえん、梅園は号)は、江戸中期、享保8年豊後国東半島の僻村(大分県国東市安岐町富清―旧杵築藩国東郡富永村)に生まれ、そこで一生涯町医を本業として儒学の私塾も開きながら、そのかたわらある意味でヨーロッパ自然哲学に内迫する「条理学」という難解な形而上学体系を打ち立てました。
大分県の地図を開き国東半島――少年時代、私は父の机の前の壁にはられた大分県の地図を見て、つくづくひとの頭に似ているものだといつも思いました――をよくみると、半島中央の両子岳(標高700m)の別府湾寄りの中腹に小さく富清と記されています。よく注意しなければ、ほとんどの人が見落としてしまうほどの小さな町です。どうしてこんな片田舎に一生埋もれるように暮らしながら、近代の暁鐘ともいえる独創的な知の体系を築き上げることができたのか。梅園の業績が一般に評価されるようになったのは戦後で、とくにあの鶴見の鉄道事故で亡くなった哲学者の三枝博音先生のおかげです。先生は国粋主義の荒れ狂うファシズムの時代に封建時代の思想史を洗い出すなかで、ヨーロッパの近代思想に匹敵する独創的な業績をあげた一人の思想家を豊後・大分県の寒村に発見したのです。ちなみに梅園とほぼ同時代、東北の秋田や八戸で同じように町医を営みながら独創的でかつ仮借なき封建制度の批判を行なった安藤昌益(1703~1762)ともども、不思議の感に打たれます。昌益も漱石の親友である京大学長・狩野亨吉によって発見されるまでは、「忘れられた思想家」(H・ノーマン)として歴史に埋もれていたのです。
空海や道元ならば、まだ分かります。かれらは名家の出身であり当時の社会の中では中国留学経験もある第一級の知的エリートだったからです。個人のおかれた知的条件からいえば、梅園や昌益は前者とは比較にならぬほどハンディキャップを背負っていたはずです。ただ昌益の暮らした東北は化外の地に近く、それに比べればまだ豊後ははるかに経済的文化的に恵まれていたといえるのかもしれません。戦国時代にはキリシタン大名大友宗麟が一大版図を築き、かのフランシスコ・ザビエルの域内での布教を後押しし、かつ天正遣欧少年使節団の一人として国東半島出身のベドロ岐部を送り出したことからも分かるように、一時は大航海時代の世界とも直接つながっておりました。残念ながらこのあと鎖国政策がとられ、郷土の国際的なつながりは強制的に断ち切られてしまいます。
鎖国令以後100年ほど「暗黒」時代が続きますが、それでも海外雄飛の夢は完全に消えることなく、熾き火のように燃え続けていたのでしょう。そして18世紀はじめ、貨幣経済の発達とともに石高制を基礎とする封建制度が揺らぎ始めます。幕藩体制の最初の危機に対応して吉宗は「享保の改革」を行ない、寛政(1630年)以来の「禁書の令」を緩和し、青木昆陽などを登用して蘭学の勃興するきっかけをつくりました。そしてこの機運に積極的に応えたのが、豊前豊後(大分県)の小さな支藩も含む諸藩でした。各藩校に蘭学が取り入れられ、特に中津藩主奥平昌鹿(まさか)は、藩医前野良沢(1723~1803)を庇護して蘭学研究を奨励しました。梅園と同年生まれの良沢は先に青木昆陽に蘭学研究を勧められ、47歳にしてオランダ語習得のため藩主の許可を得て長崎に留学したのです。良沢はこの翌年1771年に藩主にしたがって江戸にいき、このとき千住小塚原で刑死者の腑分け(人体解剖)を杉田玄白らとともに実見して、即「ターヘル・アナトミア」(オランダ語訳「解剖図譜」)の翻訳を決意、1774年に苦心惨愴のすえ、「解体新書」を完成させます。余談ですが、実は良沢らが翻訳作業を行なった鉄砲洲の藩中屋敷は、80年ののち福沢諭吉が藩命により蘭学塾を開いた場所にほかならず、したがって慶応義塾の濫觴の地でもあったわけです。私はあるとき聖路加病院内を散策中、偶然にも蘭学発祥の地の記念碑と慶應義塾発祥の地の記念碑が並んで立っているのを発見して、感銘を受けました。近代日本へ向けての精神の聖火リレーを見ている気分になったのです。いずれにせよ、中津藩や日出藩、杵築藩などが競って蘭学を奨励した結果、豊前豊後は 「洋学のメッカ」 として盛名を馳せることになります
※加藤周一「日本文学史序説」のなかに「解体新書」翻訳の機縁に関わって印象的な記述があります。前野良沢や杉田玄白らは小塚原の刑場に死刑囚の腑分けを見に行って大きな衝撃を受け、即座に「解体新書」の翻訳を決心します。「小塚原の刑場に散乱する白骨を見て、彼らは人生の無常を感じたのではなく、人体の構造を解明しようという科学的精神に目覚めたのだ」として、加藤は仏教的な世界観から近代的な世界観へのコペルニクス的転換という歴史的精神的ドラマとして小塚原(現在の荒川区南千住)の出来事を描いています。同じ事実、光景でも異なる参照系によれば、まったく与えられる意味がちがってくることの見事な例証でもあります。
