〈近代の超克〉批判序説
- 2019年 12月 8日
- 評論・紹介・意見
- 川端秀夫批評家・ちきゅう座会員
【目次】 第一章 回想の橋川文三
第二章 なぜファシズムか、そしてファシズムとは何か
第三章 日本のカリガリ博士
第一章 回想の橋川文三
本日の演題は〈近代の超克〉批判序説ですが、そのテーマで話すことになったそもそもの発端は私が橋川文三という人に出会ったことにあります。そこでまずはじめに枕として橋川文三の回想をお話しします。ただし本格的な橋川文三論ということではなく橋川文三の個人的な回想にとどめます。
橋川文三が亡くなった翌年、ゼミ卒業生有志が編集した追悼の雑誌が帰省中の実家に送られてきました。追悼雑誌の中の橋川文三の写真を母が見て、「やさしい顔をした人だ」と評したのを、印象深く記憶しています。やさしい人。それは私が二年間親しく膝突き合わせて研究した橋川文三先生の人間像を端的に示す言葉でした。
第二次世界大戦では六千万人の死者が出たといわれています。私の親族にも戦争の犠牲者がひとりいます。母方の叔父が戦死しています。母は6人兄弟の長女で弟を亡くしました。戦地はボルネオで戦闘中に亡くなったのではなく餓死であろうと推測されています。私が大学生になって父と母が上京した際に三人で靖国神社にお参りに行ったことがあります。その時の母の哀れな嘆きの様子は思い出すたびに今でも私の心は震えます。
橋川文三ゼミの入室試験時のテーマは「日本のファシズム」でした。橋川文三はこの試験に関して「形式は自由とします。論文でもいいし、エッセーのような形でもいいです」と解説しました。12名の募集に応募者は10倍越えて、明治大学政治学科では最大の競争率のゼミでした。入室試験に私は次のような書き出しで解答しました。父が上京の際に残したメモを、自分に対する重要なメッセージだと思って日記帖に貼りつけていまして、内容も記憶していたのでまずそれを書いたのです。
『僕がまだ大学一年生の時のことである。戦友との同窓会のために上京した父は、次のメモを残して帰っていった。「今日靖国神社の社頭に祈念して、大東亜戦争で散華した二六〇万の青年・壮年の英霊に対して涙にくれた。其人達の中には何十万という高校大学の学徒出陣の人達もいる。彼等は決して日本の軍部にだまされたのでも無く、資本家の犠牲になったのでもない。唯一路、父のため母のため兄弟のため郷土のため日本民族のため何等迷うことなく青春多感の命を捧げたのである。一路勉学に励まれんことを家族一同願っている」』
この父のメモ書きにコメントを付けまた当時読んでいた参考文献などを列挙して入室試験の解答としました。同期の映画研究会のサークルに属していた人は藤純子論を日本のファシズム論として提出したと言っていました。優等生的な回答では合格は不可能で独創性を示さなければ橋川ゼミに入室することは難しかったのです。私の場合父のメモのおかげで合格できたようなものです。
ゼミに入って意外だと思ったのは橋川文三が丸山眞男を深くリスペクトしていたことです。当時橋川ゼミに集まった学生はほとんど全共闘シンパでした。新左翼にとって丸山眞男は「欺瞞的なブルジョア民主主義の権化」であり軽蔑の対象でした。しかしそれまで「丸山」と呼び捨てにして対話していたゼミ員が、橋川に感化されいつの間にかカフェでの会話の中でも全員が「丸山さん」と敬称をつけて話すようになっていたのです。これは驚くべき変化です。橋川文三が丸山眞男を深くリスペクトしていたこと。これはあまり知られていないだいじな事実ですのでここで述べておきたいと思います。
橋川文三の講義の圧巻は詩が引用される時でした。その詩の引用は講義のクライマックス部分でおこなわれます。詩人橋川文三の本領が発揮される瞬間を何度もわれわれは体験しました。これは誰も真似できない橋川文三という天才的な個性のみがなしえた講義のスタイルだと私は考えています。
『日本浪曼派批判序説』について講義していただいたことがあります。そのリクエストはじつは私が出したのですが。その講義の最後のところで『批判序説』の後書きの中から次の個所を橋川文三は朗読してくれました。
《そのようなものとしての日本ロマン派は、私たちにまず何を表象させるのか? 私の体験に限っていえば、それは、
命の、全けむ人は、畳菰、平群の山の
隠白檮が葉を、鬘華に挿せ、その子
というパセティックな感情の追憶にほかならない。それは、私たちが、ひたすらに「死」を思った時代の感情として、そのまま日本ロマン派のイメージを要約している。私の個人的な追懐でいえば、昭和十八年秋「学徒出陣」の臨時徴兵検査のために中国の郷里に帰る途中、奈良から法隆寺へ、それから平群の田舎道を生駒へと抜けたとき、私はただ、平群という名のひびきと、その地の「くまがし」のおもかげに心をひかれたのであった。ともあれ、そのような情緒的感動の発源地が、当時、私たちの多くにとって、日本ロマン派の名で呼ばれたのである。(橋川文三『増補日本浪曼派批判序説』375P)》
