鹿児島の五日間~西郷隆盛ばかりではない、近代絵画の名作を訪ねて(2)
- 2023年 12月 8日
- 評論・紹介・意見
- かごしま近代文学館内野光子
かごしま近代文学館
11月2日、昼食後向かったのは、かごしま近代文学館だった。ここでは「没後100年 さまよえる有島武郎展」と「向田邦子のはじまり」という企画展が開催されている。有島武郎と鹿児島?向田邦子と鹿児島?どんな関係?と思ったほどだ。
それに、武郎と波多野秋子との心中から100年も経つのか、との思いが強かった。武郎の父有島武が県内、現在の川内市出身の実業家で、後、官僚になると知る。9歳で学習院予備科に編入、寄宿舎生活となり、皇太子嘉仁の「ご学友」にもなるが、中等科を卒業後は札幌農学校に進学、教授の新渡戸稲造宅に寄寓、1901年23歳でキリスト教に入信。その後、一年志願兵として入営、1903年渡米、アメリカの大学で学び、精神病院や農場で働いたりして、ヨーロッパを巡り、1907年に帰国、札幌農科大学勤務(~1915年)、1909年結婚するが、1916年三児を残して、妻は闘病の末、亡くなる。次いで父の死後、創作活動が活発となり、『カインの末裔』『小さき者へ』(1918年)『或る女』(1919年)、「一房の葡萄」が『赤い鳥』に掲載されたのは2019年であった。その多くは、自らの体験や身近な人々をモデルした作品が多いことも知る。 学びも、住まいも、思想も、追いきれないほど、たしかに「さまよえる」武郎なのだが、この間、父や妹の嫁ぎ先などの援助で運営されていた「有島農場」を1922年、小作人たちに無償で解放するに至る。そのとき、かつての小作人たちが共同運営する農場に送った額「相互扶助」も展示されていた。
そして、その翌年、『婦人公論』記者の波多野秋子との関係を夫に知られ、心中に至るのである。残された三人の子供はどうなったのだろう。長男が後に森雅之という俳優になったことは知っているが。
向田邦子が台湾での航空機事故で亡くなったのは、1981年というから、もう40年以上も前のことになる。今回の企画展はテレビドラマ「だいこんの花」を中心とするものであった。私は、この「だいこんの花」も「七人の孫」も見てはいない。森繁久弥があまり好きではなかったからかもしれない。「阿修羅のごとく」は、今も記憶に残る。四人姉妹の三女が図書館司書で、いしだあゆみが眼鏡をかけ、男っ気がないという設定だった。「図書館司書」のイメージがかなり醸成されてしまったのではなかったか。映画や舞台にもなったというがいずれも見ていない。
向田邦子と鹿児島との縁は、父親の転勤で小学生の時、鹿児島市内に2年3カ月住んでいたということで、向田が、鹿児島はふるさとのようだと、何かのエッセイで書いていたらしい。かごしま文学館は、1999年からほぼ毎年、向田の企画展を開いている。それだけ魅力もあり、人気が衰えないということであろう。
常設展での林芙美子、海音寺潮五郎、島尾敏雄、椋鳩十、梅崎春生らの展示も充実していて、時間はたりないほどだった。帰路には、向田邦子旧居跡を回ってもらった。
初出:「内野光子のブログ」2023.12.6より許可を得て転載
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