《革命の足元の理論の確認》1.視覚言語論2.世代について3.革命的人間と共同主観性、理性と心的自由について
- 2016年 5月 9日
- 交流の広場
- 武田明
日本的5月革命について(2016)(「僕だけがいない街」の「東京演義」)
http://revolutio.exblog.jp/23127598/
《その後の「勝利の方程式」と日本共産党研究の加算進展状況》〈2016年ゴールデンウィーク心象巡業記録として〉
ゴールデンウィーク中も様々な心象風景が過っていったことだろう。
あるいは年配の方、若い方にも読みづらい理解しづらい文章かも知れませんが、純粋なる魂、ツアラトウストラの魂へ問う一文になるかも知れません。(しかし理解しづらいものではないつもりですがどうでしょうか?)
根底的に取り残していた問題を一気に語りたいとも思っていたのだが、流石に、煮詰まってしまうものも多く、筆が止まり断片として置き去りにする文章、それは、初期マル以来の伝統ともなっていると言うのは逃げ道だろうか。
まずは、
1.《言語は視覚的にも存在する》
2.《それぞれ世代のこだわりについて》
3.《成功した共産党・労働党の現在について・北朝鮮党大会について》
大雑把に、時事的に降り起こっているものを上記主題において片付けたいわけであるが、これは、やはり、歴史的な普遍性を含む問題意識でもある故、容易ではなく、やはり、導入部分に留まらざるをえないだろう。
序《勝利の方程式》その展開と小連携について
現行、左派リベラルの「籠城場所」は、僕自身としては、「ちきゅう座」の他に、「植草一秀ブログ」「阿修羅掲示板」の範囲で精一杯であり、一日の回覧指針として見出していたわけであるが、外の世界は、やはり、2チャンネル以来の乱れの中にあり、不毛なる幼稚性の発露は、中国、北朝鮮のネット規制を言えない、両極をなしているのであり、これについても言及していくと共に、
全てが、哲学化、純文学化、そして、音楽は、クラッシクへと洗練された世界が良いのかと言うとそれも別物であるが、
情報は、整理され、凝縮され、まとまっていてこそ意味を成すものであるのであるが、その洗練されたる「情報」とは何であるのか?
その個人差は、どの様に点在しているのかについても言及されねばならないだろう。
《視覚言語論》《世代論》《共産党・労働党論》にまたがってしまう宿命を最初から背負っていると言うわけである。
僕自身は、まず、僕自身についての重要で、解き明かしたいQ&Aについては、スピノザ的なる仕方の中にもあり、自己の方程式を他者にも伝える方法論を次に考察する仕方の中で、投稿もある意味、自動機械的方向性を備えないわけではない。真摯に心命じるママに記述していく精確さをきしたいとするばかりでしかない。
勝つことへのこだわりは、ツイキャスの「座間宮ガレイ」氏の自己分析にあり、そして、植草一秀ブログの展開であり、「デモを目的化してはならない、手段と目的、アベ政治に勝つ展開を必要としているし、その正当性は、明らかに、こちらがわにあるのである」この論を僕は、踏襲しているわけである。
急に、即物的になるが、28日前後の投稿については、対話連携性が、若干であるが成立している印象を受けていて、澤藤統一郎先生の自己分析については、アベ政治を許さない!「アベ政治十の大罪と七つの被害」
http://chikyuza.net/archives/62390
こちらにまとまっていた様に思える。それを、何故、世間は、共有できずにいるのだろうか?この分析が、次の表現上広報上の問題としてあるわけである事に共感する。
●前回の日本共産党研究と勝利の方程式、北海道五区補選の問題を問うのは、
http://chikyuza.net/archives/62384
同じ、時事的土壌であり、
数式版「オールジャパン参院選勝利の方程式」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-9fd0.html
●どぶ板選挙方法論と「野党共闘」の具体的問いの模索
北海道5区補選・共闘の「成果」と「教訓」についてー郷路征記君の意見紹介
http://chikyuza.net/archives/62423
更に、植草一秀先生は、「ちきゅう座」左派リベラルに期待して下さっていると僕は、ブログ主題からやはり、随所に感じている。
初めてお便り申し上げます―オバマが「はじめに謝罪すべき」という意見に賛成
http://chikyuza.net/archives/62686
に合わせて、昼過ぎに書かれたと思われる
知られざる原爆投下の真実とオバマ広島訪問
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-77ea.html
植草先生のわかり易い文章と優しさを感じているのは、
日本国内的にもアジア的にも?唯一と言える「硬派なる左派リベラル」の拠点である「ちきゅう座」への期待であり、市民連合、岩上安身IWJ、鳩山元首相との連携同様に、一躍を担ってほしいと言うまなざしがあると思い、また、僕自身、クラッシクアカデミア拠点である「ちきゅう座」と現代政治経済学としての植草一秀ブログの接合を求めてもいるが、まだまだ、クラッシクと現代音楽的な不協和音は、埋まられない溝としてあるのも感じているのだ。
僕としては、寄り道的には、藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました
http://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru
こちらに、興味が湧いたりしていたのは、コッポラ『地獄の黙示録』ファンでもあったからだ。
(藤永茂氏のブログではないのでは?)
5月の日程は、「ちきゅう座」的にも詰まっているようで、やはり、5月革命、生誕祭の季節でもあり、力が入っていると言うわけであるのだろうか?