三浦梅園やシーボルトにかかわる蘭学人脈を少し覗いただけで、往時の蘭学熱の確かさが手に取るように分かります。手元にある資料から拾ってみますと、日出(ひじ)出身の帆足万里(1778~ 1852)。直接には脇蘭室(日出、1764~ 1814)の弟子ですが、蘭室が梅園の弟子ですからの梅園閥のひとりといえます。一時日出藩に出仕して家老として藩政改革にあたりますが、職を辞した後は家塾で多くの門弟を育て、蘭学を独習してその集大成として「窮理通」を著しました。梅園、広瀬淡窓(1782-1856)とならんで三大文章家とされ、また豊後の三賢人とされています。「ほあし・ばんり」という語呂もよく、順風に帆をふくらませ、波濤を越えて世界へ乗り出していく様を連想させるいい名前です。
※「福翁自伝」にも帆足万里のことが出ております。「(諭吉の兄も漢学だけでなく)豊後の帆足万里先生の流れを汲んで、数学を学んでいました。帆足先生といえばなかなか大儒でありながら数学を悦び、先生の説に『鉄砲と算盤は土流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せておくというのは大間違い』という説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い」
さらに下って1823年(文政6年)、 ドイツ人シーボルトがオランダ商館医として赴任すると、豊前豊後から多くの蘭学生が続々とその門をくぐります。渡辺崋山とともに「蛮社の獄」事件に連座して囚われた高名な蘭学者に、高野長英 (1804~1850)がおりました。そのかれと同期でシーボルトの鳴滝塾に入門した帆足万里門弟の村上玄水(1781~1843)。長英は脱獄した後、中津に帰って藩御典医となっていた玄水の家に1ヶ月以上かくまわれていたといいます。
また門弟数千人といわれ、若き日の大村益次郎も学んだ日田・咸宜園(かんぎえん)の広瀬淡窓。彼と親戚関係にあった湯布院の日野鼎哉(1797~ 1850)と葛民(?~1856)兄弟。最初鼎哉は帆足万里の門下生であり、のちに兄弟は鳴滝塾生となります。鼎哉は苦心の末、京都に除痘館を創設、家産を投げ打って天然痘克服のため種痘接種法を普及させました。また弟の葛民は、緒方洪庵とともに大阪での種痘普及に努力しました。
さらに国東郡高田(豊後高田)の賀来佐之(かく・すけゆき 1801~ 1857)に鳴滝塾に入門し、シーボルトに4年間ついて医学と植物学(本草学)を学びます。 その後島原藩にて種痘を普及させるに功績がありました。時代は前後しますが、梅園とは文通を通じた知音ともいえる元杵築藩医・麻田剛立(1734-1799)の名も忘れてはならないでしよう。最初天文学・暦法を研究、医学にも卓越しておりましたが、のちに脱藩して大阪で天文学、暦法研究を続けて大阪における蘭学の隆盛に貢献しました。大阪の有力経済人によって設立された町人のための文教機関である懐徳堂の同人。梅園が僻地にありながら情報音痴でなかったのは、麻田ら懐徳堂同人と交流があり、当時最先端レベルの情報や知識のやり取りが可能だったからでしょう。懐徳堂はその後山片幡桃や富永仲基など傑出した思想家を輩出しています。1828年、伊能忠敬作成の日本実測全図の国外持ち出しが発覚したシーボルト事件。この事件で、シーボルトに地図を渡したとして捕われ獄死した幕府天文方・高橋景保(かげやす)の父高橋至時(よしとき)は、剛立の弟子であり、伊能忠敬の先生に当たります。
※伊能忠敬の測地事業に高橋景保らが協力して完成した日本実測全図のプロジェクトは、「解体新書」翻訳事業とならんで江戸時代の一大文化プロジェクトでありました。
こうしてみると、梅園の場合ひとり屹立しているようにみえながら、じつはそのまわりに意外と広い裾野というかネットワークが微弱ながらも広がっていたことが分かります。上にあげた人々のほとんどが医者を本業とすることに注目すべきでしょう。ひとの命を扱う職業というものは、特別な職業倫理を要求するものであります。※そのため医療技術向上に直結する新知識への感受性や要求度が他の職業人より高いので、積極的に蘭学修得に向かったのでしょう。いずれにせよ、仏教や儒教の重苦しい伝統教学からの自由を求め、観察や事実を重視する実証的な科学的精神がようやく芽生え始めることになります
※貝原益軒(1630~ 1714)「医は仁術なり。人を救ふをもって、志とすべし。これ人のためにするは君子医なり。人を救う志なくして、ただ身の利養をもって志とするは、これわがためにする小人医なり。医は病者を救はんがための術なれば、病気の貴賎・貧富のへだてなく、心を尽くして病を治すべし・・・」(養生訓) しかし江戸幕藩体制という身分制社会では、そのことが実現しようもなかったことも事実です。幕末オランダ医官ポンペが幕府養生所にきて西洋医学の方法を伝授したとき、治療に貴践・貧富の分けへだてをしない、そのキリスト教的平等の患者扱いに対し、幕府側から激しい反発を受けました。大分市のウェブサイトによれば、大友宗麟の時代、1557年にポルトガルの医師アルメイダは、他の神父とともに府内病院の建設を行い、我が国で初めて西洋式外科手術を行ない、また当時貧しさのために子どもを捨てたり、嬰児を殺したりする人々の惨状に驚き、宗麟の支持を得て子どもを引き取るための育児院を建設したとあります。ポンぺに先立つこと300年、豊後の先進性がうかがわれますが、現在もアルメイダの名は大分市内にある現役の病院名として受け継がれています。