日本武尊の歌を板書し註釈を施してからその歌を橋川文三が朗唱した時、日本武尊とは何者なのか、日本浪曼派とは何か、そして橋川文三とは誰なのか、われわれは瞬時にことごとくすべてを理解したのです。
もうひとつブログへの記載例を紹介させて下さい。『史記』の講義で列伝の荊軻(けいか)について語られた模様です。
《先生は手振りを交えて荊軻の性格や経歴を語られた。そいてついに荊軻は始皇帝暗殺に出発する。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」と荊軻が詩を詠む段に至った時、僕らは時空を超えて中国の壮大な世界のその日その時を、まざまざと見るかのような臨場感を味わったのであった。あの日の先生は、始皇帝刺殺を企てる哀しき荊軻の心に感情移入したもう一人のテロリストであった。(「ブラームスを聴きながら」 ブログ『ダンボールの部屋』)》
橋川文三は学者・知識人との対談より学生との対話の方が好きでした。さらに言えば大学院生との対話より学部学生との対話の方を好みました。橋川文三の西郷隆盛研究の旅は学生のふと漏らした感想がきっかけでなされています。ゼミの学生が西郷隆盛の最後の配流地である沖永良部島に旅行しました。そして橋川さんに「沖永良部島に行ってこれで西郷がわかった気がする」と感想を述べたのです。その言葉が気になった橋川さんは自分も実際に沖永良部島に旅して学生が得たその直感を確かめています。この旅で得た感想を核にして橋川文三の晩年の傑作『西郷隆盛紀行』は書かれました。
橋川文三の『西郷隆盛紀行』は竹内好の「日本のアジア主義の展望」の最終章の問題意識を引き継ぐものであり維新史の認識を根底から問い直す思想史の傑作です。しかし橋川文三による日本近代の根底的な歴史認識の問い直し作業はいまだ日本の学界・ジャーナリズム・一般読書人にほとんどといっていいくらい浸透していません。橋川文三の仕事が見直されるのはしたがって今後の課題ということになります。橋川文三の仕事が真に評価される日は必ずやって来ます。そう断言しておきます。
第二章 なぜファシズムか、そしてファシズムとは何か
学生の時に私は「日本のファシズム」についてエッセーを書きましたが、いま私がこの章で問おうとするのは「ファシズムとは何か」という原理的な課題です。1940年11月に「日独伊三国同盟」がベルリンにおいて調印されました。この日本・ドイツ・イタリアの三ヵ国がファッショ陣営と呼称されて第二次大戦後永続的な批判の対象になっているわけです。ウンベルト・エーコ(1932-2017)が1995年4月25日にコロンビア大学のシンポジウムで英語で講演した「永遠のファシズム」というテクストがあります。エーコのテクストを基にファシズムについて考えてみたいと思います。『永遠のファシズム』は岩波書店から1998年に和田忠彦訳で刊行されています。「永遠のファシズム」の英語原文もネットで検索するとPDFファイルで見つけることができます。ぜひ検索してみて下さい。(https://theanarchistlibrary.org/library/umberto-eco-ur-fascism)
同じ問いをエーコはこのように厳密に言い換えて提出しています。《なぜ「ファシズム」という言葉が、さまざまな全体主義運動について、一部が全体をあらわしてしまう(pars pro toto)名称として、提喩(メトノミー)の機能を果たしてしまうのか》と。
《ファシズムの典型的特徴を列挙することは可能だと、わたしは考えています。そして、そうした特徴をそなえたものを、「原フアシズム(Ur-Fascism)もしくは「永遠のフアシズム(Ur-Fascism)」とよぼうと思います」。》
皆さん英語が得意な方が多いようですから、エーコが原ファシズムについての特徴を列記した部分を邦訳と英語原文も一緒に抄出してみました。中心命題とその補足解説になっているところだけを引用しておきます。全文にあたっていただくとより理解が深まると思います。多くの国で翻訳されたのもうなづける本質的な洞察をエーコはここで提出していると思います。なお該当部分の全体は邦訳の48ページから58ページにあたります。以下、引用です。
※
However, the followers must be convinced that they can overwhelm the enemies. Thus, by a continuous shifting of rhetorical focus, the enemies are at the same time too strong and too weak. Fascist governments are condemned to lose wars because they are constitutionally incapable of objectively evaluating the force of the enemy.
