今日のジャーナリズムの姿勢を鋭く問う 『米騒動とジャーナリズム 大正の米騒動から百年』
- 2017年 3月 10日
- カルチャー
- 『米騒動とジャーナリズム 大正の米騒動から百年』岩垂 弘書評
大正期の日本を震撼させた米騒動から来年(2018年)で100年になる。その記念すべき年を前に『米騒動とジャーナリズム 大正の米騒動から百年』という本が刊行された。1918年(大正7年)夏に富山県東部沿岸地域に端を発し、全国に波及した米騒動の意義を追求したものだが、騒動が全国化する上で新聞が大きな役割を果たしたことが丹念な検証を通じて明らかにされており、はしなくも今日のジャーナリズムの姿勢を鋭く問う内容となっている。
本書は、金澤敏子(ドキュメンタリスト・細川嘉六ふるさと研究会代表)、向井嘉之(ジャーナリスト)、阿部不二子(細川嘉六ふるさと研究会顧問)、瀬谷實(ジャパン・プレス・サービス代表取締役)の4氏の共著である。いずれも細川嘉六ふるさと研究会のメンバーで、金澤、向井、阿部の3氏は富山県、瀬谷氏は東京都の在住だ。
細川嘉六は富山県出身の国際政治学者・社会評論家。東京帝国大学を卒業後、大阪住友総本店、読売新聞社などに勤務するが、その後、大原社会問題研究所に入所、労働問題や植民地問題を研究する。が、戦時下最大の言論弾圧事件とされる「横浜事件」に連座し逮捕される。戦後、第1回の参院議員選挙で共産党公認で全国区に立候補、当選する。
金澤さんらは、郷土出身の細川の学問的業績を調べて行くうちに、細川が米騒動の詳細を最初に著した、いわば米騒動研究の先覚者であることを知り、米騒動の全容と歴史的意義を改めて解明する研究を思い立つ。研究は4年に及び、その集大成が本書である。
本書によれば、1918年(大正7年)7月に富山県で起きた米騒動は「越中の女一揆」と呼ばれる。そのことからも分かるように、騒動の主役はおかかたち(女性たち)だった。
本書によると、大正期の富山県は日本有数の米産地で、ここでつくられた米は主として富山湾の海岸から船で北海道へ送られていた。ところが、1914年(大正3年)に第1次世界大戦が始まったことで日本経済が好景気となり、米の需要が急増、米価が暴騰した。
この影響をもろに受けたのが、富山湾沿岸の漁師町の人たちだった。もともと田んぼを持たず、貧しかった漁師町の人々は値段が高騰した米を買えなくなり、馬鈴薯で飢えをしのがざるを得なくなったからだった。
こうした事態に声を上げたのが、台所を預かっていたおかかたちだった。著者の1人、金澤さんが言う。「相次ぐ米の暴騰に怒ったおかかたちは、米の買い占めなどで暴利をむさぼる米商人や富豪に対し、浜での米の積み出し作業阻止と米の安売りを強く要求しました。おかかたちは米を求め、まさに生きるために立ち上がったのです。儲けのためなら人間の命がどうなっても良いのかと抗議する、やむにやまれぬ必死の闘いでした」。これが、米騒動の発端だったという。
金澤さんによると、この騒動は富山湾から全国津々浦々に伝わり、瞬く間に1道3府38県に広がった。騒動あるいは暴動に加わった民衆は数十万人にのぼった。政府は120地点に延べ9万2000人の軍隊を出動させて鎮圧にあたったが、全国で死者20数人、重傷者1000人余り、起訴された人7700人、そして死刑2人という痛ましい結果を残したという。一方、政府側は同年9月に寺内正毅内閣(軍人・官僚で組織されていた)が総辞職し、日本初の政党内閣の原敬内閣が誕生する。
「米騒動は、日本の近代にあって、明治と昭和のはざまという時代に、新しい『民』の存在を確認することになったのです。米騒動は日本の最初の民衆運動であったと言えます」と金澤さん。
ところで、著者たちが米騒動の全容を明らかにする上で役に立ったのは新聞だった。なぜなら、米騒動に関する資料はそう多くなかったからである。調べてみると、当時の新聞が米騒動を報道していた。そこで、著者たちはまず、米騒動に関する当時の新聞記事の収集に努め、富山県内の5紙、全国紙では20紙余りを収集した。こうして、地方紙、全国紙合わせて6000点の新聞記事が集まった。その一点一点を読解して行った。
