『俘虜記』を読む
- 2019年 7月 22日
- 評論・紹介・意見
- 子安宣邦
「我々はほかにふりの仕様がないから待つふりをしているだけで、事実は遊んでいたにすぎなかった。その結果我々に来たものは堕落であった」と書く大岡昇平の『俘虜記』を昨晩やっと読み終えた。これで大岡の『レイテ戦記』を読むための準備ができた。『俘虜記』は米軍の俘虜となった日本兵士集団の記録文学としては例を見ないものであるが、彼がそこに記した旧日本兵士の「堕落」という姿態は比島の収容所だけではない、戦争末期から敗戦と占領下日本内地の姿ではなかったかと私には思われた。われわれ少年はその目で学校や町や村の周辺で屈従と卑屈と成り上がる者の姿態とをたしかに見ていたのである。生き残ったものは大岡だけではない、われわれもまた生き残ったものである。生き残ったものによって、同じ戦場で死んでいったものの記録はどのように書かれるのか、あるいは書きうるのか。これは同時代の文学の、あるいは歴史の根底的な問題だろう。
私はこの2日からもっぱら大岡の『俘虜記』を読んできた。それは『レイテ戦記』のための準備でもあったが、毎月の思想史講座の準備に疲れ切っていたせいでもある。「近代の超克」論再考の原稿を書きながら、一歩も先に進むことのできない自分を知った。私はその原稿を中断し、大岡の『俘虜記』を読むことにした。これは下手な日本人論よりもはるかに正しく日本人男性のあり方を教えてくれる。私は2日以来、昨晩までもっぱら『俘虜記』を読んできた。おかげで私は疲労感からどうにか脱却することができたし、私の思想史講座の最後の段階への見直しをすることもできた。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.7.5より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/80328300.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8831:190722〕
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