エーコのこの8番目の指摘はとくに重要です。ファシストは必ず戦争をするんですよ。そして必ず負けます。なぜ負けるか。ファシストは敵の力を客観的に把握することを体質的に拒否するのです。つまり「世界を支配している悪い奴らがいるんだ」と言って脅威を煽り立て、しかし「戦争をしたらすぐに勝つ」という言い方をするわけです。敵の戦力を精確に測定してないから必ず負けます。ファシストが必ず戦争を仕掛けて最後には必ず負ける理由をエーコはここで説明出きていると思って、ここの指摘が私にはいちばん興味深かったです。
This cult of heroism is strictly linked with the cult of death.
この指摘はダンヌンツィオに憧れた三島由紀夫の例が思い浮かびます。筒井康隆の『ダンヌンツィオに夢中』は三島のもうひとつの顔を抉り出す快著です。エロスよりタナトスに惹かれるがファシズムの宿命なのです。
Since both permanent war and heroism are difficult games to play, the Ur-Fascist transfers his will to power to sexual matters. This is the origin of machismo (which implies both disdain for women and intolerance and condemnation of nonstandard sexualhabits, from chastity to homosexuality).
13 民主主義の社会では、市民は個人の権利を享受しますが、市民全体としては、(多数意見に従うという)量的観点からのみ政治的決着能力をもっています。
原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。量(※補論参照)として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」をあらわすのです。
訂正した翻訳文はこうなると思います;「原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。質として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」をあらわすのです」。
《人間存在をどのように量としてとらえたところで、それが共通意志をもつことなどありえませんから、指導者はかれらの通訳をよそおうだけです。
たしかにエーコの論の運びも誤解を生みやすいとは思いますが、精読すればエーコの講演原文は誤植ではありません。私の推論の妥当性は皆さま方各々でご判断下さい。なお上の「interpreter」の語についても、通訳よりも解釈者の方が日本語として通りがいいのではないか、というアドバイスを頂きました。ご参考までに報告しておきます。
こうして見てきますと、イタリアのファシズムと日本のファシズムは共通点が非常に多いと感じます。似ているという以上に、まるで一卵性双生児のように瓜二つと言っていいほどです。イタリアと日本のような典型的なファシズムに較べると、ドイツのファシズムは異端でありファシズムの少数派との認識もできるかもしれない。少なくともドイツのファシズムと日本のファシズムを比べるよりも、イタリアのファシズムを考察して、それを鏡にして日本のファシズムを反省する方がはるかに科学的であり有益でもありうると思うのですが、いかがでしょうか?