それを喜ばずにはいられないが、私用により、地方巡業中であるのでインターネット上で、その成果を推し量るしかないのが残念であるが、その楽しみは、2017年度、2018年度に回しても更に、期待が膨らむばかりにも感じる。
北海道五区補選の分析は、座間宮ガレイ氏もツイキャスにて行っている訳であるが、文章化が不得意である視聴者向けでもあり、映像日記の方式として、山本太郎氏、三宅雪子氏、そして座間宮ガレイ氏は、ラジオ以上に抜きんでてきて面白味を醸し出しているのではないかと感じだしている。(ブロガー世代とツイッター短文世代のギャップもここにもあるのだ。)
左派リベラルの範囲にしかアピールできない金子勝氏よりは、民進党の金子洋一氏を褒めたりする。
保守をも取り込む方法論を問いつつ、煮詰まるとカラオケに行ったり、ファミレスに出かけたり、助長に流れている要素も良さであるかもしれない。
更に、余談であるのだが、
橋下徹対野田正彰訴訟判決再論ー「専門家に表現の自由などない」という投稿に接して
http://chikyuza.net/archives/62646
専門家に表現の自由などない / 野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安。
http://chikyuza.net/archives/62380
野田正彰医師記事に違法性はないー大阪高裁・橋下徹(元知事)逆転敗訴の意味
http://chikyuza.net/archives/62271
この連続性も興味深い情報に満ち溢れていた。
憲法第九条の落とし穴~いくらでも戦争できます。護憲派ハ戦争絶対阻止派ニアラズ
http://chikyuza.net/archives/62583
この一文が、夕方掲載された翌日の展開であったからだ。
法理論的にも現行の政治的均衡からしても、TPPの問題としての視点としても指摘したくないような穴だらけであって、逆に、座間宮ガレイ氏的に、「保守」をも取り込みたいが故に、敢えて、田原総一朗氏が、西部 邁氏に当時の「朝まで生テレビ」が左翼に席巻されていたから風穴を開けるように、「悪役」を演じて欲しい言う「泣いた赤鬼」の青鬼を演じたいとしているのだろうか?と本当は、澤藤統一郎先生も論理的一貫性としてのちきゅう座的ではない要素を感じて、遠巻きに、直接的な〈札幌のサル〉氏のやや空いての反証へと止揚していったのではないかと深読みさせられてしまう。
パナマ文書の提供者が初の声明、「革命」を予見
http://revolutio.exblog.jp/23125333/
農本主義と国際主義とは?TPPの対立概念がそこにはない事は、昨日一昨日の岩上安身IWJ饗宴Ⅳ第1部第2部からでも明らかであるだろうし何故、無視して、古典理論の枠組みに嵌めようとしているのか?
アベ政治式国民の欺きそのままの単純化を澤藤統一郎先生もちきゅう座的論理の混乱、一貫性のなさ、分らない人には、説明する役割は、これまで中野@紀州さんの役割であったが、お仕事も大詰めで構ってはいられないのか?
僕として雑感を入れざる負えないのは、折角、〈勝利の方程式〉〈どぶ板選挙理論〉〈野党共闘〉前のアソシエーション連携としての不協和音としての混乱を今更のように持ち込んでいるのは、得策ではないと法理論的にもきっと、澤藤統一郎先生、植草一秀先生も感じているが語らない範囲となっている要素に思えているからだ。
渦中の栗を拾うのが僕の論理上のどぶ板でもあるので、ここで埋めてみた次第。
さて、饒舌に、語っていると全く、先に進まない。
1.《言語は視覚的にも存在する》
一昨日、不意に、ツイッターにて知った「さよならパヨク」問題であり、座間宮ガレイ氏の述べている「保守を取り込む」「左派リベラルの自己満足ではない」対話の土壌に乗り出す事とは、どの様な事であるのか?
この問いである。
http://revolutio.exblog.jp/23123778/
青林堂の変色、ジャパニズム、かつての水木しげる的貧困からヘイトとしての「日本主義」的単純化は、実際、両翼性があり、
本当に、「民主集中制」や北朝鮮体制についての問いが、現代日本人の視点から遠いならひも解いて語りたい所であり、実は、「朝鮮戦争」を問う事は、「北朝鮮革命史」を問うことに他ならないのだからそれは、
http://chikyuza.net/archives/62484
こちらの展開を待ちながら序にある澤藤統一郎先生、植草一秀先生の法理論、経済理論的補完をちきゅう座丸ごとの対話補完としての延長で語る方法論も許されそうなものである。
しかし、〈日本主義〉としての根底とは何であり、チバレイ氏的転向迷い子さえも救済できない日本の知性の低迷(欺瞞性)にこそ問いが必要なようには感じないわけにはいかない。
〈日本主義〉〈維新主義〉そのものが悪いわけでもない。
しかし、どの部分から一線を画し、「コミュニズムの地平」があるのか?この問いを仕上げたいとしているだけである。
獄中で右翼が見た左翼
http://chikyuza.net/archives/62487
楠木勢対足利勢――古賀報告を理解するために
http://chikyuza.net/archives/62429
もう一人の岩田先生の展開がある。社会主義の地平にとっては、〈古代史主義?〉〈古典王朝主義?〉〈日本主義〉はどの様に位置づけられるべきかの問いをチバレイ転向論の考察、更に、青林堂の変色としての問いに絡めて展開、対話、弁証法の在り処を明確にしていきたいと言う視点である。
語りだすと長いのであるが、僕自身としては、自身としての立ち位置に迷いはない事を今は告げるにとどめる事にしておきたい。
2.《それぞれ世代のこだわりについて》草稿。
http://revolutio.exblog.jp/23122186/
まだ、永遠の未完、序説的断想となっています。
3.《成功した共産党・労働党の現在について・北朝鮮党大会について》
http://revolutio.exblog.jp/23122062/
こちらもまだまだ、断想であり、小説的に描こうとして失敗?しています。
後程、完成させていきます。
共同主観的完成として立体化させていくのが目的となっているわけです。
付録:阿修羅掲示板の動向からのゴールデンウィーク
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