梅園は二度の長崎遊学と伊勢参りを除いては故郷を離れたことはなく、その点一度外国へ行ったきりで、それ以外は生涯同じ故郷のまちで人々の時計代わりになるような規則正しい生活を送り、「ケーニヒスベルクの哲人」と呼ばれたカント(1724~ 1804)に似ていなくもありません。若い頃にはニュートンカ学にもとづいて「ヵント=ラプラス説」という太陽系宇宙の生成進化につて画期的な学説を発表し、壮年以降は近代認識論へのコペルニクス的転換という哲学的大事業を成し遂げたカントでしたが、生活そのものは生涯独身で地味なものでありました。※
※カントは変人ととられないよう独身の理由をこう説明しています。つまり結婚したかった若い頃は金がなく――カントが安定した教授職に就いたのは40過ぎでした――、生活が落ち着いた頃はすでに女性を必要としなくなっていた、と。
梅園も田舎医者という地味な暮らしぶりの一方、日本の文化的伝統のなかでは突出した独自の思索力で近代的な自然世界像を描き、それはある部分同時代のヨーロッパの機械論的世界像を超える側面すらもっておりました。確かに長崎行きは、ヨーロッパの文物に直接触れられたという意味で重要はありますし、長崎からの新風は絶えず新しい思考材料を梅園に提供したでしよう。しかし同時に麻田剛立ら大阪・懐徳堂系の学者との交流によって受けた知的刺激も、入手した天文地理などの情報や地球球体説)が哲学的世界観として持つ意味を考えさせるうえで大きかったのではないかと思われます。それにしても徳川中期になると、懐徳堂のような半官半民の学問所や家塾、私塾が隆盛なります。幕府統制の枠を超えて自由な知識の交流が活発になるのは、そうした有力町人の教育熱と経済的なバックアップがあってのことだったのでしよう。※
※懐徳堂では大阪商人の子弟が多いからといって、商売のノウハウを教えたわけでなく、商売の基礎になる商業道徳の涵養に努めたのです。つまり商業とは、忠孝を重んじ義に仕えることによって信用を獲得し、そのことによって結果として利益を得る活動なのだとされます。つまり社会の公益性と両立する新しい商業観の確立に努めたのです。次第に台頭する有力商人層は、経済的な力だけではなく、精神的な面でも武士道徳をしのぐものを身につけたいと欲求するようになっていたのです。懐徳堂の大思想家であり、かつ大高利貸商人升屋の番頭だった山片幡桃は第一級の商人としてその代表格であり、家法による規律ある取引によって信用を得て経営拡大し、諸藩の財政再建や金融制度確立や商業発展にも大きな功績がありました。
先ほど少しふれたように、近世日本における近代ヨーロッパ科学(医学、天文学、地理学、植物学)の受容は、八代将軍徳川吉宗が青木昆陽と野呂元丈にオランダ語の習得を命じたときが始まりです。この享保の改革よる洋学の黎明期を担った医者たちは、とりあえずは漢方医であり、そのなかなかから洋学を志し、知の革新の最前線に立つものが現れたわけです。
具体的には、著名な三人たち―中津藩医・前野良沢(1723~ 1803)、若狭小浜藩医・杉田玄白(1733~ 1817)、国東町医・三浦梅園(1723~1789)― の仕事が蘭学勃興の端をなしたのですが、それだけではありません、玄自の「蘭学事始」に登場するだけでも中川淳庵、桂川甫周、大槻玄沢などそれなりに多数にのぼっており、彼らは近世日本の哲学史や科学史に大きな足跡を残しました。
もっとも幕府の洋学奨励の思惑は、あくまで暦法や医療技術の改良、殖産興業といった技術的効用性、実用性のみにあり、封建的な世界観を破壊する近代科学のイノヴェーションの側面は厳しく取り締まりました。それは本家ヨーロッパにおいても同様で、ガリレオらの地動説が伝統的なカトリックの天文観と対立するがゆえに、ローマ法王庁から異端の説として禁止された例は有名です――カリレオより少し前のルネサンス期には、イタリアの哲学者ジョルダーノ・プルーノは、アリストテレス=プトレマイオス天体観を否定し、宇宙は無限(永遠)であるとして神の創造による世界の始まりを否定した咎(とが)で火あぶりの刑に処せられました。
