書評 『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治著
- 2014年 6月 29日
- カルチャー
- 宮内広利宮沢賢治書評
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと、学問とは何か、宗教とは何かを死の底に触れるような場所から教えてくれる場面にでくわす。宮沢賢治があたかも死という背景の中に浮かんだところから、人間がものを考えることは一体何なのかを問いつめているからだとおもえる。
『銀河鉄道の夜』の魅力はふたつある。ひとつは、天の川の川原にそって、列車の窓から繰り拡げられる目線そのものの特異さである。決して、真空の宇宙空間を遊泳しているのではなく、青さを基調にする現実の世界を四次元のスクリーンに映したら、天の川の透きとおったパノラマや大地の果てまで続くすすきやとうもろこし畑は、きっと、このようにみえるにちがいないとおもわせる。そこでは、現実の日々の暮らしと同じように、川原には水晶のような水が流れ、魚をとるため発破をしかけたり、考古学調査があったり、リンゴを作る農園があったり、アメリカの大地のようにインディアンがいたりする。幻想的にはちがいないが、現実との接点は保ち続けているのである。
もうひとつは、宮沢賢治の思想が読者にはっきりと読みとれるように描かれている箇所である。この思想的体験にも二色ある。第一は、彼のユートピア思想が点綴するようにあらわれていることだ。たとえば、銀河鉄道自体、スティームや電気で動くのではなく、ただ動くように決まっているから動いている様子。また、鳥採りが瞬間移動したかのように列車の内外を往来するので、理由を聞くと「来ようとしたから来たんです」と言うところや、リンゴ園ではたいていは自分の望む種子さえ播けば、骨おることなく、ひとりでにどんどん収穫できるというところである。ここには、北国の延々と降り続く雪の中で、これから歩く道筋を飛び越したいというような空間剥離の思いや、動力も不足がちで、手仕事で冷害や害虫に悩まされながら稲や作物をつくらなければならない農作業の悪戦苦闘が反転して滲みでているからだ。
このユートピア思想については、いずれ技術の進歩によってどうにか片づくようにおもえるのだが、第二の倫理的体験は容易ではない。彼がいう「ほんとうの考え」や「ほんとうの神様」は、人々の「ほんとうの幸せ」に結合するものだから、ともすれば、わたしたちを真空の中に迷わせ、心震わせるものになって迫ってくる。つまり、ほんとうの幸せにつながるほんとうの考えやほんとうの宗教という言語思想への問いかけは、かつて、わたしたちの日常では発せられることのなかった設問におもえてならない。こういう初源の問いかけは、 早熟の子供のものにちがいないから、もし、大人たちが子供からこのような問いかけをされるとすれば、なんと答えたらいいか、皆目、見当がつかないのだ。
それでも、ほんとうの考えに近づく方法への入口は、主人公のジョバンニがどこまでも行くことのできる銀河鉄道の切符のことを知り、あらゆる時代の世界の歴史やキリスト教の歴史やが、「ぽかんとがらんどう」のように消えた瞬間からはじまっている。しかし、キリスト教の歴史は、青年や姉弟の敬虔さや善意の塊によって形づくられているのだが、それでも、歴史の裏面には、敬虔さや善意だけでははかり知れない中性の悪意で満たされているといってもよい。それだけに、ジョバンニの「ぽかんとがらんどう」の感情は、このような神が守っていた「聖」と「俗」、「善」と「悪」の囲いを期せずして解き放って、異次元の世界に誘う発端になっている。そのあらわれは、鳥採りという登場人物によって密かに予感されている。