エーコはイタリアのファシズムについてこのように述べています。《ファシズムには、いかなる精髄もなく、単独の本質さえありません。ファシズムは〈ファジー〉な全体主義だったのです。フアシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体でした》。
日本やイタリアのようなファジーな全体主義に対比されるのがナチのドイツやスターリン主義のソ連の場合です。《『我が闘争』は完璧な綱領宣言です。ナチズムは、人種差別とアーリア主義の理論を備え、「頽廃芸術(Entartete Kunst)」を正確に規定し、潜在的意志と超人(Ubermensch)の哲学を有していました。ナチズムは明確に反キリスト教思想であり、あらたな異教思想でしたが、それは、スターリンの(ソヴィエト・マルクス主義の公式見解である)「弁証法的唯物論(Diamat)」が明らかに唯物論的無神論であったのと同じことです。仮に全体主義が、あらゆる個人の行動を国家とそのイデオロギーに従属させる体制を意味するものなら、ナチズムとスターリニズムは全体主義体制だったということになります》。
エーコの認識によれば、ナチズムとスターリニズムは全体主義体制であり、日本とイタリアはファジーな全体主義だったということになります。エーコはさまざまなファシズムの諸政党やイデオローグの違いを記号で表現する試みをここで行っていますが、エーコの示した記号表現をそのまま使ってそれを書き換えてみましょう。そうすると1930年代に成立した日本・イタリア・ドイツ・ソ連の政治体制の同一性と差異は下記のような記号表現で示すことが可能になります。
N(abc) I(bcd) D(cde) S(def)
Nは日本、Iはイタリア、Dはドイツ、Sはソ連のそれぞれ略記号です。小文字のアルファベット(a・b・c・・・)は、それぞれの政治体制に含まれている各要素を示します。元々のエーコの解説を聞きましょう。
《一連の政治集団が存在すると仮定しましょう。集団1は要素abcを特徴とし、集団2は要素bcd、以下同様に三つの要素を特徴に持つとしす。2は二要素が共通する点で1と似ています。3は2に、4は3に、同じ理由で似ています。さて3が(要素cを共有するため)1にも似ていることに注目してください。もっとも興味深い
日本はイタリアとbcを共通に含んでいます。日本に特有のaとは天皇制を示す記号と考えて差し支えないでしょう。イタリアとドイツはcdを共有しています。日本とドイツはかけ離れてはいますがcを共有しています。したがって1930年代の日独伊はcを共通に含むという点に於いておいて同質のファシズム国家と総括できます。これが世界史的視野のもとで眺めた日独伊三国の本質的差異です。
第三章 日本のカリガリ博士
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以上のような認識を踏まえた上で日本とドイツのファシズムの共通点を探っていきます。具体的な事例として、ドイツ映画の「カリガリ博士」と、戦中の京都学派の言説が集中的に表現された『世界史的立場と日本』という座談会を採り上げ比較考察することでそれを行ってみたいと思います。あの座談会を2019年のいまの時点からどのように評価することができるでしょうか。仮に批判的に評価するとしてもその方法論はいかに? ひとつの方法としてクラカウアーが『カリガリからヒトラー』で見事に展開したその文化批判の方法を援用することで批判は可能になるのではないか。『カリガリからヒトラーへ』、このクラカウアーの著書のタイトルをそのまま使って、「京都学派四天王から東条へ」、このように書き換えることが可能になります。つまりカリガリ博士と京都学派四天王を同定し、ヒトラーを東条と同定することによって、日本とドイツのファシズムの同一性と差異を浮き彫りにしてみたいと思います。先月の研究会で宇波彰先生がフランクフルト学派のジークフリート・クラカウアーについて3時間に及ぶ講義をして下さいました。その講義に私は深く啓発されたのですが、その時に紹介されたクラカウアーの著書『カリガリからヒトラーまで』(平井正訳・せりか書房1971年刊)を、私は以前に読んでいたことを思い出しました。そこで映画「カリガリ博士」をもういちど視聴しクラカウアーが「カリガリ博士」について書いている箇所も再読して今回の講演に備えました。映画『カリガリ博士』はドイツ語版・英語版・邦訳版すべてネットで視聴することが可能です。改めて観てみると大変な名画であることに感心します。