したがって当時の蘭学の修得は、幕藩体制のトップマネージメントの厳しい監視のもと、その許容範囲内で細々と行なわれざるをえませんでした。まして幕府が官学に指定した朱子学(宋代の新儒教)の考え方に対立する説は、異端として厳しい迫害を免れませんでした。わけても松平定信の寛政の改革(1787年)における「寛政異学の禁」以降、多くの蘭学者は厳しい受難に会い、蘭学研究会「尚歯会」(しょうしかい)につどう渡辺華山や高野長英たちは結局死を免れなかったのです(「蛮社の獄」1839年)。事実をつまびらかにし真理を追究するものたちが、真実を恐れて都合の悪い事実をおおい隠そうする専制者、独裁者によって迫害の憂き目に会うのは、古今東西変わることがありません。※
※「蘭学事始」にも、「解体新書」出版に際しての玄自らの危倶、懸念がそれなりに大きいものだったこと述べられています。一前にオランダ事情を紹介した本が、発禁になった例もあるので、この書が禁令に触れ罰せられる恐怖もあったが、わが国の医学の前進のためと覚悟して翻訳出版を決意した。ただ桂川甫周の父甫三が幕府の高位の医務官(法限)だったので、かれに政治工作をして推挙してもらってうまくいった、とあります。
これから梅園の哲学について若干触れようと思いますが、その哲学体系を十全に理解するには、仏教や道教、わけても朱子学の哲学用語(太極、理気、陰陽五行等)や体系についてそれなりの知識と理解をもつていなければならないでしようし、おそらくそれをもってしても梅園独特の難解さの壁を突き破り、内在的な理解に達するのは至難の業でしょう。したがってここではテーマを絞り、私の能力の範囲で近代初頭の西欧の哲学との比較でみて、どういう新しさを梅園哲学はもっていたかを追究してみます。
(依拠するテキストは、梅園哲学入門ともいうべき「多賀墨郷君にこたう る書」や「手びき草」など岩波文庫版「三浦梅園自然哲学論集」に編まれている諸論文です)
近代初頭の科学と哲学は、まず目の前に立ちはだかる封建的呪術的なものの見方や宗教的ドグマにしい闘いを挑み、これらを打破してしつかりした基礎の上に自分自身を確立しなければなりませんでした。ヨーロッパにおけるこうした反封建、反カトリック的な思想運動は、啓蒙主義時代―17世紀から18世紀にかけてイギリスやフランスでひとつのピークを迎えます。それより少し前ルネサンス後期にイギリスではフランシス・ベーコン(1561~ 1626)という人が現れ、啓蒙主義のための地ならし的作業を行ないました。
この人は中世的な学問観とはまったく異なる考えを持っておりました。中世の学問を代表するのはスコラ哲学というものですが、これは「神学の端女(はしため・召使)」といわれているように、キリト教の擁護を主目的にし、神が存在することの証明や教義の弁護に百万言を費やし、現実とは無関係な言葉だけの空理空論に陥つておりました。ところがベーコンによれば、「知は力」(Scientia est potentia.)であるべきであり、学問の本来の目的は、もともと人類の福祉の増大に役立つところになければならない。そして「知が力」であるためには、自然を解明して自然についての証明可能な確実な知識(法則的知識)を獲得し、それを技術的に応用して自然をつくりかえなければならないというのです。この新知識観・学問観を定式化したあまりに有名な言葉が、「自然に服従することによって、自然を支配する」というものです。自然を人間目的に役立てるためには、まず自然のところへ行き、謙虚に耳を傾け、自然が何であるかを確かめなければならない。この自然との新しいかかわり方を示すのが、ベーコンのいう「ノーヴム・オルガヌム(新機関)」としての新学問なのです。自然と積極的にかかわり、観察や実験を通じて自然が何であるかを確かめる。この確かめる具体的な作業手順や規則が、学問の方法論や技術論にあたるのです。しかし実際は自然に対し素直にあたるといっても、人々はあまりにいろいろな先入見や偏見に囚われしまって目を曇らされているので、まずそれらの破壊から手をつけなければならないとして、有名な「イドラ論(idola 偶像、幻影)」を唱えるのです。一イドラとは、ゆがみとか目の曇りというほどの意味です。
1.「種族のイドラ」で、人間の肉体的精神的な特性から来るゆがみ。錯覚や錯視などが典型的でしよう。感覚的知覚の限界をあらわしています。
2.「洞窟のイドラ」で、個人の持つ癖とか、教育や習慣から来るゆがみです。
3.「市場のイドラ」で、人間の交際から起こるもので、言語によるゆがみが典型。
4.「劇場のイドラ」で、既成の学説や通説から起こる先入見や独断というゆがみ。
ところがどうでしょう、この英国経験論の祖たるF・ベーコンとまさに同じことを、わが三浦梅園は述べているのです。梅園は学問をする心構えとして、すべてを疑えとしています。自分に染み付いた「なれ癖」や「習気(じつき)」、つまりものの見方の癖や習慣、先入見を洗い流すには疑いの作業を意識的に行なわれなければならない。天地万物についてほんとうのことが知りたければ、何から何まで疑ってかからなければならない、と。これと軌を一にして、大陸合理論の祖とされているフランスのデカルト(1596~ 1650)という哲学者も、「方法的懐疑」という言い方で疑いの作業を学問的方法の不可欠の一部と位置づけました。さらにはのちのちのことになりますが、福沢諭吉は「学問のすゝめ」で同じように「信の世界に偽詐(ぎさ・いつわり)多く、疑の世界に真理多し」という逆説的な言い回しで、権威への服従、軽信盲信を排し疑うことが真理をつかむうえで重要だと言っております。