その結果、明らかになったのは、「富山日報」「北陸タイムス」「高岡新報」「北陸政報」などの地元紙が騒動の経過を詳細に報じていたことだった。
例えば、1918年(大正7年)7月25日付の「富山日報」はこう書く。
「下新川郡魚津町の漁民は近来の不漁続きに痛く困憊(こんぱい)し、生活難を訴ふる声日に高まり、果ては不穏の形勢を醸(かも)すに至りしは昨報の如くなるが、二十三日も汽船伊吹丸が北海道行きの米を積み取る為入港し、艀船(はしけぶね)にて積込みの荷役中、かくと聞きし細民等は、そは一大事也、さなきだに価格騰貴せる米を他国へ持ち行かれては、品不足となり益々(ますます)暴騰すべしとの懸念より、群を成して海岸に駆け付け米を積ませじと大騒動に及びし為、仲仕人夫(なかしにんぷ)も其(その)気勢に恐れを懐(いだ)き遂に積込みを中止したり、依(よ)って伊吹丸乗組員も此上(このうえ)群集せる細民と争うは危険なりと考え、目的の積込みを中止し早々に錨を抜いて北海道に向け出帆せり」
この記事では、騒動に加わった人たちを「細民」としているが、他紙は「貧民」「女房共」「女軍」「女群」「女人団」「婦女団」などといった呼称を使っている。いずれにせよ、地元紙の報道は極めて積極的であった。
しかも、富山県で発生した米騒動が全国化するきっかけとなったのも地元紙の報道であった。というのは、「高岡新報」の米騒動第1報(1918年8月4日付)が、翌8月5日付の大阪朝日新聞、大阪毎日新聞に掲載されたからである。それは「女軍米屋に薄(せま)る」「百七八十名は三隊に分れて」「町有志及び米屋を襲ふ」という3本見出しの記事だったが、これが全国紙に掲載されたことにより全国ニースとして全国をかけめぐった。これを機に米騒動は全国的規模に拡大する。米騒動が全国に知られるようになったのはメディアの力だったのだ。
これに対し、寺内内閣は騒動鎮圧のために軍隊を出動させるが、その一方で、報道機関に対し米騒動に関する記事の掲載禁止命令を出す。一部の新聞は発売禁止処分を受ける。新聞社側はこれに激しく反発し、各地で「寺内内閣の非違を弾劾し、其引責辞職を期す」記者大会が開かれる。そうした中で、同年8月25日に大阪で開かれた関西記者大会を報じた同26日付の大阪朝日新聞夕刊の記事が、政府に新聞弾圧の口実を与え、後に「白虹事件」と言われるようになる筆禍事件が起こる。
本書の著者の1人の向井嘉之氏は、本書の中でこうつづる。
「米騒動ではジャーナリズムは明らかに民衆とともにあった。大正の米騒動では、少なくともジャーナリズムは民衆の視座から権力と対峙する峰を作った」
そして、同氏はこう続ける。「戦後七〇年が過ぎた。そして民衆が全国で蜂起した米騒動から一〇〇年になる。筆者は今、これからの言論のゆくえ、ジャーナリズムのあり方に危うさを感じている。今こそ、『民衆』をキーワードにジャーナリズムを問い直す必要があるのではないかと思う。『民衆』という言葉がもし現代になじまないのであれば、『市民』と置き換えてもいい」
1月21日、富山市内で『それは米と新聞から始まった』と題する講演会があった。本書が2016年第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞したことから、それを記念する催しで、著者4人がこぞって登壇した。向井氏も『米騒動とジャーナリズム』と題して講演、米騒動で新聞が果たした役割を語ったが、その中で、「新聞の役割は民主主義を強化することと、権力を監視することだ」と述べ、「なのに、今のジャーナリズムを見ていると、言論への権力の威圧が続いているのに、新聞社の社長らが首相と会食したりしている。そんなことでいいのか」と疑問を投げかけた。
「米騒動とジャーナリズム 大正の米騒動から百年」の発行所は梧桐書院(東京都千代田区神田和泉町1-7-1。℡03-5825-3620)。407ページ。定価2000円(税別)
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