《ヤノヴィッツとマイヤー(原作者・・・引用者注)には、自分たちがこの枠物語に対して激怒する理由がよくわかっていた。それはかれらの本来の意図が、さかさまにされたとまではいえないにしても、ねじまげられてしまったからである。原作が権威に内在する狂暴性を暴露したのに反して、ヴィーネ(監督・・・引用者注)の『カリガリ』は権威を讃美し,その敵対者の狂暴性を非難した。こうして、革命的な映画は一変して、大勢順応的な作品になってしまったーよく使われる型であるが、ある種の正常な、しかし、うるさがたの人物を、狂人よばわりして、精神病院に送りこんでしまったのである。(平井正訳S・クラカウアー著『カリガリからヒトラーまで』せりか書房1971年67P)》
《戦後期を通じて、ドイツ人の大部分がきびしい外部の世界から逃避して、人間精神の触知しがたい領域に閉じこもる傾向が強かったということが正しいとすれば、ヴィーネの脚色は、たしかに、元のストーリーよりも、このドイツ人の態度により一層合致するものであった。なぜなら、原作を箱の中にはめこんでしまうことによって、この脚色は、殻の中に退却してしまう一般的な傾向を、忠実に反映したからである。『カリガリ博士』(また当時のそのほかのいくつかの映画)において、枠物語の手法は、たんに審美上の形式であるばかりでなく、象徴的な意味ももっていた。重要なのは、ヴィーネが元のストーリーそのものを不具にしてしまうことを避けた点である。『カリガリ博士』は大勢順応的な映画になってしまったけれども、しかもなお、それは、この革命的な物語を狂人の幻想として保存し、強調した。カリガリの敗北は、今や多くの心理的経験のーつとなった。このように、ヴィーネの映画は、ドイツ人が自分自身の内部に隠遁していた頃、自分たちの伝統的な権威に対する信仰を考えなおしてみるような刺激を受けていたことを暗示しているのである。大部分の社会民主主義的な労働者にいたるまで、ドイツ人は、革命的行動を回避した。しかもその同じときに、集団精神の深部では、心理的革命が準備されていたように思われる。この映画は、カリガリの権威が勝利をおさめる現実と、その同じ権威がくつがえされる幻想とを結びつけることによって、このドイツ人の生活の二重の側面を反映している。反乱を拒否する態度の外被の下で、権威主義的傾向に対する反乱があきらかに発生していたことをあらわすシンボルの配置としては、これ以上のものはありえなかった。(同上、67P》
このような前置きをした上で京都学派四天王の発言をこれから読んでいきます。「世界史的立場と日本」と題された座談会は1941年11月26日に行われ、翌年1942年の『中央公論』1月号に掲載されました。そのあと二回の座談会をも納めて『世界史的立場と日本』は中央公論社から1943年3月に刊行されました。この本は戦後再刊されていません。一部の遺族が再版に反対しているという事情がその背景にあります。アマゾンでこの本は1万4千円の価格が付いています。たまたまウエッブ検索していたら古書店組合のサイトで6500円の値が付いていました。この本はこれ以上安い値段では買えないと判断して思い切って購入しました。ここに持参したのがその本です。四六版444頁の活字が大きく読みやすい美本です。座談会は3回とも哲学者の高坂正顕(こうさか・まさあき)が最初に問題提起をし、いちばん若手である鈴木成高(すずき・しげたか)がそれを受けて発言しています。この順番は3回とも変わりありません。高坂正顕が座長格ですべての回の問題提起をしています。あと二人の参加者は哲学者の高山岩男(こうやま・いわお)と西谷啓治(にしたに・けいじ)の計四名です。合計三回の座談会の主題とその推移はタイトル自体によって伺うことができます。一回目「世界史的立場と日本」、二回目「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」、三回目が「総力戦の哲学」です。一回目の座談会の高坂による最初の発言から読んでみます。
■第一回座談会「世界史的立場と日本」 1941年11月26日世界史が問題となる理由
(高坂正顕他『世界史的立場と日本』中央公論社・昭和十八年三月3P~4P)ただちに鈴木が「それは僕も全く同感だ」と賛意を示して四人の対話が始まります。この第一回目の座談会ではランケの使った概念で「モラリッシュ・エネルギー(道義的生命力)」という言葉が頻出します。このキーワードを巡って議論が旋回している感がある。一例を示せば高山の発言ー「モラリッシュ・エネルギーの主体は僕は国民だと思ふ。民族といふのは十九世紀の文化史的概念だが、今日は、過去の歴史はたとひどうあらうと「民族」といふものでは世界史的な力がない」など。京都学派の依拠したランケ史学は世界史的視野を獲得すべき今日の日本人にとっても必須の思想遺産と思います。文書のかたちで残された世界遺産と云っていいでしょう。ランケの『政治問答』(原著1838年・ランケ41歳の作)から、モラリッシュ・エネルギーについて書かれた部分を引用しておきます。カールとフリートリヒの対話のかたちで議論が進行するのですが、フリートリヒがランケの思想を代弁しています。《カール 君の政治学では対外関係が重大な役割を演じるやうになるらしいね。