具体的には次のように梅園は、知識活動の障碍になるいろいろなゆがみをあげています。
1.俗にいう擬人化の癖。つまり自分にあるものから推して他をみる、あるいは自然現象を人間の業にみたてて解釈するという癖です。中世的な呪術的ものの見方では、たとえば雷は雷神と風神が競って太鼓を鳴らし、風を起こすとから起るということになります。あるいは大地震を神が人々の不信仰に怒って罰を与えたものだというような解釈もそうです。人間の思惑とは切り離して対象そのものに即して、その固有の理(因果関係)一放電現象や断層のずれ―――を解明することが大事なのです。
2.ベーコンのいう「劇場のイドラ」にあたるもので、書物や師の権威に盲従して実地の検証を怠ることを梅園は戒めています。どんなにすばらしい書物や先生でも、それへの疑いがないと「大習気」のもとになると警告しています。
これとの関連で宗教的信念やいろいろな教説の相対性を指摘します。面白いたとえなので紹介しましよう。純真無垢な二人の少年をそれぞれ違う宗派のお寺に預け、十年たって再会させてそれぞれの所見を述べさせたら、どうやってもかみ合わないだろうというのです。同じ理由から梅園は、学問的セクショナリズムを排するのです。自分の信じる宗教や教説を絶対化しないで、他のそれらも同等に真理要求できるものとみることは、いわゆる「寛容の精神」に通じます。近代の自由主義は、この精神にもとづいて良心・思想信条の自由を基本的人権として主張するようになります。
3.これはゆがみというより、一種の技術主義への批判ですが、天文学を研究して天体の運行を計算できても、それだけでは真の学問とはいえないとしています。物事が何であるかと同時になぜそうあるのか、なぜそれ以外ではありえないのか―――梅園は天地の条理といっております― まで突っ込まなければ、解明したとはいえないとしています。梅園のオリジナリティに属する自然哲学は、この問いに答えたものです。西欧ではアリストテレス以来「存在論」というかたちで追究されてきた領域と重なります。梅園は朱子学の形而上学体系(理気説,、心性論、陰陽五行説)から着想を得たのでしょうが、ここに梅園哲学の本領があることも確かです。
4.これもまた「劇場のイドラ」にかかわるものですが、梅園は権威主義や偉人の神格化、個人崇拝を断固排除します。「聖人と称し、仏陀と号するひとも、天地を解明しようという段では、もちろんひとですから、結局わが研究討論の友にすぎず、師とすべきは天地そのものです」(「多賀墨郷君にこたふる書」)まさに偉人の偶像視(イドラ=アイドル化)は止めよ、権威に頼らず自然に実地にあたって真偽を検証してみよ―梅園は「実徴」という用語を当てています――――といっているのです。しかし釈迦も孔子も同じ人間だといっているのですから、当時の人からみれば恐ろしい冒瀆でしょう。おそらく江戸や大阪で著述活動をしていたら、とんでもないことになっていたかもしれません、国東の片田舎が幸いしたとしか思えません。それにしてもあのタイトな身分制社会の中で、近代的な人間平等観に達しているのには驚きです。町医者として農村集落での人々の暮らしを日々観察し、同情し共感し、いのちを看取ってきた経験からそういうヒューマニスティックな観点が生まれたのでしょうか。※(同じことは、冒頭引用した員原益軒についてもいえます。医者の職業倫理が、誰よりも早く四民平等という近代の考え方を受け入れさせたのでしょう)
したがって、梅園のことをこんにち「豊後の聖人」と呼ぶのは、梅園の偶像視であり梅園自身がいちばん嫌う類のことでしょう。学問に聖人もなく聖域(タブー)もない、これが梅園の掲げた原則であり、それは梅園がいかにすぐれた脱封建人であったかを証し立てするものなのです。
※梅園の晩年の経済書である「価原」は、河上肇が「グレシャムの法則」―悪貨は良貨を駆逐するーと同等の経済法則を発見したものとして評価したものです。「価原」を繙くと、その農本主義的限界にもかかわらず農民に寄り添うヒューマニズムの観点で幕藩体制の矛盾に立ち向かっている様がみてとれます。貨幣経済の発展がもたらす農村の貧困化と荒廃を見すえて、梅園は実物重視、ストック重視の考え方で、農民を富ませることによって経済全体の発展を図ろうとする立場です。農民からいっさいの余剰を剥ぎ取りジリ貧に追い込む「貧困の経済学」ではなく、農民が余剰を蓄積し生産能力を向上させることによって全体のパイを膨らませ、その結果税源も拡大するという「豊かさの経済学」の方向を示唆しています。
