【政治と医学】①マルクスアレルギーについて。②ピケティからマルクスへ。③維新と革命についてなど。《認知症は防げるのに防がない社会的構造2》
- 2016年 2月 27日
- 交流の広場
- 武田明
序
報道ステーションの2月25日(木)の憲法の話は核心的で良かった。
そして、これから始まる「朝まで生テレビ」もこの続きの様な話のようだ。
サンデーモーニング
報道ステーション
ニュース23
クローズアップ現代
そして、最近少し元気がないかな?「報道特集」は、まだ良質なジャーナリズムを貫いているようにも思えている。
大阪の自動車事故が、連日トップニュースであったが、こちらも木村草太先生のコメントの通りでなかったかと思う。
認知症と交通事故を比較して書いた前投稿からも同意するものが多かった。
http://chikyuza.net/archives/60483
第1部 《認知症は防げるのに防がない社会的構造2》
政治が退廃していて、上記の圧力を受けている番組が辛うじて質を保っているが、メディアの大半が腐敗していて、医学が、キューバの様に、大衆に開かれていない密室である故の悲劇があるのだとしたならそれに対する情報を横に広げていく事が必要なのではないかと「ちきゅう座」にても第一に強調したいことは、《認知症は防げるのに防がない社会的構造》である。この事を繰り返し広報したい。
介護は老いと共に仕方がない事だと考えている者。
介護離職に甘んじる者も施設によって寿命を縮められていようとも甘んじるしかない仕事人間であり続けるとしても身近な人々に対して無頓着であったり、命を考えずに来た歴史が、第二次世界大戦の悲劇でもあり、言葉にも尽くせない広島・長崎から福島にまで通じるその悲劇を日本全体で悔恨として共有していけない「情報弱者」「教育弱者」としての貧困の在り方は何であるのか?
「人の事ばかり考えていては人生を楽しめない」
そう考える者のバライティ番組、アニメ文化音楽文化になってしまっているのだろうか?
しかし、かつては、手塚治虫から白土三平、映画も文学も社会を反映していたにも関わらず、何によって骨抜きにされてしまったと言うのだろうか?「安倍政治を断じて許してはならない」
http://revolutio.exblog.jp/22923131/
政治やメディアが抑えられ、そして、人間の生死に根本的つながりを持つ医学も商品としての断片化と階級化されつつあるTPPに至るまでの危機は、大部分の大衆には伝えられずにある「情報弱者」「貧困」を問わねばならないと同時に、「ちきゅう座」発でも横に情報を伝え、広報するつながりを持たねばならない時ではないだろうか?
資本主義的独房、収容所に誰もが閉じ込められている。
それ故の悲劇としての結語としての「認知症」としての病理が襲い掛かっている事をまず、どうにかしなくてはならないのではないだろうか?
《認知症は防げるのに防がない社会的構造》
キューバ革命に学ぶ真の医学革命を共同体経済=社会主義と僕は、考える。
貧しくとも、今井正や山田洋二監督の映画は、幸福な貧しさである。
バルザックの「ゴリオ爺さん」子供に裏切られた親の姿など、悲劇の生涯の在り方を現代的に描き替えるべきではないだろうか?
心の貧困が、「認知症」と言う社会的病理を生み出し、まさに、19世紀の肺病、20世紀の神経症、そして、21世紀の認知症それこそが、資本主義的病理の実体でもあり、医学の不備として、施設の人格破壊状況として告発する拠点と「知の協働」を築いていかねばならない時の様に僕は感じている。
更に、具体的に書きだしていきたいところであるが、「ちきゅう座」では、社会問題一般への興味もあり、理論経済学への興味もあり、並行しながら徐々に核心へと迫って行けたならと考えずにはいられない。
認知症問題は、サルトル、ニーチェだけではなく、明日は我が身であり、若者へ、是非、サンデーモーニング「風をよむ」にて姜尚中氏が述べていた様に、隔離せずオープンにしていく事、その中で、「人間性の回復」があり、フーコーの「狂気の歴史」「監獄の誕生」としての資本主義的独房にある自身の精神さえ解放する事にも行き着くのではないのかと言うのが、手塚治虫の『火の鳥』の様に生命を問うライフワークとも僕自身にとってなっているのだ。
《その命(心)人格、人間の尊厳と良心を全力で救う社会を作りたい》
これである。
第2部〔特大付録:共産主義アレルギーと現代貧困「赤狩り」から「ヘイト」までを考える。〕
サンダース氏の民主社会主義は、マルクス的ではなく、ピケティ的「ウォール街を包囲せよ」的ではないかと考えている。
格差、教育格差(=情報弱者性)を問題とするのであるが、フリッツ・ラングの「メトロポリス」の様に、労働者と資本家が、最後に握手する『共存学』=(革命ではなく、改革、もしくは、修正)そのジレンマの様に僕は、感じられている。
それよりは、「資本主義の終焉」を語り、「株主などいらない」と言ってのける水野和夫氏の中世的空想的社会主義の論の方が抜きんでて歴史学的ではないかと考えている次第であるのだ。現時点においては。
迂遠ではあるが、核心に迫って行けたならと考え以下のように展開する。
【維新と革命】について。
明示維新は、開国を求める西洋、そして、徳川幕府を取り囲む藩、更に、天皇を担ぎ出す構図の中で成立したのは何故か?