この鳥採りは、がさつな言葉使いと容貌と不思議な瞬間移動の能力をあわせもった人物として描かれており、他の人物とはちがって、きわだって現実感をもった味わいをかもしだしている。賢治は、一見して夢の世界を走り続ける銀河鉄道にはふさわしくない風貌と個性を登場させることによって、作品の段差をつくりだすことに成功している。だからこそ、ジョバンニもカルパネイラも、この鳥採りがいなくなって、妙に寂しくなり、もっとこの人の話しを聞いておけばよかったとか、この人のために尽くしてあげたいという感情にとらわれる。つまり、この人物に象徴されているのは、いわば、「善」と「悪」がまじりあった俗世の還流場所にほかならないのである。賢治はこの合流地点において、ほんとうの考えとほんとうの宗教のまじわりを仄めかしたのだとおもう。わたしは、この鳥採りが登場しなければ、この銀河鉄道は、単なる天国へつうじる聖域にすぎなかったとおもう。この鳥採りによって、ジョバンニの切符がほんとうの幸せに向かう無限切符と気づかされたことは、とても意味深いとおもえる。
いつの世にも、ほんとうに甘ったるい聖人や、聖を振り回す俗人はいたが、人になくてはならない思いを抱かせる「聖」と「俗」が混じりあったようなほんとうの聖人はいなかった。ほんとうの考えは、聖人と俗人が交わったブラックホールのようなところに隠されている。それが見えないということは、善意や悪意が見えないということではない。もしかしたら、善意や悪意も容易に経済的関係に還元できるかもしれないのだ。わたしたちの徒労の多くは、この見えないものを無理やり見ようとして、感覚をとぎすませる錯誤からもたらされた。だが、感覚だけをいくらとぎすませても実験機械がないかぎり、ほんとうの考えは導きだせない。わたしたちは他人の微かな表情から真意を読みとり、インターネットのきれぎれの活字からひとの表情を読み取ろうとする。ほんとうの考えは、そんな感覚の探り合いの中には存在しないにもかかわらず、無駄な感覚競争の中で議論を戦わせたり、腹のさぐりあいに明け暮れしているのである。
中途半端な関係妄想は、いわば、結論のでない無限の遜りや奢りの妄想を膨らませる。死は五感ではとらえられないのだから、はじめから終りまで生きることを前提にした人間関係の感情のもつれなどは、人々の心の中にいつまでも滞留して、反動的な感覚をとぎすませるにすぎない。それなら、わたしたちの感覚でわかることとわからないことをはっきりと線引きすべきなのだ。
わたしたちはこの五感から離れてはじめて、ほんとうの考えや嘘の考えを識別し、ほんとうの幸せに近づく土台を築くことができるにちがいない。『銀河鉄道の夜』の背景が、全体をとおして、青や紫の色調で統一されているのは、その土台を築くために不可欠の条件になっていた。つまり、青や紫に抽出された死の面影は、乱反射するような視線の所在を表現して、関係妄想から外れた可視と不可視の闘いである死の普遍化という条件でのみ、ほんとうの考えが満たされることを物語っているのである。
わたしたちの言語思想は、もはや、関係妄想の世界から飛び立たなければならないとおもう。ここでいう関係妄想とは、生と死を直線で結びつける思考方法を指している。死はほんとうの幸せを考えるときに必要条件なのだが、生と死が同じ時間の推移によって関連づけられるなら、必ず、「聖」と「俗」の対立や「善悪」の妄想から逃れられなくなる。いってみれば、あらゆる言語思想は、生と死の往来がわたしたちをさらに言葉の限界に近づけ、死の中で死と闘うことにほかならないが、その死は、あくまでも不可視のものでなければならないのである。
わたしたちが言葉の初源にこだわるのは、発生と死滅、つまり、死の問題が俎上にのぼってきたからである。発生と死滅のつらなりからすれば、ものの発生は死滅を前提にし、逆に、その死滅は発生を前提にするから、人間ならDNAの発見は生死を支配する。そこでは、死の世界は胎内回帰と同じとみなしてもおかしくない。つまり、インプットとアウトプットは正確に重なる。宮沢賢治の言い廻しを借りれば、昔は、水は酸素と水素からできていることを知らないで、水銀と塩でできていると言ったりしてきた。それと同じように、普遍概念としての自然は変異しており、もちろん、その自然の上に組み立てられてきた経済も社会も変異していなければならないはずなのだ。言語思想は発生と死滅を内包した場所から、自然や人間を考えなければならないことを教えてくれる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0069:140629〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。