フリートリヒ さきに云ったやうに隅々にまで占められてゐる。その中で或る地歩を得るためには自力に依って勃興し自由な独立性を発揮しなければならん。そして他の承認して呉れない権利は我々自身闘ふことに依って手に入れる他ない。
カール それぢゃ何でも彼でも荒々しい暴力に依って決められることになりはしないか。
フリートリヒ 戦ひと言ふ言葉からさういう風に考へられ易いが、実際はそれ程暴力といふものは物をいふものぢゃないよ。基礎が存在し団結が形成されてゐるとして、それが今や将に勃興して世界的な勢力と成ろうとする、その場合何よりもまづ第一に必要なのは道徳的なエネルギーだよ。この道徳的なエネルギーに依って初めて競争に於て競争者たる敵を打ち破ることが出来るんだ。(相原信作訳・ランケ著『政治問答』岩波文庫1941年)》第一回目の座談会のいちばん最後のところを読んでみます。最後の締めも高坂が務めています。高山:世界史は罪悪だといふ風のことも言われてゐるが、自分のみが世界史の中に入ってゐないやうな無責任な物の言ひ方で、甚だ感心しない。
高山:さうだ、世界史は罪悪の浄化だ。天国と地獄との境に歴史といふものがある。時の中にあって永遠に結びつくところに歴史といふものがあるのだ。
高坂:実際、小さな人間の魂の救済を人類そのものの苦悶の救済から切り離して考へるかのやうな態度はどうだろう。西田先生も先日言ってゐられた、世界歴史は人類の魂のプルガトリオだ、浄罪界だ、戦争といふものにもさうした意味がある、ダンテは個人の魂のプルガトリオを描いた、しかし現在大詩人が現われたなら、人類の魂の深刻なプルガトリオとして、世界歴史を歌うだろう、って。人間は憤る時、全身をもつて憤るのだ。心身共に憤るのだ。戦争だつてさうだ。天地と共に憤るのだ。そして人類の魂が浄められるのだ。世界歴史の重要な転換点を戦争が決定したのはそのためだ。だから世界歴史はプルガトリオなのだ。(同上、130P~131P)
(なお小林氏の講演に関して私は講演の前と後に二回感想を書いてちきゅう座に掲載していますので、併せて検討していただければ幸いです。(参考:〈近代の超克〉新論」に期待する:http://chikyuza.net/archives/97262、「〈近代の超克〉新論」の地平:http://chikyuza.net/archives/98385 )
〇国際的な帝国主義と国内的な闘争の原理は、つまりは一つの根本原理をなしてゐる。所が日本が今世界に宣言してゐる万邦おのおのその所を得るといふ原理は、これと根本から違つたものであると思ふ。(…)人は生れ乍ら自由平等といふことから出る人格倫理と違つて、人はそれぞれその所を得べきものといふことから出る「人倫」の倫理ともいふべきものが妥当なんで、かういつた倫理思想は従来東洋の中に生きてゐたやうに思ふ。
〇さうすると大東亜圏の倫理の根本は、日本のモラリッシェ・エネルギーといふものを各民族に伝へ、彼等を日本と協力し得る高い精神的水準にまで高め、それによつて道義的な民族間の関係といふものが建設され、それが大東亜圏といふものを支持する、さういふ所にあると思ふ。
〇大東亜戦争で示された日本の主導性、主体性は、実は支那事変の起るずつと前から隠然としてあつたのだ。日露戦争で既にこれが明瞭に示されてゐる。日本の勝利はインドやイスラム圏などのアジア民族に大きな刺激を与えてゐる。日本は何といふか、アジアを代表するやうな、アジア民族の指導者といふやうな主体性を発揮したわけだ。ヨーロッパの帝国主義の攻勢を挫いた唯一の国民なんだから――〇日本の今日の主導性といふものは日本が近代を完成したといふところから出て来る。
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初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2019.12.8より許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-339.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9244:191208〕
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