さきほどデカルトの方法的懐疑を引き合いに出しましたので、その関連でお話します。デカルトといえば、多少哲学をかじったことのある人なら思い出されるでしょう。「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」という有名な一句です。物ごとを疑って疑って疑っていって、最後に疑いきれないものとして残る確実なもの、それはいま思っている(疑っている)自分だというのです。思想史のうえでは近代的自我の歴史的宣言だとされていますが、認識論という哲学の一分野からいえば、確実妥当な認識の出発点ともなり、その合理性の根拠ともなる我の自覚とその表明であります。偏見や先入見を方法的懐疑によってディリィートしながら、他方で確実な認識のよりどころとして「我(われ)」を自覚する。中世人のように自分の外にある伝統的な権威や有力な他人の説にたよるのではなく、明確な自己意識をもって、つまり自分自身において、また自分自身によって対象に迫り、対象の何たるかを明らかにしていく。それは認識における自助努力の宣言ともいってもいいでしょうし、認識における主体性の宣言といってもいいでしよう。また道徳観としてみれば、自己の内面的な良心を道徳判断の基準とするということです-―そもそもプロテスタンティズムに代表される西欧近代人の基本的な生活スタイルは、集団への寄りかかりや集団への埋没とは異なり「天は自ら助くる者を助く」であり、独立力行(self-reliant)、自立自助というところにあります。
もちろん今日は近代的な自我主義と独断力行のなれの果てが、自然とともに共同性や公共性を喪失した市民社会の荒廃状況であるに相違ありませんから、デカルト主義を全面的に善しとするわけにはいきません。しかし封建制に対する闘いにおいて、あるいは反ファシズム闘争において、あるいは民主主義擁護の闘いにおいて啓蒙的理性の果たしてきた役割を認めようとしないのも行き過ぎであります。日本の今日の政治・市民社会状況――「忖度」や同調圧力が跋扈する――においては、依然近代的な自我や主体性の確立は未達成の重要な課題であります。近代の乗り越えということで、主客の二項図式を排し、共同性に全面依拠しようとする1970年代からの流れには何か大切なものが欠落しているように思えてなりません。強い主体性の担保なしの共同性が、いかに危機に瀕して抵抗力に欠けるかが日々明らかになっているではありませんか。
そのことは機会を改めて論じるとして、梅園に戻りましょう。それにしてもどうでしょう、ヨーロッパとは宗教的背景も異なり、貨幣経済も発展途上で市民社会など大阪などの大都市でようやく熟しつつあるにすぎないであろうというときに、梅園はベーコンやでデカルトに比肩するような批判哲学を展開しているのです。たしかにデカルト哲学にあるような近代的自我とか、あるいはベーコンの学問観にあるような知識と自然改造や人民の福祉増進との実践的結びつきとかが十分自覚されていないということはあるでしょう。しかし梅園の方法的懐疑にみられる封建的呪術的観念批判と柔軟かつ合理的な思考法は、近代という時代の平均的スタンダードは十分満たしているように思われます。
くどいようですが、近代の認識の仕方についてもう少し立ち入って考えてみましょう。封建的な共同体に自分がすっぽり埋め込まれていて彼我の区別が意識されない状態から、やがてそれを束縛と感じ自分をもぎ放そうと格闘する段階が次に来ます。その格闘の末、封建的な束縛を脱して自由な人間という自己意識に達するのですが、これは認識理論から言えば、「我」という認識の主体が確立する過程です。同じことですが、それまでの主体と客体を包摂していた本源的統一が解体し、我が思考作用として純化し主体化する過程といえます。デカルト的自我は、純粋思考作用へと還元され抽象化される一方、それに照応して、客体の方も抽象化され、幾何学的力学的な要素(エレメント)に還元されて、理論的対象となるのです。
一神教の西欧では自然(世界)は神が自分の栄光を増すため創ったものだという観念が支配的でした。これは梅園が鋭く批判指摘した擬人化であり、工作する人間自身をモデルに神を考え自然に投影させてみているのです。だから科学が科学たりえるためには、こうした擬人化的見方を清算して自然をありのままにみる必要があります。ありのままとは、オランダの哲学者スピノザがcausa sui(カウサ・スイ 自己原因)という用語で表現したように、神の目的や設計などという自然外的なものを持ち込まないで自然現象をそれ自身によって説明することを意味します。端的に言えば、自然現象の中に超自然的な力の作用を認めない立場であります。これは当然ながら聖書にある神の御業としての奇跡を否定することになり、ひいては神の存在を否定することになりかねません。だからカトリック教会は神経質になったのです。
