書評 『閉ざされた言語空間』 江藤淳著
- 2014年 7月 6日
- カルチャー
- 『閉ざされた言語空間』宮内広利書評
わたしたちは、戦後体験の意味するところを、敗戦によって求心するシンボルをなくしたナショナリズムの行方の問題として、私的感性・意志の横への拡散化の過程ととらえてきた。その意味からいうと、敗戦はまちがいなく、日本人すべての胸中に近代史の断層を招き入れた。それにひきかえ、江藤淳の占領史話は、敗戦による大衆ナショナリズムの横への拡散とは異なり、ネガフィルムのように裏返しの陰影を描いた。彼にとって大衆意識の断層は、戦争の終結による混乱そのものからではなく、その混乱を収束させた勢力によってもたらされたようにみえた。しかも、混乱の収束のやり方はより巧妙であったので、断層さえ見分けがつかないほど、その後の日本人の無意識に奥深く浸潤し、いつ終わるかも見通しがたたない新たな米国との戦争の絶望感に誘われたと言われている。
占領軍GHQの検閲は徹底をきわめ、戦後の言語表現すべてにわたって、「日本人的なるもの」に「反動的」とレッテルを貼り、口を封じただけではない。検閲の対象は反米的な言説や検閲それ自体に対してもおよび、その結果、言葉の呪縛は、米軍の直接的な検閲が廃止されてもなお、日本人の意識の奥深くに無意識の澱を植えつけた。さらに、戦後文学の空疎さも、その原因をさかのぼれば、この呪縛の構造の内部に閉じ込められたというのである。これらについて、江藤はうず高く積まれた資料の厚さをもって検証に応えようとした。
検閲の実態が次第に明らかになり、日本国憲法の制定過程にさえおよんでいたことでさらに驚きがつけ加わる。江藤のいう1946年憲法=日本国憲法は、以後の検閲によって巧妙に隠蔽されてはいるものの、実際に起草に関与したのはGHQ民政局であった。その上、その憲法たるや、第9条2項に示されているように、米国に対して日本国そのものが将来にわたって脅威にならないようにするために交戦権を否定することで、「主権制限条項」を含んでいたのである。
江藤にすれば、もはや、わが国は国家ではなく「国家なき国家」に転落したといっても過言ではなかった。そして、占領憲法起草の過程を発端に、わが国と米国の関係は、≪保守改憲派、革新護憲派、および米国とのあいだに存在する黙契の関係、反発力というよりはむしろ相互に不思議な親和力が作用しあっている≫関係を密教としてきた。戦後憲法が改正されないかぎり、その政治的駆け引きは再生産されて現在をも拘束し、その後、経済力をつけてきたわが国と米国の力関係のうちに見られる現実とのギャップを拡げながら、「日米戦争は終わっていない」という江藤の確信につながった。
本多秋五との間に交わされたいわゆる「無条件降伏」論争も、彼の戦後史が近代史総体の中で、過程としてではなく昭和20年に停止した時間を逆に押し戻した価値観のありかを浮き彫りにした点で、その後の江藤の方向を決定づけた。江藤は、「自由」と「禁忌」の対句をつうじて、いわば、戦前の天皇制国家を一方的に「闇」として断罪し、逆に、戦後民主主義社会を「進歩」とする通念を反転する。つまり、明治維新後の近代国家形成の道筋からすれば、依然として続く占領米軍の威圧の元での拘禁状態の方が例外であるとしたのである。その上で、戦争と敗戦の意味を曖昧にやりすごし、占領軍にあてがわれた戦後民主主義に自己同一化してしまった戦後知識人の内面の方が「闇」と呼ぶにふさわしいとした。
彼からすれば、戦後社会は今でも米国の占領下にあるというのは、文学的メタファ-でもなければ、架空のイデオロギ-でもなく、「国家なき国家」でしかありえない日本の受け入れている現実であった。彼の口吻は、明治以降、あれほど莫大な犠牲を払い、懸命に近代国家の礎を築いてきた営為が、戦争によって水泡に帰したばかりか、戦後はその理想と現実のギャップを埋めるてだてもないまま、わが国が米国の世界戦略のレ-ルの上を走っていることに向けられている。米国の世界戦略としてばかりか、その射程は文化の根底にまでおよび、無残にも骨抜きにされ、「禁忌」に支配された言語空間に気づこうともしていない。戦後史の核心は、言語をめぐる「自由」と「禁忌」の周辺に切実さをもとめられた。
江藤にとって、わが国の戦後は米国の占領政策の中で決定づけられ、ほんとうの「自由」を奪われ続けてきた。しかし、1970年以降、日米間の関係は重大な節目を迎え、経済的にはほとんど対等な立場にまでなった。また、米国は世界戦略の上でも重大な転換を迫られ、米国主導の世界体制は大きく揺らぎ、混迷と移行の時代を迎えている。それにもかかわらず、精神的鎖国状態の日本は、あいかわらず、米国に押しつけられた「禁忌」を保守しながら、鏡貼りの密室で堂々巡りの議論に明け暮れしているありさまということになる。
これを江藤は「閉ざされた言語空間」と呼び、わが国の主権の回復と世界の現実の直視を訴える。また、文学における政治の論理の横行は、この言語空間の閉鎖性と正確に照応すると考えられた。当時、江藤が理事をつとめていたペンクラブの中さえ、ペンの政治は堂々と行使され、ユダのペンは反対派圧殺に汲々としている実態があり、「私」としての立場を固守する批評の立場こそが、文学を政治から守る唯一の方法であると述べられている。ペンの政治学は、「自由」と「平和」を誰もが認める薄められた心理の高処を後ろ盾に、「私」の周囲に「禁忌」を貼りめぐらしているとされた。