外圧である海外からの近代化の波、議会主義、商業主義としての合理主義=資本主義は、フランス革命やアメリカ革命と同じ正当性を持ちながら、イギリス王朝の様に、天皇を担ぎ出す事は、当然であったのだろうか?
それを現代日本に照らし合わせると藩は、「地方自治」であり、「野党」であり、
外圧である中国や北朝鮮と言う民主主義を徹底したる人民主義平等主義は、まだまだ、不完全であり、理論としても完成されていない状況でありながら、
知的自由やアカデミズムとは、構造主義、ポストモダンとして、赤色旗を掲げ、リベラルからラディカル・リベラル(姜尚中氏命名)として、浅羽通明氏的提起まで行きついている構図となっている。
前回の岩田先生の
「市場経済理論のみと言う一次元的視座ではなく、計画経済と協議経済を加えた三重視座に立って考察している事である。もっとも、両氏は「協議経済」なる術語を用いていなかったようです。」
http://chikyuza.net/archives/60486
これが、どの様に、具体的実践的展開を持ち得ていたかこれを一つ一つ明らかにしていく必要を感じているのだ。
アメリカやヨーロッパにも陰りが見えてきているとしても力はまだまだ均衡している以上に、「市場経済」に対して、「共同体経済」としての優位として『資本論』の再構成の問題に到達して完成もしていないし、民主主義的に、広報、啓蒙にも載っていない段階で、まさに、中途半端である事の現在があるわけである。
http://chikyuza.net/archives/59627
「完全に統合された社会を志向して夢を託すのは、リアリティに欠けます。市場機構を普遍の制度として出発する以上、労働力商品化の止揚を宣揚するのは理路が通らないのではないでしょうか。」
この論理を完膚なきまで乗り越えられたのだろうか?
そもそも市場とは何であり、「共同体経済」としての自立としての広報を今後問題としていきたいのであるが、
まずは、鈴木貴子宗男親子の様な「日本共産党アレルギー」の在り方は何であるのか?
吹っ切る事の出来ない「日本共産党」の批判とは何であり、脱皮とは何か?
それをも仕上げながら、「野党共闘」の正当性、としての定立を具体的問題点としても考えねばならない。
日本にもあるマルクスアレルギーについては、「ちきゅう座」的アカデミズムの場にあっては、まさに、「情報弱者性」としての無批判精神としての安倍政治盲従と言うのは容易いのであるが、何故、説得できないのか、一強多弱に甘んじているのか?
明晰なる具体的実践的理論体系としていけていないのか?
この問いを今後、堀さげていかねばならないのだが、維新にあった外圧は、今やアメリカ、ヨーロッパ(レギュラシオン理論=民主社会主義的要素在り)アジア的には、中国、北朝鮮。
そして、ロシアである。雲の上で分裂しており、一致してはいない。
「藩」は、「地方自治」であり、「野党共闘」更に、「オール沖縄」。
徳川幕府の一強が、安倍政治の今日の危うさとなっている。
では、天皇、国体、神道とはどの様な役割を果たしているのか?
その問いを仕上げるために、岩田先生の次の投稿が認められるのではないだろうか?
神道と原発――國學院大學「共存学」への期待――
http://chikyuza.net/archives/60604
排他的ではなく「共存学」を考察する事とは何か?
花崎皋平氏の共生ではなく、ある意味、上部構造的であるのか?
神道(=国体・アィデンティティ・共同体単位)と原発(=既得権益・利潤)は、如何に「共存・学」として問われるものとなるのだろうか?
保守を説得する多数派を形成する論理とは何であるのか?
(かつての鳩山由紀夫・小沢一郎民主党革命のようにである。)
マルクスアレルギーとして、「ヨーロッパ起源の思想は、マルクス主義を含めて生産力主義=自然征服指向があり、核世界の肯定に直通する。その否定は深刻な自己否定の思想的格闘を要する。」
生産力主義批判としての硬直化の中で、狭められてきたものが、これまでにあったように思われる。
「計画経済」とは、「統制経済」の事であり、池上彰氏の述べるピラミッド建設事業であっても卑弥呼の統治であっても当てはまる故に、「共同体経済」としては、分離しつつ、
笑恵館や文化人類学的な子育ての例の様に、太古からあった価値観、資本主義に対峙する商品的断片化に対抗する価値観としての0円革命としての水や空気の様に、情報を共有する情報革命としての経済学的転回を僕は、社会主義の必然性として位置付けたいと考えている。
サンダース民主社会主義、「ピケティからマルクスへの理性批判」こそが、今後語るべき中心であり、更に、人間解放と医学革命、キューバに倣う展開こそが、問われているのではないだろうか?
この様に考えているわけである。
では、具体的に実践的に何をどの様に変えていくべきであり、変わるのかは、次からの展開となるわけである。
(もう少しで、朝まで生テレビが始まります。1:09)
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