ガリレオの動力学もニュートン古典力学も、すべての物体の運動を自然に内在する力、距離、速度、加速度、慣性、作用・反作用、質量等の諸エレメントで成り立つ一運動方程式で表示される一一物理学法則として明らかにしました。その結果、月や惑星の運行とりんごが地面に落ちる自由落下とは同じ万有引力の法則に支配されていることが分かり、スコラ哲学でいうところの聖なる天上の世界と俗なる月下世界の区別はナンセンスということになりました。梅園用語でいうと、気の一元性をもって宇宙をみるということで、今日風にいいかえると、物質(宇宙空間)の斉一性という原理をみごと言い当てているのです。
梅園のいう「天地達観の道」とは西欧風にいうと哲学的な認識論であり、また同時にその認識論によって明らかにされる条理学、つまり客観的実在の存在構造をいうのです。その天地達観の道は、まず捨心之所執(心の執着を捨てること)によって各種のイドラ、習気を取り除く作業をやりながら、依徴於正(いちょうおせい=実地にまさに当たってみる)を行使します。くどいようですが、擬人的な見方や呪術的な見方を排して、対象そのものに即して実地検分してみる。そして「反観合一(反して観て、合して観る)」という見地に立って、一は二を有し、二は一を開くものという天地の条理の認識に達するものとしています。反観合一というのは、事物を相互に反発しあいながら相互に依存し合う二つの側面(天と地、陰と陽、気と物、体と性等々)の統一過程として理解する仕方であり、その結果明らかになる存在の相(対立の二と自然本来の混成の一)をも意味します。これは、対立物の相互依存とか統一とかいうヘーゲル弁証法の考え方とよく似ております。ヘーゲルは近代物理学体系の機械論的な見方一自然を時計の機械仕掛けをモデルとしてとらえている一―の限界を乗り越えようとして、弁証法というあたらしい思考方法を打ち出しました。誤解を恐れず簡単に言えば、ある事象の二つの対立する項をより大きな全体のそれぞれが一契機であると理解することによって、対立を克服しより高次の一である全体に止揚することができるとする考え方です。
たとえば生物の代謝活動では、一方で外部から食物を摂取しそれを化学的により簡単な物質に分解する異化の作用と、他方で摂取したものを自分の有機組織の一部に変えていく同化の作用とが同時に行なわれる。異化・同化という相反する二機能が同時に行なわれる、そのことによって一である生物体が維持される、こういう見方です。あるいは生と死の弁証法一一生物体が日々生きることは、同時に死に近づいていること、少しずつ日々死んでいることと相即的である。生と死の対立する二項は、実は生命活動においては一である云々。実際このように反観合一というコンセプトを使って、多くの自然現象や社会現象を説明することができるのです。しかし正直いって私の理解はここまでです。梅園が反観合一の思索過程を通じて獲得した宇宙(天と地)の存在論的構造が、果たしてどこまで現代に通用するのか判断はつきません。梅園は「玄語図」といわれる右図のようなイラストレーションを二百枚近く残しております。まだまだ現代的な観点からする分析は進んでいないようですが、いずれにせよ私には難解でとても歯が立ちません。歯が立たないことの理由のひとつに、梅園は近代科学の成果を取り入れて自然哲学を打ちたてようとしたのですが、梅園による造語もふくめ使った概念は新儒教=朱子学の圏内にあるものだった。それがいたずらに難解さを増幅させ、理解の壁になっているのではないでしょうか。古い皮袋に新しい酒(思想)を注いだため、難解になっている、したがつてわれわれには梅園のことばを今日のスタンダードな用語体系に翻訳する作業が必要なわけです。
それからもうひとつ。断定は避けなければなりませんが、「玄語」体系は、やはり西欧の旧い型の形而上学と同様の性格を持っているのではないか。西欧哲学史との比較でいえば、スピノザの「エチカ(倫理学)」に近い。合理主義的な新しい思想が盛り込まれているとはいえ用語法は旧いもので、それだけに旧い伝統的な思考法に引きずられる面があります。また表面的な類似ですが、スピノザは、「エチカ」の副題を「幾何学的秩序によって証明された」としているように、それは幾何学の公理一定理の証明方法に範をとって展開されています。他方、同じように梅園の方は存在構造の幾何学的秩序としての条理学を構築しました。しかし幾何学モデルが、弁証法的な動態モデルと両立しえるのかどうか、主著「玄語」の緻密な分析が必要でしょう。ただ一般的にいえるのは、17世紀終わりまでにはデカル卜が解析幾何学を考案して代数と幾何学の統合を果たしており、また二ュートンとライプニッツとが微積分学を考案して、ユークリッド幾何学やアルキメデスの静力学の静態モデルから物体の運動過程を数学的に表現する動態モデルヘと変換がなされていたということです。