しかし、江藤の場合、こういう「私」の逼迫した被虐状況の認識や言語の拘禁感に対する失意と抵抗の舞台は、残念ながら、占領からはじまった戦後という単色の世界に限定されていた。戦後と「私」に関係づけられた固有の認識は、戦後そのものの舞台が変質していくとき、仮構の舞台装置を求めることになりかねない。この内省が欠如しているから、彼にとって敵は仮構としての「私」たちでしかなくなる。
生前の江藤からは、「私」の言語の危機は、戦後世界や米軍からもたらされる性質のものではないのではないか、ほんとうの敵はむしろ、この膨大にふくれあがった大衆消費社会の時間のサイクル自体にあるのではないかという肉声は聞けなかった。わたしには大衆消費社会からくる「私」の窒息感、客体化こそが、彼に戦後の「閉ざされた言語空間」という仮構の舞台を設定する理由を与えたようにおもえる。「私」の主体の変容は、それ自体としてとらえられるものではなく、奪われた時間の質量に応じて計測されるものだ。だとすれば、どこからくるか不明な漠然とした不安、焦りの感情が増せばますほど、敵は「私」の外側に投射され、戦後占領期に居座った江藤の想像上の戦後と「私」の関係を妖しく照らしだす。
江藤は、「閉ざされた言語空間」のこちら側で、もっとむきになって戦後の大衆社会のもうひとつの現実と対面すべきであったのだ。もしも、感受性の差異というのなら、自身の初期の文体論に立ち戻って考えてみればよかった。「現実」や「他者」は概念として抽象化すると、いかなる場合でも言葉の風化を避けることができない。また、イメ-ジが先行し、言語をあと押しする江藤の方法にとっては、その概念が大衆社会状況に晒されなくなり、目前の微妙なイメ-ジの転移に言語が追いつかなくなった時点で、「現実」や「他者」は、具体性をもたなくなる。このため、イメ-ジが拡がらず、時間に圧迫され、時計の針が逆回りして、たどりついたのが縮退化した「国家」意識であった。なぜなら、経済社会構成の膨大化によって、理念としての「現実」や「他者」が、ただ生活者の感慨と同背丈のイメ-ジに納まりきれない社会的背景が横たわっていたからである。
このようなイメージや概念の意味変容は、1970年代中頃から80年頃までの、ちょうど高度成長経済の爛熟期と符合していた。ひとびとは経済的豊かさの中で、戦後大衆意識は一階梯を終え、新たなステップを用意していた。その頃からわたしたちは、戦後の文学史を大衆意識における「私的感性・意志」のゆくえという方法で考えることが大切だとおもってきた。文学が文学意識の表出とされるかぎり、社会意識の関係が歴史と交差する場所にのみ、言語の現実性がうまれると考えるからである。つまり、このとき、「私的感性・意志」は解体されつつあったのだ。この点は戦後のナショナリズムの動向とも結びつき、ひとびとの生活意識に照らして、文学意識を測定するきわめて有効な基準と考えられたとおもう。
1990年代に入って、ようやくポストモダンのかけ声が遠巻きに聞こえるようになって、わたしたちは江藤の言説に困惑し、もはや文学的位置づけをするのが難しくなった。彼が文学意識の必然としてこだわっている戦後史論は、政治情勢論の観点から眺めると、わたしたちが60年、70年安保闘争を経過する過程でつかんだ常識の範囲に属していたが、ナショナリズムを煽る点については、まるで正反対の方角を向いていたからである。
それでは、わたしはなぜ、江藤淳にこだわっていたのだろうか。今からおもいかえすと、第一は、何度も反芻できる文体に秘められたある種の安息感に起因していたようにおもう。わたしたちは何ものかに追われるように、前へ前へとつんのめるように生き急いでいるが、江藤の作品には、わたしたちを立ち止まらせてくれるものがあった。仕事を終え、深夜、布団の中で寝転がって読み進んでも、時の経つのも忘れさせる文体の毒気のようなものがあって、不思議なことにそれからは他の作家の文体が妙に空疎で読むにたえられなくなってくる。
この無意識のうちに吸いこまれる誘惑について、現在の言葉の水準のなかで、文体の秘密としてときほぐしてみようと思い立ったのが精読をはじめた理由だった。やや意識的になるうちに、江藤のような近代史、現代史の俯瞰や抗いを続けられるなら、気分が和らぐような気がしてきはじめたが、それはどこかで彼の文体の強さにおもねるような気もした。そして、正直に告白すると、江藤の敷いたレールにのってトロッコでゴトンゴトンと揺られながら居眠りし続けたいとさえおもうようになったのだが、同時に、それは先行きが細るような、危ういなという予感も抱いた。わたしには文学的な死の意味などわかりようもないが、突然、江藤が66歳という若さで自殺したと聞いた時には、なぜか、思いあたるものがあった。
それから頭をよぎりはじめたのは、江藤の文学、近代史、現代史に対する視角が、本格的に批評するほど現在のアクチュアリティに耐えられるのか、という疑問であった。江藤の方法は、現在、文学そのものが、進歩的、保守的を問わず、現実社会の底辺からサブカルチャ-の台頭と大衆意識の知的アパシ-の波頭をまともに被っている状況において、そのままで社会に対する有効な武器たりえるのだろうか、という疑念をぬぐうことができなくなってきたのだ。
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