※年代差が1500年ほどありますが、古代ギリシアのアリストテレスの形而上学と朱子学の哲学には非常に親近性があります。アリストテレスは、世界のしくみ(存在論的構造)を主に形相(forma)と質料(materia)という概念を使って明らかにしました(「形而上学」)。同じように宋代の儒家である朱子らは、理や気や性という主概念を使って、世界の成り立ちを説明しました。そして両者に共通するのは、形相と理の優位です。詳しくは述べられませんが、物質よりも精神を過度に重視するのは、古代や封建時代に支配的なイデオロギーの特徴です。不労階級がもっぱらとする精神活動の方が、奴隷や農民階級に強いられる肉体的な労働より上位にあり、神の活動に近いとする時代的偏見に基づいているのです。アリステレスの形相は、もともとプラトンのイデアから出たもので、地上の事物を動かす精神的なもの理念的なものです。同じように朱子学の理は宇宙の本質であり、物事の法則、倫理的規範を表しています。
その後質料形相論も理気説も時代が下ると、次第に普遍より個別を、形相よりも質料を、理よりも気をより重視する考え方に変わっていきます。一握りの支配層(絶対君主、貴族、僧侶)の力が衰えて、次第に市民階級や勤労階級が勃興するにつけ、唯物論的経験論的なイデオロギーが抬頭して来ます。.最後は質料一元論、気一元論となっていき、自然の外に普遍性を求めるのではなぐ、自然そのものの中に形式(forma=form)、つまり規則や普遍的法則を、気そのものの中に理=法則を見出す梅園らの立場へと変わってきたのです。その意味では、梅園の哲学的立場は、新興の江戸町人階級の実物窮理という新常識を反映しており、その意味で時代の進歩に掉さしていることは間違いありません。
これは梅園の限界というより、梅園の生きた時代の日本の限界というべきなのですが、梅園の突出した思索力をもってしても補えなかったもの、それは近代産業と技術の水準なのです。ベーコンと比較すると、端的に梅園に欠けていたのは「実験と帰納法」です。梅園の「実徴実測」は確かに新しい実証精神の現われではありますが、実行する手段としてはせいぜい「天地万物の観察」にとどまっております。ところがベーコンの実験は、決定的な新しさを持っております。実験がただの観察と違うところは、相手があるがままの自然ではなく、「人間の技術と干渉によって、その本来の状態から追い出され締め付けられ、つくり直されている」(「ノーヴム・オルガヌム」)自然だということです。実験とは一般に、他からの影響を排除し、実験対象を純化した状態におくなど人為的に一定の条件を設定して、対象の変化や規則性を追跡し、既存の知識の真偽を検証するための基礎データを得る目的で行なわれます。その上でベーコンは、個々のデータや事例からより中間的な命題を積み上げながら、最後最も一般的な命題に到達する「帰納法」(induction)を学問の新方法として打ち出しました。もちろん学問的方法として完全を期すには、それが一般的命題から出発して個別の事実やデータを説明する演繹的方法によって補われなければならないことをベーコンは否定しません。ただ一般命題の真理性の基準を(精神の先天的な形式や直観などにおかず)あくまで観察や実験に基づく経験におくがゆえに、「イギリス経験論」の祖といわれるのです。その社会的背景としてイギリスの進んだ経済状態があります。大航海時代を経て海外に貿易網を展開しつつあり、国内的には毛織物産業における農村マニュファクチュアはますます盛んになってきている時代です。技術と産業が社会を変えつつある、このことの生々しい社会体験がベーコンの確信と見通しを支えているのです。だからこそベーコンは、学問が個人による単独の作業ではなく、マニュフアクチユアに範をとって分業と協業によって大規模に経験を集積して総合力として力を発揮するようになるという見通しを立てるのです。
どんな偉大な思想家でも、自分の時代を大きく超えることはできない。その点で梅園の限界も出てくるのですが、しかしないものねだりに等しい言い方はさけるべきかもしれません。むしろ大きなハンディキャップを背負いながら、最小限のヨーロッパの最新知識と大阪商人の進取の気風と大分の開明的な文化風土を融合させて、あれだけの独創的哲学体系を築いたこと、そのことの勇気と知力を大いに賞賛すべきでしよう。日本人離れしたラジカル(根源的な)思索活動に力を尽くしたあと、梅園が鬼籍に入った1789年は、はるか遠くのフランスでバスチューユ牢獄の襲撃をきっかけとして、封建制度の廃止、自由・平等・博愛の市民革命が勃発した年でした。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1050:190702〕
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